未来へのエゴイズム(3)
保健室は相変わらず緊張感に満ちている。誰もが口を開かず、祥介と晴香は一際暗い顔で俯く。
「……そうだね。星沢さんの言うとおり、間宮さんはまた死ぬかもしれない。……間宮さんは最後まで、僕には心を開いてくれなかった」
祥介は苦しげな表情を浮かべると、悔しそうに唇を噛む。
「私にも大きな壁があった。……気持ちは分かるよ、同じだったんだ」
祥介も晴香もすっかり肩が落ちていた。自分たちが言った言葉に自分たちが一番傷ついてしまったようだ。そんな二人を見て、養護教諭は必死に言葉を探していた。しかし簡単には見つからないのか、視線だけがふらりと揺れる。
「……あー……こほん。二人とも」
わざとらしく咳払いをしたのは自身を落ち着けるためだろう。養護教諭が伺うように二人を見るのと、二人が振り返るのは同時だった。
「間宮さんは誰が接しても難しい相手だったと思う。糸井くんには前も言ったけどね、ああいった境遇の子は一人でカラに閉じこもっちゃうの。頼り方も知らない、信用の仕方も分からない。それだけなのよ」
「……でも僕は間宮さんを信じてましたよ」
「それはそうよ。糸井くんの方が間宮さんを見つけたのが早かったんだから。糸井くんは一年以上前からあの子を知っているのよ、もう『よく知ってる』と言ってもいい相手を信用するのは当たり前でしょう。間宮さんは糸井くんと出会ってまだ少しなんだから、糸井くんのことを信じられなくて普通なの」
「……じゃあ私は? 一年以上一緒に居た」
「……星沢さんは、会話が足りなかったのかもしれないわね」
「会話?」
それを言われて、恵もふと思い当たる。そういえば恵は、しっかりと晴香と会話をしたことがない。恵が避けていたということもあるが、晴香も気を遣っていたのか強引に踏み込むことをしなかった。
「……だって、嫌われたら嫌じゃん。めぐ、私のこと嫌がってたっぽかったし……」
「会話をあまりしないってことは、相手のことがよく分からないってことよ。そんな相手のこと、好きになれる?」
「……なれない」
だけど、もう何を言っても。そうつぶやいたのは、祥介だったのか晴香だったのか。どれだけ「こうしていれば」と悔いても恵はこの世に居ないのだ。
恵は母親に殺された。それが現実である。
「……先生はこれから忙しいの」
養護教諭は突然、忙しなくデスクの上を整え始める。
いったい何の話が始まったのか。いきなりの話題転換についていけない祥介と晴香は、驚いたように目を瞬いた。
「今回のことで学校の問題が結構大事になっててね、養護教諭は関係ないと思われがちだけど意外としないといけないことが多くって。あなたたちとお話ししたり、ずっと面倒を見ているわけにもいかないのよ」
そう言って、養護教諭は座っていた椅子ごとくるりと回って二人に背を向けた。
「ここだけの話よ。……あなたたちのことを信頼してる。こんな大人が近くに居るんだってこと、絶対に忘れないでちょうだいね」
養護教諭はデスクの書類を探して、しかしすぐにわざとらしく「あら、忘れ物みたい」と大袈裟に立ち上がった。
「私、職員室に行ってくるからお留守番をお願い。いい? ここに鍵を置いていくけど、これは絶対に触っちゃダメなものよ。屋上になんて絶対に入っちゃダメだからね。……あなたたちを信じてるわ」
最後は低く、言い聞かせるような声だった。
養護教諭が保健室から立ち去る。祥介はすぐに、触るなと言われた鍵を取った。
「待って、本当に行くつもり?」
晴香に呼び止められて、祥介もピタリと動きを止めた。
養護教諭も一か八かの賭けをしたのだろう。生き返るなんて話も半信半疑に決まっている。しかし生き返った祥介自身はよく分かっているために躊躇いはない。
「行くよ。可能性に賭けたい」
「なんで? 死ぬんだよ? 怖くないわけ?」
「怖いよ。当たり前だ」
死は怖い。祥介はずっと死と隣り合わせに生きてきた。幼い頃は今よりもっと病弱で、発作も今より高頻度で起きていた。いつ死んでもおかしくはない状況だっただろう。医師からも長くないと言われていたのだから、祥介が生を諦めるのも早かった。
加えてあの母親である。祥介がこんな状態だったために愛情のかけ方を間違えて、いつしか自分の思うとおりに祥介を「生かして」いた。
祥介は本当にいつ死んでもいいとさえ思っていたのだ。それなのに、死の瞬間は恐怖した。恐ろしいと思えた。
一番最初、恵の後を追ったのだって、発作が起きかけていたあの状況でもなければ足がすくんで動けなかったかもしれない。
体が浮いた瞬間の恐怖。それは、どんな言葉でも言い表せられないものがある。
「だけど、間宮さんはそれを二回もした。自分の足で」
きっと祥介にはできない。どれほど生を諦めても、どれほど現実に絶望しても、祥介には「死にたいなあ」と、死に憧れることしかできないだろう。
「糸井だって二回目は自分で死んだって……」
「人を殺したことで興奮状態になってたのもあるよ。……冷静な状況で、自分のタイミングでなんて、絶対に死ねなかったと思う」
恵の母を殺した時の祥介の目は、明らかに正常ではなかった。いつもの優しい顔でもなかった。あまりにも無表情に、あまりにも無感情に恵の母を見つめていた。睨むよりも恐ろしい顔をしていたのを、恵はよく覚えている。
(怖い、か……)
恵ははたして、自殺した二回ともそれを感じたのだろうか。
(足はすくんだかもしれない。だけど死ぬのは当たり前だと思ってた……終わるならって、そればっかり)
後先を考えず、恵はただ死を求めて飛び降りた。
一度目も二度目も変わらない。「逃げる」ことと「死」を同一視していたがために、あっさりと踏み出せただけである。
恵はこの現実から逃げ出しただけだ。祥介は「死」の捉え方が、恵とはまた違うのだろう。
「……糸井、ねえ本当に……?」
歩み出した祥介を、晴香が慌てて追いかける。保健室を出て階段へ、祥介の振り返らない背中が晴香は不安そうだった。
「僕の大嫌いな母親も間宮さんの母親も、殺される時にはみんな命乞いをした。最初は強がってても、最後には助けて、ごめんなさいって何度も繰り返すんだ」
強い歩みで階段を上る祥介に、晴香はひたすらついて歩く。
「どう思う? 僕たちの心を殺したそいつらが、被害者ヅラして命を乞うんだよ」
「糸井、だけど……」
「間宮さんはどうだったんだろう」
祥介は落ち込んだような声を出すと、不意にピタリと足を止める。三階の踊り場だった。授業中であるために人はおらず、さらに祥介たちが居る階段は教室から少し離れたところにある。物音はない。体育の授業をしているのか、どこか遠くから掛け声だけは届いていた。
「……僕は人を殺したから分かる。殺されるのは恐怖だ。どんなに強がっている人でも死ぬのは怖いんだよ。……それなら、間宮さんは?」
晴香は何も言えず、唇を強く噛み締める。
「実の母親に殺されてどうだったのかな……」
それは問いかけにも聞こえたが、聞かせるつもりのない独り言のようにも思えた。静寂な中でなければ晴香にも届かなかっただろう。
晴香は思わず目を伏せる。晴香には誰かを殺した経験も、誰かに殺された経験もない。殺意を向けられたこともない。恵の気持ちも祥介の気持ちも、どんなに考えても分からなかった。
祥介はやはり答えを求めているわけではなかったのか、少しの後には踏み出した。何の言葉もなく階段を上り始めた祥介を晴香は慌てて追いかける。
「……星沢さんは死ぬのは怖い?」
「怖いよ。怖いことだと思う」
「そう。殺されるのは?」
「もっと怖いと思う」
「うん。……僕もそう思う」
四階より上は本来であれば立ち入り禁止の場所である。階段にもロープが貼られているために気軽に入れるような雰囲気でもない。
しかし祥介は躊躇いもなく踏み出した。晴香も当然、遅れないようにとそれに続く。
「いつ死んでもいいとか、もう生きることがつまらないとか、そう思っていたはずの僕でさえ怖いと思う。……だけど、怖いと思えているうちはきっと、本当は死にたくなんかないんだ」
養護教諭から借りた鍵を使うと、屋上は難なく開放された。
二人は突然ひらけた視界に足を止めて、ぐるりと周囲を大きく見回す。当然ながら恵もそこに来たのは初めてのことである。二人と同じように屋上を確認して、広い世界に目を細めた。
雲ひとつない青が広がっている。ぼんやりとそれを見上げていた三人は、少しばかり肩の力が抜けたようだ。
「いい天気」
「……快晴だね」
嫌味にも思えるほどの突き抜ける晴天。ギラギラと輝く太陽が、すべてを平等に照らしている。
「変わらず綺麗だよね、この世界は」
たった一人、恵が殺されても何も変わらない。等しく時間が過ぎる。過去になる。忘れられていく。許されてしまう。それを考えて、祥介はつい厳しい顔つきになる。
屋上には高いフェンスが設置されていた。一応鍵をかけてはいるが、念のための措置だろう。しかし乗り越えられないほどではない。祥介は怯むこともなく、ゆっくりとそちらに歩み寄る。
「糸井」
「僕は生きたかったんだと思う。本当はずっと分かってたんだ。自殺なんてできないこと。生きたいと思ってたこと。全部分かってた。だけど『死』を思うのは楽すぎて、そちらに目を向けてしまった」
「生き返らなかったらどうするの」
祥介が不意に足を止める。
「もしも今回はダメだったら、糸井はそのまま死んじゃうよ」
「そしたら間宮さんと向こうで合流するよ」
迷いもなくそう言って、祥介は朗らかに笑った。太陽が晴れやかにその笑みを照らす。恵にはその笑顔が眩しすぎた。
「……ねえ、どうしてそこまでめぐのためにやれるの。私は出来ない。糸井みたいに生き返った経験があっても絶対、怖くて死ぬなんて選べないよ」
それはきっと、恵にも当てはまる話である。
祥介と逆の立場だったなら、恵だって足がすくんで動けないだろう。自分のためにならば死ねる。けれど人のためにはそれは出来ない。恵が特別薄情なわけではなく、きっとそれが大多数の感覚である。
「……結局、自分のためなんだ」
晴香も恵も、その場で静かに祥介を見守る。
「……間宮さんと僕は似てる。受けていたことは違っていても、境遇というか、内情はすごくよく似てると思う。僕は殴られたことなんかないけど、鬱陶しいくらいに何もかもを親から干渉されてきた。たとえば、僕がスーパーで何もないところでつまずけば、僕の母親はすぐに責任者を呼び出して滑りやすくなっているとクレームを入れる。うちの子は体が弱いんだから、うちの子は転んだら命が危ないんだから、そうやって食ってかかって、清掃した者を呼べと言い出すんだ。それからどうなると思う? 清掃業者をかえろ、店長自らが掃除しろ、なんて意味わからないところに飛び火するんだよ。最後には言いたいだけ言って、スッキリしてスーパーから出ていく。あんな接客の悪いところには二度と行っちゃだめよ、なんて言い出す始末だった。面倒くさいでしょ。そんな親なんだ。……だけど僕は殴られたことなんかない。間宮さんは、親から干渉されたことがない。僕たちは正反対で、だけど毒親を持ったということではとてもよく似てると思う」
祥介が淡く笑う。それは寂しげで、晴香も言葉を挟めなかった。
「そんな間宮さんを見てね、親近感が湧いたのは本当。この子なら分かり合えるって思った。傷の舐め合いができるって確信した。ずるいよね、だけどそんな動機なんだ。純粋に近づいたわけじゃない」
「でも後追いするってよっぽどじゃん」
「そう、よっぽど。……分かり合えると思えた相手ってね、僕らみたいなのには『救い』なんだよ。だから助けたいと思う。僕を救ってくれた相手を救いたい。綺麗に思えるでしょ。だけど同時に、僕が死にたくないから、その子に生きていてほしいとも願ってる。綺麗で、本当はとても汚いんだ」
「……なんで、死にたくないから生かすの」
「……僕はすごく弱いんだよ。弱いから、一度『救い』を知ってしまったらそれに縋ろうとする。麻薬と同じだ。僕は弱い。精神安定の意味もあるのかもしれない。だから僕は僕のために、間宮さんを生かさないといけない。間宮さんが何度死んでも、いいかげん死にたいと思っていても、僕は僕のエゴで、間宮さんを生かし続けないといけない」
僕は、弱い生き物だから。
重ねてそう言われて、晴香には何も言えなかった。
晴香はこれまで、祥介のような気持ちになったことはない。普通の家で生まれ、多少見た目のせいで周囲とのことに苦労しながらもそれくらいで、なんとなく生きてはこられた。祥介からすれば充分に恵まれた環境で生きてきた晴香には、祥介の気持ちが分からなかった。
しかしそれは恵も同じことである。恵は祥介を「救い」だと思った。けれどもそれで"祥介を生かすことで恵も生き続けられる"とは思わなかったのだ。きっとそれが、心の底で「死にたい」と思っている人間と「生きていたい」と思っている人間の違いだったのだろう。
本当は生きたいと思っていれば、死に対して足がすくむ。希望を見つければそれに必死に縋りつく。救いなど尚更だ。
腹の底では生きたいと思っていた祥介は、無意識のうちに恵を心の拠り所にしていた。
自分と同じような環境で過ごしている恵が、耐えながらも頑張っている。絶望しながらも必死に毎日を生きている。それを見ているだけで、祥介もまだまだ大丈夫だと踏ん張れる。何があっても慰め合える。深く理解しあっていれば支え合える。
祥介にとってそれは「生への希望」だった。
「僕は、僕のために今から死ぬ。何も怖くない。このまま間宮さんがかえらないことの方が、よっぽど怖い」
もしもこのまま恵が戻らなければ、その先で祥介はどうなるのか。
晴香はやはり何も言えない。言葉も見つからない。けれどもここで引き止めるなんてことは陳腐なことだと、なんとなくそんなふうに思っていた。