繰り返す(2)
どうしてそんな顔をして、そんなことを言うのか。祥介と親しくしていなかったどころか顔すらも知らなかった恵からすれば、それは少しばかり奇妙な感覚だった。
(……どうして、他人で仲良くもない糸井くんが、そんなこと……)
恵の両親でさえ、恵のことなんて捨て置いたというのに。他人で関わりさえもなかった彼が、どうして誰よりも親身に寄り添ってくれるのか。
「僕、思うんだ。こうして繰り返してるってことはね、きっと神様がまだやれることがあるって言ってるんだよ。……それは『頑張れ』って応援じゃない。きっと、ほんの少し何かをすれば未来が変わるから、きっかけを探してみてって言ってくれてるんだ」
きっかけ、という言葉に、恵はつい嘲笑を漏らす。
そんなことで変わることがあるのなら、恵だってこんなに苦労はしていない。
最初は、恵が九歳の、父の不倫が明らかになった直後のことだった。
幼い恵はそれまでよりも険悪になった両親を見て、幼いなりにどうにかしなければと思っていた。しかし、具体的にはどうすれば良いのかは分からない。二人が揃っている時の、怒鳴り合いの渦中に飛び出す勇気は恵にはなかった。
そうして考えあぐねた結果、恵はまず父と二人になれる時間を探した。
不倫が発覚したての頃はまだ、外泊は多少あれど、父は夜遅くにでも家には戻ってきていた。そのため恵は、夜遅くに家に戻った父が母と言い合いをしながら部屋に戻った後の、寝るまでの時間が狙い目だと踏んだ。
いつもは寝ている時間だった。しかし恵は頑張って目を開けて、遠くから聞こえる言い合いに耳を傾ける。嫌いな騒音だ。それでも眠ってはいけないからと我慢をして、静かになった頃に布団を出ると、すぐに父の部屋へと向かった。
「お父さん」
おざなりなノックの後、部屋を開けると、ベッドに座って項垂れていた父が顔を上げた。
その表情はあまりにも冷たい。見たこともないそれに恵は少々怯んだが、それでもこれからのためにと勇気を出して父を見つめた。
「はあ? お父さん?」
それが、父の第一声である。
「俺はもうおまえの父親のつもりはないんだよ。そもそも、おまえさえ居なけりゃすんなり離婚だってできてたはずなんだ。なのにガキなんか居るからあいつも金の問題がってこっちの話を聞きやがらねえ」
自然と、恵は足を引いていた。大人の「怒り」が自身に強く向けられていることが、あまりにも恐ろしかったのだ。
そんな、明らかに怯えた恵を前に、父は容赦無く言葉を続ける。
「早く出ていけ! これ以上目の前に居られたら、おまえを殺して無理やり離婚届を出しちまいそうなんだよ!」
殺す、と言う単語に、恵はとうとう飛び出した。
母に気付かれないように部屋に戻ると、布団に潜り込んで、掛け布団を頭の上まで引っ張り上げる。
どくどくと心臓が騒いでいる。少し前まで感じていた眠気も、今はどこかに消えてしまったようだった。
殺すと言われた。恵の頭にはそればかりが浮かぶ。
(殺す、殺すって何? 私が居なかったらって……なんで? 私は何もしてないのに)
涙が滲む。母から嫌われているのはなんとなく分かっていた。恵が近くを通るたび、視界に入るたびに睨まれては気付くなという方が難しいだろう。しかしまさか父にまであんなにも深く嫌われていたとは、まさに青天の霹靂である。
これまでに、父と深く関わった記憶はない。恵が物心ついた頃から両親は仲が良くなかったために、遊んでもらった記憶など一切ないと言い切れるほどだ。
何もしていないのに嫌われているのならば、何かをすればさらに嫌われて当たり前である。それが「話しかける」という行為であったのなら、殺す、と言われたのも理解はできる。
(だけど、だって、何もしてないのに……)
そもそもどうして、嫌われてしまったのか。恵は根本のそれがその頃には分からず、結局布団の中で一人涙を流していた。
幼いなりに頑張ったのだ。恵だって、両親に仲良くしてほしいと思っているに決まっている。本当は三人で遊びに行きたかった。笑い合って手を繋いで、家族揃ってご飯を食べるのも夢に見ていた。隣に座ってテレビを観るということすらしてこなかった家族である。一般家庭の団欒がうらやましく思えるのも仕方がないだろう。
それでも、話を切り出すことさえ許されなかったのだからどうしようもない。
こればかりは、恵一人が願ったところでどうにもならないことである。
「……頑張るの? 私がまた?」
恵の声が震える。それに気付いて祥介が顔を上げると、唇を揺らして涙を堪える恵が俯いているのが見えた。
「私、お父さんにもお母さんにも要らないって言われてるのに? そんな人たち相手に、仲良くしようよって言わなきゃいけない?」
思い出すのは、父の怒った表情と、普段の我関せずの態度。
父は、恵を頑なに視界に入れようとはしなかった。もちろん母のこともである。しかし恵もまた、殺すとまで言われたことを引きずっていたために、殺されるまいと出来るだけ父の前に出ないようにと暮らしていた。
「なんで? もう嫌だから死んだじゃん。お父さんに睨まれるのも、お母さんに殴られるのも嫌。学校で上っ面で笑うのも疲れた。誰かの陰口聞いてるのも、陰口叩かれるのも疲れたの。……糸井くんには分かんないよ。だって親から殺すって言われたことも殴られたこともないんでしょ。邪魔だとか、消えろとか、おまえさえ居なかったらとか、そんなことを言われたこともないんでしょ。学校も行ってないなら変な付き合いもしてないんでしょ。無理に笑わなくていいんでしょ。私、そんな人に……『もっとできることあるよ』って言われないといけない?」
ポロポロと涙が落ちる。揺れて消えるその言葉を聞いても、祥介は何も言えなかった。
「…………ごめん。無責任なことを言って」
「そうだよ、無責任だよ。死にたいって思ったことなんかないくせに。……私だって自殺なんかしたくない。本当は生きてたい。やりたいことも、見たいものもたくさんあるんだよ」
「……うん」
「でも、そんな気持ちを忘れるくらい死にたいって思うの! それくらいのことなの! もう、無理だったの……」
そういえば、恵がここまではっきりと気持ちを吐き出したのは初めてだったかもしれない。
学校では家庭の事情なんて知られたくないからと、当たり障りなくヘラヘラと過ごしていた。そのせいで「八方美人だよね」と馬鹿にされていたのも知っている。それでも家のことを知られるより幾分マシだと、変わらない態度を貫いていた。
だから誰も、恵の事情を知らない。誰も、恵の話を聞かない。恵もまた誰に話すつもりもなく、結局吐き出すということを知らないままで今日にまでなっていた。
そうして今、八つ当たりのように祥介に言葉を吐き出して、恵は思う。
案外楽になった。
思ったことを思ったまま、何も考えず吐き出すだけで、こんなにも心は軽く変わる。
「……ごめん。僕、何も知らないのに……」
少々晴れた心情の恵の心もつゆ知らず、祥介は落ち込んだように続ける。
「だけど、僕は間宮さんには生きてほしいと思ってるんだ。……こんな現実でも、何か変えられることがあるんじゃないかって……だから……もしも一緒にやれることがあるなら、僕も頑張りたい」
どうしてそこまで。
そんな小さな言葉は、どうやら口から漏れていたらしい。祥介の目が恵をとらえて、恵はそれを理解した。
「どうしてだろうね」
答えのようで、まったく答えにはなっていない。はぐらかされたのだと気付いた恵が口を開くよりも早く、祥介は「じゃあさ」と話を変える。
「やり残したこと、やってみない?」
「……やり残したこと?」
「ベタだけどさ、可能性はあると思うんだ。……間宮さんに死んでほしいわけじゃないんだけど……もしね、やり残したことが出来たなら、生きることに希望が生まれるかもしれないだろ?」
やり残したことなら多くある。思い当たるだけでも数えきれない。恵は死の間際「もっとこうしていたら」と、確かにそう思ったのだ。
「……今更?」
「今だからだよ。……それで、どんな結果になっても、僕に話して。一人で抱えこんだら、間宮さんまた飛び降りちゃうから」
「でも……私の事情なんか重いじゃん。全然楽しくないよ。むしろ気落ちしちゃうかも」
「いいんだ。……僕は、楽しくなりたいわけじゃない」
優しい声音だった。それに引っ張られるように、止まったはずの涙が再び奥から溢れだす。
「僕はね、間宮さんのことを知りたいだけ。間宮さんのことを守りたいだけ。間宮さんに、生きていてほしい。それだけだから、楽しくなくていいんだよ。……気落ちするなら、二人でしよう? それならきっと寂しくないよ」
ヒヤリとした風が、頬を撫でる。涙が伝っているためにいっそう冷たく感じさせた風は、それでも凪いだ気持ちにさせるようだった。
そんな心地に背を押されて、恵は何度も頷いた。今まで一人で戦っていた分、恵にとっては祥介の言葉は救いである。
もう薄暗くなりかけた午後の屋上。寂寥を感じさせる色をしていたそこが、今はほんの少しだけ色付いていた
その後、祥介はすぐに「何かあったらここに来て」と住所を書いた紙を恵に差し出した。
中央総合病院のB棟三階、三〇一五室。その文字を見て、物言いたげに祥介を見た恵に気付いたのか、彼は眉を下げて笑う。
「……あのね、今は間宮さんが飛び降りた、ほんの少し前に戻ってるみたいなんだ。それだけは確かだから」
「どうして分かるの?」
少し前をなぞるような恵のその言葉にも、祥介は淡く笑うだけで、
「どうしてだろうね」
返されたのはやはり、答えにもならないそんな曖昧なものだった。
ひとまず今日は帰ろうかと、祥介と別れて恵は慌てて家に戻った。バタバタと出てきてしまったために、母に怒られるのではないかと思ったのだ。しかしそれは杞憂に終わる。恵が戻ってもリビングに居た母は何も言わず、視線すらも寄越さなかった。
いつものことであるそれに今更傷つくこともなく、恵は自室へと向かう。
頭の中には、祥介のことばかりがめぐっていた。
糸井祥介。その存在を、恵は知らない。小学校が同じだったのかなと小学校の卒業アルバムを見てみても、糸井祥介という生徒は居ない。
(……病院)
中央総合病院。その単語を思い出す。
学校にもあまり来ておらず、来ても保健室に居たというのだから、どうしてなのかはお察しというものだろう。
そのせいで引っ越して、中学からは地区が違うところに通い始めた可能性もある。
「糸井くん……」
無意識に口から漏れた。無意識であるが故に恵自身にも拾われなかったそれは、静かな部屋に余韻を残さず消える。
祥介は言っていた。やり残したことをやれば、もしかしたら生きることに希望が持てるかもしれないと。
震える拳を握りしめて、恵は力強く立ち上がる。
そうだ。最初に頑張ったのは、恵がまだ九歳の頃だった。幼いあの時には大きな「大人」が恐ろしくてすぐに逃げてしまったが、今は違う。あの頃ほど、恵も子どもなわけではない。
何かあったら自分に言えと、祥介も言ってくれた。一人ではないと思えたのが良かったのか、なんとなく、恵は今ならば上手くいくような気がしていた。
静かに部屋を出ると、なるべく音を立てないように階段を下りる。父はまだ帰る時間ではない。そのため母は今、一人でリビングに居るはずだ。
すりガラスが嵌め込まれた扉越しに、ワイドショーの声が届く。聞き覚えのある声がして、笑い声がくぐもって聞こえてきた。しかし母の声はしない。ただ黙ってテレビを見ながら、父の帰りを待っているのだろう。
堂々と入る勇気はなかった。だからこそ恵は極力静かにリビングに入ったのだが、敏感な母はすぐに振り向いた。
本能が恐怖を知らせる。目が合ってしまえば動けるわけもなく、変な汗が背を伝った。
「あ……あの……」
喉がカラカラだ。言葉が張り付いて、うまく紡げない。しかし母は相手が恵と分かるとすぐに鋭い目つきで睨み、荒い仕草で立ち上がった。
「えっと、わ、私、」
力強い足取りで向かってくる母の姿に、声が震えた。殴られる。蹴られる。髪を引っ張られて、壁に叩きつけられて。そればかりが頭に浮かび、それでも恵は恐怖で動くことができない。
恵の元までやってきた母は恵の襟元を乱暴に引っ掴むと、扉を開けてリビングの外に放り出した。最後には足で蹴られたために、その勢いで壁に思い切りぶつかる。
そんな恵の背後で、すりガラスが割れそうなほどに大きな音を立てて、扉が閉められた。
「鬱陶しい! 視界に入ってくるな! あの人が帰ってきたのかと思ったのに……あんたなんかとっとと死ね!」
よほど気が立ったらしい。少し前まで優しい気持ちだった恵には、今までと変わらないはずのその辛辣な言葉さえ、心の深くまで突き刺さる。
これまでは諦めがあった。だから受け流せていたし、辛い、悲しい、なんて感情も湧いてはこなかった。しかし今は違う。祥介が理解をしてくれて、少しだけ隙が出来ていたのかもしれない。
恵は急いで部屋に戻ると、すぐにベッドに潜り込んだ。
やはり無駄なのだ。何をしても変わらない。恵の家族が仲良く団欒できる未来はない。何度やり直したってきっと、現実は残酷なままである。
(うそつき……)
心の中で、祥介に言葉を吐く。
彼は嘘つきだ。何かを頑張れば、希望があるかもしれないと言った。
いや、本当は恵にも分かっていた。きっとダメだろうと。こんな簡単なことで何かが変わるなら、過去にいくらでも変えられていたはずだと。しかし祥介という存在のおかげで、そしてこの繰り返された現象のおかげで、神様から応援されているのではないかと気が大きくなってしまっていたのだ。
もしかしたら今回は、なんて淡い期待である。やはりそんなものはなく、結局未来は変わらなかった。
そうだ、と、恵はふと思う。
これで思い残すこともない。死ぬ前には確かに「まだやれることがあったかもしれない」ということを思ったが、たった今、そんなものはなかったと思い知った。
今ならば、うまく死ねるのではないか。
(……これでまた飛び降りたら、今度こそ)
ある種、憧憬なのかもしれない。
死に対するそれは恵自身にもコントロールできないまま、一度味を知ったためにさらに加速していく。
死ぬ。終わる。それがこんなにも胸を打つ。
もう殴られなくていい。もう我慢しなくてもいい。ビクビクと暮らすこともない、学校でも無理に笑わなくていい。上辺の関係もいらない。嫌われる必要もない。それらすべてから解放されて、恵は一瞬で楽になれる。
(もしかしたら、今なら)
ぐ、と体を持ち上げる。頭にはすでに祥介の存在はない。彼はしょせん他人だ。恵が死んだら死んだですぐに忘れるだろうと、頭の片隅ではそう思っていたからかもしれない。
何度家を出て、何度あの場所に行くのか。そんなことに笑い出しそうになりながら、恵は再び雑居ビルへとやってきた。
今度は、後ろから誰も来ていないかを何度も確認した。確実に終わらせるのだ。祥介の存在は邪魔になる。
そうして恵以外が居ない屋上で一人、その端っこへと駆け出した。今度こそ、今度こそと、そう思えば思うほどに気が急く。
許されたい気持ちもあった。解放とも言うのかもしれない。こんな現実から離れてしまいたいと、恵はとうとう屋上の端にあるでっぱりへと乗り上げる。
立ち上がると、最初に死んだ時のことを思い出した。
最後に思ったのは、まだやれることはあったのかも、だった。だけど、今はもうないと知っている。それならばきっと、今ここから飛び降りれば終わるだろう。
死を思う。願い、焦がれ、手を伸ばす。
体が傾く。それからは、二度目の感覚だった。