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慟哭(1)


「屋上の鍵は僕が壊したってことにするからさ、これは先生のところに返しておいてよ」

 祥介から差し出された鍵を、晴香はしっかりと受け取る。

「……それって、生き返らなかった時の保険?」

「そう。僕がこのまま死んじゃったら先生が責められるでしょ。僕たちのことを信用してくれたのに迷惑はかけたくないし、恩を仇で返すようなこともしたくないしね」

「じゃあ私も一つお願い」

 晴香の固い声音に、祥介は一瞬疑うように晴香を見つめた。しかし晴香には祥介を引き止めるような様子は見られない。どうやら祥介が死ぬことに関して何か苦言を呈したいわけではないようだ。

「もしもこのまま死んでめぐに会ったらさ、めぐが泣き出すまで怒っといてよ。一年以上も一緒にいるのにあの態度はダメだろ、味方は一番近くにいたんだよってさ」

「……ふふ、何それ。分かった。すっごい怒っとく」

「笑い事じゃないって。こっちは停学くらってんのにやってらんないっつーの」

「そうだね」

「だけどもし戻ってきたら、今度は頑張るよ。……絶対にめぐの心こじ開ける」

「……生き返ったら少し時間が戻るから、今の気持ちも覚えてないのに?」

「それでも絶対。……頑張れって、今の私がそん時の私に言う」

「……そっか」

 祥介が背を向けた。フェンスへと向かうその背中を、晴香はやけに神妙な面持ちで見つめている。祥介は振り返らない。迷いもない。怯えも見られない。そんな様子に、晴香も保健室に戻るべくようやく一歩を踏み出した。


 晴香が屋上から出て行くのと、祥介がフェンスをよじ登り、その上に座るのは同時だった。誰もいない静かな屋上。祥介には見えていないが、ここには恵と祥介の二人きりである。

 祥介は落ち着いた様子で空を見上げていた。何を考えているのかは分からない。ぼんやりとした瞳には感情が浮かんでいないようにも思えて、恵は心配そうにそれを見上げていたけれど、次には祥介の背中越しに見える青に目を奪われた。

「……空が近いね」

 まるで語りかけるように祥介が小さくつぶやく。それは今まさに恵が思っていたことだった。

 空を見上げる余裕もなかったから、その美しさも知らなかった。恵は透き通る青の眩しさと思った以上の近さに、聞こえないと分かっていても「そうだね」と祥介に言葉を返す。


「……間宮さん」

 声が震えている。祥介はふっと目を閉じて、何かに堪えるような顔をしていた。

「……間宮さんは死ねないんだ。僕のエゴで、殺させない」

 自分に強く言い聞かせているのだろうか。行動に迷いが生じているのかもしれない。目の前にある死に足がすくむのも仕方がないのだろう。祥介はまだ子どもで、そして今は冷静な状況下にある。その中で「死」を迎えようとしているのだから、恐ろしく思うのは普通のことである。

「痛い思いをするのも、死んだ方がマシだって思える経験をするのも全部間宮さんなのに……僕はそれでも、間宮さんには生きていてほしい」

 祥介はゆっくりとフェンスから下りると、とうとう屋上のへり(・・)に立つ。下は見ていなかった。恐怖から極力遠ざかろうとしているのだろう。五階とはいえ高さはある。祥介は空を見上げたまま、なんとか呼吸を整えている。

「間宮さんの事情なんか知らない。だって僕は死にたくないんだよ。……ごめんね。今頃ようやく死ねたって、そっちで笑ってるかもしれないのに……」

 祥介の視線がゆるりと下がる。足元に落ちると、その高さを嫌でも認識してしまう。しかし目をそらさない。祥介はただ下を見つめたまま、きつく眉を寄せていた。


「……怖い。死ぬのは怖い。高いよ。こんなところから落ちたくない。……間宮さんはどうしてこれを乗り越えたの。どうしてあんなに綺麗に死ねたんだよ」


 祥介のまぶたの裏側には、今でも鮮明に焼きついている。

 一番最初、恵が飛び降りたのを救えなかった時のことだ。時間が止まったとも思えたあの一瞬、宙に浮かぶ恵の背中に、祥介は確かに見惚れたのだ。


「間宮さん。死にたくない。怖いよ。痛い。絶対に痛いよ。死にたくない。助けて。間宮さん。分かるだろ、僕は弱い。きみも弱いはずだ。なのに一人で逝くのはずるい。怖い。怖いよ、助けて」


 背後で見ていた恵は思わず、その背中に歩み寄る。

 震える背中は当然ながら振り返らない。痛みを吐き出すように、苦しげに語るばかりである。


「きみが居ないと僕は死ぬ。……だから僕は僕が生きるために、きみを縛るしかないんだよ。この最悪な現実に間宮さんを連れ戻す。……いいよね、だって僕が死んじゃうんだ。それならいっそ、間宮さんも一緒に生きよう。この最悪な現実で一緒に嘆こう。そうだよ、そうしよう。それがいい。僕たち二人なら生きていける。この世界から、絶対にきみを消させない」


「糸井くん……危ないよ」


「怖いよ。高い。無理だ、死にたくない。落ちるなんてできっこない。怖いよ。助けて。死にたくない」


 授業中の静かな教室から、引き裂くような悲鳴が届く。グラウンドから声が上がる。そこかしこで、屋上に立つ祥介に気付いた衝撃が起こっている。

 そんな音は、祥介にも恵にも遠く感じられた。


「間宮さん。……一緒に、生きよう」


 祥介が一歩踏み出した。

 そこに地はない。ぐらりと体が傾いて、祥介の見ていた世界が回った。


「神様……」


 つぶやいたのは、恵なのか祥介なのか。

 空を背景に浮いた背中が、恵の深くに焼きついた。

 スローモーションに思えたのは一瞬だ。傾いた祥介の体は次には重力に負けて、恵の視界から綺麗に消える。


 残ったのは、嫌味なほどの美しい青だった。


「神様……」

 背後から騒がしい足音が近づいてくる。しかし今の恵には気に留めることでもない。恵はただ震える手で顔を隠し、泣きそうに眉を下げていた。

 少しして、鈍い音が恵のところにまで届く。

「……神様、お願いします」

 ふらりと、恵の足が揺れた。おぼつかない足取りだった。一歩一歩と踏みしめながら、恵はなんとか、先ほどまで祥介が立っていたへり(・・)へと向かう。

「絶対に、時間は戻さないで……」

 フェンスには触れられない。恵はそれをすり抜けると、下で息絶えた無残な姿の祥介を見下ろした。


 生きたいと言いながら死んでいった祥介。怖いと言いながら、助けてと何度も声を震わせながら、それでも縋る相手が恵しか居ないために、それを求めて命を絶った。

 このままではなにも変わらない。生き返っては死んで、それを繰り返すだけの無意味で無価値な人生になってしまう。

 祥介一人の願いでは、今までと何も変わらないのだ。


 だから今度は、恵も願わなければならない。


 生きていたくない。もう死んでしまいたい。真実、心からそう思っていた恵はしかし、二度目の死を恐ろしく思った。


 忘れられたくはない。

 晴香の心を知った。祥介の弱さと葛藤を知った。二人は、あんなにも他人行儀だった恵に寄り添い、そして最善を尽くしてくれた。

 恵はどうだろうか。恵は彼らのように、素直に、率直に、がむしゃらに生きられただろうか。


「私たちが幸せになるために、時間は戻さないで!」


 恵の声が屋上に響く。やってきた教師たちは恵に気付かず、下に居る教師と事態の収束を図っていた。


「神様!」


 突然、恵の視界が歪んだ。いつもの白が満ちる感覚ではない。世界のすべてが軟体化して曲がってしまったかのように、視界に映るものすべてが変に歪んでいる。

 平衡感覚が失われた。気持ちの悪さもこみ上げる。この夢のような世界が終わるのだと、恵は本能的に察した。

 終わればどうなるのだろう。恵はとうとう死んでしまうのか。

 生き返る保証はない。養護教諭も言っていたことだ。今までがそうだったからと言って、次もそうであるとは限らない。

 死ぬ。終わる。待ち遠しかったそれが、今はどうにも恐ろしい。

「怖い」

 どうして。恵にはそれが分からない。だって恵が生きていた「現実」は、恵には少しも優しくなかった。


 隣の家からはいつも楽しげな笑い声が聞こえていた。休日になれば家族で出かけて、平日は専業主婦の母親が子どもと手を繋いで公園に出向く。今日のお昼はなにが食べたい? ぼくオムライスがいい。そんなありふれた会話を、恵はいつも二階の部屋の窓から一人で静かに聞いていた。


 残酷だ。現実は、恵には決して甘くない。それなら死んでしまえばいい。そんな現実はこちらから願い下げだと、恵が捨ててやったのだ。


「怖いよ」

 どうして。何度思ってもやはり分からない。恵の中にはただ漠然と、得体の知れない恐怖がある。

 耳を塞ぎ、目を閉じる。そうしてうずくまった恵は、怖いと何度も心で呟いていた。

 このままでは死んでしまう。神様は恵が嫌いなのだ。いつも、望んだ物だけを与えてはくれない。

 死を望めば生を。その逆はどうなるか、考えなくても分かるだろう。

「助けて」

 ぐわんぐわんと感覚が揺れ始めた。とうとうこの世界が終わる。きっと恵は次に目を開けた時、別の生を受け、今の「間宮恵」ではなくなっているのだろう。




「間宮さん」



 優しい音だった。

 一瞬、恵の中から音が消えた。パッと目を開き、驚愕の面持ちでそちらを見上げる。


「糸井くん」

「間宮さん、ここに居たの」

「糸井くん、私、死んじゃうの」

 恵はすぐさま立ち上がると、祥介の方へとおそるおそる踏み出した。

 生前と変わらない祥介が歪んだ世界に立っていた。なに一つ変わらない。表情も雰囲気も、すべて恵が知っている、最後に見た時と何も変わらない祥介である。

「糸井くん、私、」

「間宮さん」

 恵の言葉を遮るように、祥介が手を差し出した。一瞬間が落ちる。恵には祥介の意図が分からない。けれどそれに導かれるまま祥介の前に立った恵は、何の疑いもなくそこに手を重ねた。

 現実は優しくない。祥介にとってもそうだった。しかし祥介は生きたいと願っていた。生きたいから死んだ。恐ろしいと震えながらも身を投げた。怖い助けてと繰り返し、生きるために死んだのだ。

「……私、生きたい」

 恵の気持ちが、自然と口からこぼれ落ちる。

「生きてたい……!」

 微笑んでいた祥介が、ゆっくりと一度頷いた。

「それなら、一緒に生きようか」

 その笑顔は今までで一番、見たこともないくらいに綺麗だった。

 そんな祥介に目を奪われていると、その笑顔がだんだんと白に浸食される。

 回る。繰り返す。これは、これまでと同じ感覚だ。


「糸井くん!」


 祥介の姿が遠のいた。しかし祥介はずっと微笑み、にこやかに手を振っていたために、恵も不安は感じなかった。



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