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あの時(2)


 次に恵が目を開けると、ちょうどクラスが静まり返っているところだった。

 状況が分からない。戸惑い気味にぐるりと周囲を確認してすぐ、沙織が勝ち誇った笑みを浮かべていることに気付く。気まずそうな様子の恵の手には体操着があった。周囲もどこか遠巻きだ。恵と沙織を見て、顔を引きつらせて様子を伺っている。

 それだけで理解する。これは、沙織に虐待を暴露されたあの時だ。


 当事者ではないところから見ると、案外客観視出来るものだ。恵は思ったよりも冷静にその場面を見ていられた。当時の恵はそんな顔をしていたのかとか、クラスメイトはこんな目をして恵たちを見ていたのかとか、そして晴香が沙織を殺してしまいそうな目で睨み付けていたことも、一つ一つをゆっくりと確認出来る。


 静寂を引き裂くように、晴香が椅子を倒して立ち上がった。拳を握り締めて、その表情を怒りに染めている。

「あのさあ!」

 晴香が声を張り上げるのと、教室の戸が開くのは同時だった。

 大きな音が晴香の声をかき消した。クラスの視線がすべてそちらに集まり、過去をぼんやりと振り返っていた恵も思わず振り返る。

「間宮さん」

 優しい声が、恵を呼んだ。

「行こう」

 こんなにも泣きそうな顔をしていたのかと、恵は初めてこの時の自分を理解した。思っていた以上に耐えられない空間だったらしい。恵は迷いもなく駆け出して、祥介と共に教室から出ていく。それを黙って見送っていた晴香は、なぜか寂しげな顔をしていた。


「何あれ、付き合ってんのかな?」

「てかあんな男子居た?」

 時を止めたように静かだった教室が動き出す。もっぱら話題は恵と祥介のことである。

 そんな落ち着きかけた空気の中、関係がないとでも言いたげに、晴香はただ沙織を睨みつけていた。

「私は本当のこと言っただけじゃん。なんで晴香がそんなに怒るわけ?」

「本当のことなら何言ってもいいの? へえ、じゃあ本当のことだったら、相手の傷つくこと笑いながら言ってもいいんだ。性格悪すぎ」

「もー、まじになんないでよ。ね、着替えよ、五時間目体育だし」

「私はさあ!」

 沙織が逃げ出すように背を向けた。しかし晴香は逃さない。晴香は乱暴に沙織の肩を掴むと、振り返った沙織の襟元を捻り上げた。

「あんたが大っ嫌いなの。前々からめぐに変に絡んでっけど……めぐがあんたになんかしたわけ? 私の記憶の中にはそんな覚えないんだけど?」

「な、だ、大嫌いって、そんな、こと……」

「傷ついたの? 本当のことなら、相手が傷つくことも言っていいんでしょ?」

 沙織の目に、じわじわと涙が溜まる。沙織も意地になっていただけで、恵のことを心から嫌いなわけではない。長く悪く言っていたせいで「恵を嫌い」と沙織自身も思い込んでしまっていたが、だからこそ「なんで」や「どこが」と聞かれると言葉に詰まる。

「お、怒らないでよ」

「被害者ヅラするんだ、こういう時。加害者はだいたいそう。図々しい」

「ちが、そんなつもり、」

「ねえ晴香、もうやめなよ。沙織も言いすぎたけどさ、晴香もやりすぎだよ」

 止めに入ったクラス委員長の手を、晴香が乱暴に払った。それが合図になったように、晴香の手がそのまま沙織の頬を打つ。


「こいつがさっきめぐにやったことは、私以上に最低なことだっただろ!」


 襟元から、晴香の手が離れる。叩かれるままに投げ出された沙織は、向けられた怒りにただ涙を流していた。


 そこからは恵も見ていられなかった。

 一方的な展開である。ほとんど無抵抗な沙織に馬乗りになって、晴香がただ殴りかかっていただけである。周囲がどんなに止めようと晴香は動きを止めず、泣き続ける沙織をどうにかして殴ろうともがいていた。


 河上がやってくる。そこでようやく二人は引き離されて、養護教諭が言っていたように、河上は気が立っている晴香ではなく泣いて弱っている沙織を教室から連れ出した。


 体育の授業は晴香だけが出たらしい。しかし晴香は見学で、授業に乗り気でもなかったようだ。

 あとの展開はお察しである。恵がわざわざ見に行かなくても、沙織がどんなことを河上に言ったのかはもう分かっている。

 そのため恵はそちらに行かず、体育の授業中、体育館の端っこで見学をしている晴香の隣にずっと座っていた。

 少し不思議な感覚だった。恵はこれまで晴香と居たが、こんなふうに恵から晴香の元に行くことはなかった。


「……ごめん、晴香」

 先ほどのことなどなかったかのような楽しそうな授業の様子を見つめながら、恵は思わず晴香の横顔に語りかける。

「私、死ぬんだよ」

 晴香の目はぼんやりとして、何を見ているのかも分からない。しかし伝わる感情から、すべて恵のことだとは理解ができていた。

「私、お母さんに殺されるの。……ごめん。もっと悲しませることになる」

 きゅ、きゅ、と、体育館を走る音が聞こえてくる。それに紛れて、晴香が小さく「なんで」と声を出した。

「なんで、何も言ってくれなかったんだろ……」

 祥介と出て行った光景を思い出しては、晴香はどうしてとそればかりを考えていた。


 どうして一番近くに居た晴香ではなく、ぽっと出たような祥介を頼ったのか。

 あの場面で恵を連れ出すということは、少なくとも祥介は晴香より恵と近しい間柄である。しかし普段、二人が関わっているところは見たことがない。

 では、いったいいつから。


「……私じゃ、友達にもなれない」

「違う。……ごめん、晴香」

「……やっぱり、ちょっと嫌そうだったもんなぁ」

 恵とまっすぐに接してきた晴香が、恵の感情に気付かないわけもない。晴香は正しく、恵が「どこかに行ってほしい」と思っていたことを感じ取っていたのだ。

 今度は「違う」とは言えなかった。恵は確かに、晴香に対してそう思っていたからだ。

「ごめんね」

 恵の呟きを最後に、視界がだんだん白んでくる。もう何度目かになるそれにまたかと恵も慣れてきて、次はいったいどこに行くのかと妙な緊張を抱いていた。


 恵はこのまま死ぬのだろうか。

 これまで強く望んでいたはずのそれが、今はなぜか恐ろしいと思えた。

 あれほど焦がれていたものだ。今更考える必要もない。しかし恵は死とは何かを考えて、そうして「二度と会えない」ことだと一つ思いつく。


 もう二度と、祥介とも晴香とも会えない。謝ることもできず、心の内を明かすこともなく、ただ二人に誤解されたままで終わる。


 そうなると、二人はどうなるのだろうか。

 恵がこのまま死ねば、二人は今以上に泣いて暮らすのか。


(……ううん。きっとすぐに忘れる)

 死ぬとはそういうことでもある。人は忘れる生き物だ。薄情なわけではなく、そうしなければ生きていけないということもある。

 恵は存外あっさりと忘れられるだろう。泣いて暮らすのは一週間程度だろうか。それ以降は落ち着いて、翌年には受験で忙しくもなる。高校生になれば環境も変わり、アルバイトでもすれば交友関係もさらに広がることだろう。


 恵の存在はその中には残れず、やがて忘れられていく。

 大学生になれば、就職をすれば。「忘れる」ということはさらに加速して、最後には思い出すこともなくなるかもしれない。


 誰かから忘れられるとはどういうことか。


 それは、恵がこの世界で生きていたという事実が完全になくなってしまうということのような気がして、心の奥が唐突に冷えた。

 しかしおかしな話だ。死は恐ろしくはないが、それの先にある「忘れられる」ということに恐ろしいと感じるとはとんだ矛盾である。

 死ねば忘れられる。それは受け入れなければならない。

 恵は固く目を閉じたまま、微かに拳を握り締める。


 いいや違う。恵は世界に忘れられることなんてどうでもいい。恐ろしいとも思わない。むしろ死への憧れの方がやはり強く、このまま死にたいと今でも思う。早く殺してくれと願っている。それは間違いなく、恵の素直な感情である。


 恵はただ、恵を大切な友人だと認識し、守ってくれていた祥介と晴香に忘れられるということが、何より恐ろしいと思えたのだ。

 

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