未来へのエゴイズム(1)
まぶたが光を透かし、恵に眩しさを感じさせる。
目を開けたら死後の世界なのだろうか。そんなことを思えばすぐには目を開けられず、恵は怯えながらも薄目を開き、おそるおそる周囲を伺う。
そこは知らない部屋だった。
どうやら恵はまだ、死後の世界には行っていないらしい。
部屋は決して綺麗とは言えないが、足の踏み場がないほどではない。細々とした物が多いために散らかったイメージになるのだろう。六畳程度の部屋なためにシングルベッドが置いてあっても狭さは感じないが、散らかった印象が不思議と六畳ほどの広さは思わせなかった。
恵がキョロキョロと部屋を見ていると、ベッドから突然何かが起き上がった。それにはつい「わっ!」と大きな声が出たのだが、どれほど静寂な部屋に響く大声でも相手には届かない。
起き上がったのは晴香だった。どうやらここは晴香の部屋のようだ。
(……部屋? 学校じゃなくて……?)
時間軸はいつなのか。恵にはそれも分からないが、これまでずっと時系列にそって正しく進んでいたことを考えれば、沙織を一方的に殴っていた例の大喧嘩の後なのかもしれない。
恵がちらりと時計を見上げる。もう昼前だ。本来であれば学校に居るはずの時間に家に居るということは、単純に休んでいるか喧嘩のことで停学処分を受けたのかのどちらかだろう。
そこで、コンコンと部屋の扉が鳴る。
「出ておいで、飯食うよ」
女性にしてはハスキーな声でそう言ったのは、晴香の母だった。
晴香も特に逆らうことなく、言われるままに部屋を出てダイニングへと向かう。恵もついて歩いていたが、人様の家に無断で居るというのは存外居心地が悪かった。
今日はよく晴れているからか室内灯はつけていないらしい。外からの光だけが頼りのダイニングはやはりどこか薄暗く、流れている再放送のドラマの音がやけに際立って聞こえてくる。
「笠井さんとこから連絡来たんだけどさ」
お昼ご飯は簡易的に作られた焼き飯だった。晴香がそれに手をつけた時、晴香の母が落ち着いた声を出す。
「平謝りされたよ。誰かは知らないけど、自分の親にこれまであの教室で何があったを話したんだろうね。親同士のネットワークで自分の娘が何をしていたかを知ったって、そんな口ぶりだった」
「ふーん」
「顔合わせた時には謝れってあれだけ言ってきてたってのにさ、本当馬鹿らしいもんだよ。……ああいうのを毒親って言うのかね」
「……まさか。甘いでしょ、そんなん」
謝れるだけまだマシ、と、晴香が小さくつけ加える。
「あんたはよくやった。さすがはあたしの娘だ。聞く限り、ぶん殴って正解だった」
「……親なら怒るもんじゃないの?」
晴香の母は、実はこれまでに一度も晴香を怒っていない。
数日前、沙織を殴った晴香を迎えに行った時も、停学が決まったその後も、そして今日まで、その件に関してのことを口に出すことすらなかった。
「どうして怒るんだよ。友達のために殴ったんだろ」
「そうだけど」
「ならいいじゃないか。……あたしもね、若い頃はいろいろあった。世話になった先輩にずっと言われてたのはね、人のために殴れる人間になれ、だったよ。自分のための拳はダサいってのがその人の教えだ」
「元ヤンじゃん」
「今更何言ってんだよ」
静かな空間でポツポツと会話を繰り返す。二人は大きな声を出しているわけでもないというのに、聞き耳を立てるまでもなく恵には二人の声がしっかりと届いていた。
「……本当よくやった。あんたは、よくやったよ」
晴香の母がスプーンを置いた。声が少し震えていたために、晴香もさすがに違和感を覚える。
ふと顔を上げる。するといつもは強気な母が、悲しげに目を伏せていた。
「何? どしたの」
「……あんたが守ったの、間宮さんとこの子だね?」
「そう。いっつも言ってたじゃん、めぐだよ」
「……ああ、そうだ。めぐちゃん」
聞いている恵も、心臓がどくどくと嫌な音を立てていた。
これから何を言い出すのか、恵にはなんとなく分かる。残酷な現実の話をするのだ。晴香が停学になって学校に行っていない今日、学校でも噂になっていることである。
「……めぐちゃんが、亡くなったんだ」
一拍置いた後、晴香の持っていたスプーンが、音を立てて皿に落ちた。
「言ったろ、笠井さんから連絡がきた。あっちが意見を変えたのも、このことがあったからだろうね。めぐちゃんが……母親に殺されたってのを聞いて、自分の娘がいじった『虐待』がどれほど重たいものだったかを思い知ったらしい」
「……は? ころ、された?」
「……らしい」
晴香は呆然としていた。母にまっすぐに向けていた目を焼き飯へと落として、そしてふたたび母を見る。
「いつ」
「昨日だそうだ」
「え、昨日? なんで、虐待って、なんで、だってこないだまでめぐ、生きてたんだよ」
「そうだね」
「……だって、めぐ、生きて……」
晴香の頭に思い浮かぶのは、最後に見た恵の顔だった。
沙織に追い詰められて何も言えず、祥介が来て泣きそうな顔をしていたあの時である。
そこで晴香ははたと気付く。祥介という存在を思い出したのだ。
現実はまだ受け入れられないが、それでも晴香はガツガツと焼き飯を口に流し込んだ。ある種の逃避なのだろう。受け入れられないことから目をそらして、別のことを考える。そうして誤魔化して、なんとか現実を見ないようにと正気を保つ。
晴香にも分かっている。しかし今はそうでもしなければ、ジメジメと泣いて部屋にこもってしまいそうだった。
「ごちそうさま!」
「晴香、あんたいきなりどうしたんだよ」
「ちょっと行ってくる」
「待ちな! どこに行くんだ。場所によっては行かせないよ」
晴香の母が疑うのも無理はない。あんな話の後なのだ。沙織のところに行って報復をするのかと、そんなことを思ってしまうのも仕方がないことである。
「学校行く」
「は? その格好で?」
晴香は、部屋着で飛び出そうとしていた。
「着替えてる時間もない。……私のほかに、めぐと仲良い奴がいる。そいつもこの話知ってんなら、今頃ヤバいじゃん」
「……なるほど。それなら行っといで」
晴香はすぐに駆け出した。急いで靴を履く。しかしいつもより気が急いているからかうまく履けなくて、少しばかり手間取った。
そんな晴香の後ろで、晴香の母は腕を組んで見守っている。
「晴香」
玄関が開くと同時、呼ばれた晴香はちらりと振り返った。
「あんたを信じるからね。このあたしを裏切るんじゃないよ」
晴香は母の言葉に頷いて、すぐさま学校へと踏み出した。恵には、晴香が何を考えているのかが分からない。晴香はただ、祥介と悲しみを分かち合いたいだけなのかもしれない。しかし二人が一緒に居てくれるのは、恵も少しだけ安心できる。
晴香は必死に駆けていた。周囲の目も気にしないほどの全力疾走である。さすがは運動会でアンカーを務めただけはある。恵はふわふわとついて行っているだけなために息苦しくもならないが、それでも晴香の足が速いのは分かった。
そうして学校に着くと、晴香はそこからは教師にバレないようにとこっそりと保健室まで向かう。停学中である上に、制服も着ていない。見つかればすぐに連行されるというのは想像に難くない。
幸いにも保健室は一階の端っこだ。入りやすい上にそちらには教室もないため、昼休みも終わった現在では人通りは一切ない。
そのため晴香は難なく保健室にたどり着き、こっそりと中に入った。
「あら? 誰が……って星沢さん!」
振り返った養護教諭が、晴香を見て驚きの声を上げる。
いつもの場所には祥介も座っていた。力なくぐったりとしていたのだが、養護教諭の声に反応して晴香を見つけると、身構えるように立ち上がる。祥介と晴香に面識はない。恵を通じて"なんとなく知っている"というだけである。
「星沢さん、あなた停学中じゃ、」
「先生」
晴香はそれ以上は何も言わず、養護教諭をじっと見つめるだけだった。あまりにも強い瞳だ。何が言いたいのかは誰の目にも明らかである。
養護教諭はすぐに察して、そして何かを諦めたようにため息を吐き出した。停学中の晴香がわざわざ普段関わりのない祥介のところにやってくるなんて、どんな用事なのかは考えなくても分かる。晴香も恵と仲が良かった。きっとそのことで何か話したかったのだろう。
養護教諭は早々に、保健室の窓とカーテンを閉める。空調を調節するところまでゆっくりと終わらせると、ようやく晴香にパイプ椅子を持ってきた。
「座って」
特に怒った様子はない。それを確認して、晴香は大人しく言葉に従う。
「さっき聞いた。めぐのこと」
切り出したのは晴香だった。それに、祥介は暗く俯く。
「……ねえ糸井、めぐの何を知ってたの。めぐはなんで、糸井と仲良くなったの」
「……そんなの知って、どうするの」
「私はさ、一年の頃から一緒にいんの。納得がいかないんだと思う。……本当にいきなりだったから、何かがあったとしか思えない」
「それを話しても、間宮さんはもう……」
そこまで言って、祥介はピタリと動きを止めた。
何かを考えているようにも見える。本当に唐突だったのだが、見ていた晴香と養護教諭は、ひとまず祥介の出方を待つ。
恵にはなんとなく分かる。祥介が何を思っているのか。何を考えて、どうしようとしているのか。しかし、祥介がはたしてそれを暴露するのかは分からない。
恵はそう思っていたのだけど、
「僕が、死ねばいいかもしれない」
祥介はまるで今日の夕食の話をするように、そんなことを言い出した。