あの時(3)
世界が白く塗り潰されていく。恵にはもう慣れた感覚だ。
視界が数秒白に埋め尽くされると、次には例の病室で目覚めた祥介の姿が見えた。
またここに戻ってきたのだ。三度目の「繰り返し」である。
(……そっか。私はすぐに目が覚めたと思ってたけど……本当は少し時間が経ってから目を覚ましてたんだ……)
繰り返すきっかけは恵の死ではなかった。どういう原理なのかは分からないが、祥介が死ぬことで恵まで戻される。目の当たりにしたというのに、恵にとってはそれは不思議な感覚だった。
「しょうちゃん、起きたのね」
少し前に殺したはずの祥介の母が、何ごともなかったかのようにそこに居た。怯えた様子もない。息子に一度殺されたことも当然ながら知らない顔である。
母親が生きているということに、煩わしさや動揺でもするのかと思ったのだが、祥介は意外にも眉一つ動かさず、いつものように窓の外に視線を投げていた。
「検査は明後日までだからね。楽しみねえ、学校に行くの。もう学校にはくれぐれも気をつけてくださいってお願いしてあるからね。しょうちゃんは楽しんでくれたらいいのよ。もしもしょうちゃんの体のことを馬鹿にする子がいたらすぐにお母さんに教えてね。大丈夫よ、お母さんね、しょうちゃんのために相手の家に行って親御さんごと叱ってきてあげるからね」
相変わらずのそんな言葉にも、祥介はつまらなさそうな顔をしているだけだった。
それから三日後、祥介はドキドキとしながら学校に向かった。もしもまた「間宮さんが亡くなったの」と言われたなら祥介は今度こそ立ち直れないだろう。
本当は、目を覚ましてすぐに恵の二回目の死を引き留めた雑居ビルへと駆け出せば、恵が生きているかを確認できた。しかし確認に行かなかったのは、ひとえに祥介の弱さからである。
もしもまた、目の前で恵が飛び降りたら。
そんなことになってしまったなら、祥介は自分の非力さに打ちひしがれて立ち上がれないかもしれない。
「おはよう、糸井くん」
不安に思う祥介に反して、養護教諭の態度はいつもと変わらなかった。
ホッと安堵の息を吐く。どうやら恵は生きているようだ。
『それなら学校に来てるのかな……教室に会いに行ってみようか。時間が欲しいから、昼休みに無理をさせないように……』
祥介が聞きたいのはたった一つである。
どうして二度目も死んでしまったのか。その答えを聞くのが少し恐ろしくもあるのだが、それよりも恵とまた話せるということに祥介の心は浮かれていた。
その後はやはり変わらない展開だった。祥介が昼休みに恵のクラスに出向けば、恵が虐待されていると暴露されている場面に出くわした。祥介が恵を連れ出して保健室へと戻ってくる。少し話をしていると、二人の教師がやってきた。養護教諭と河上である。恵は河上を認めて、反射的に睨みつけてしまった。
恵と河上が出て行ったのを見送って、養護教諭が口を開く。
「ねえ糸井くん。間宮さんのことで知ってることを教えてほしいの」
「……何がですか?」
「河上先生じゃ話にならなくて……その、あの人って少し頭が固いから、何を言っているのか理解ができないのよ」
「……頭が固い?」
祥介が思わず聞き返すと、養護教諭は深くため息を吐き、言葉を選びながらぽつりぽつりと語り始めた。
少し前、祥介が恵を連れ出した後の教室で、晴香と沙織が大喧嘩を繰り広げた。それは女同士がするにはあまりにも過激だったようで、誰にも手がつけられないほどに怒り狂った晴香が、沙織に馬乗りになって一方的に殴りつけていたとのことだ。騒ぎを聞きつけた河上が沙織から晴香を引き剥がしたが当然おさまらず、結局その場から沙織を連れ出すことで事なきをえたようだった。
「そのまま笠井さんの話を聞いたらしいんだけど……あの人らしいわよね。問題処理能力が無いから怒っていた星沢さんの対応は後回しにして、笠井さんだけを対応するって。……悪い癖よ。厄介なことには目も向けないの」
「だ、だけどそんなの、笠井さんは自分を守る嘘をつくに決まってるじゃないですか」
「そうよ。きっと笠井さんは嘘をついた。……間宮さんに意地悪されてたって、泣きながら訴えたらしいの。いつも星沢さんを使って自分を惨めにするんですって」
「間宮さんはそんな事しない!」
「そう思うなら、お昼休みに何があったのかを詳しく教えて」
養護教諭の言葉に、祥介は教室で聞いたことを正しく報告していた。それは恵の記憶と違わない真実である。しかしこの養護教諭が何を信じるのかは分からない。教師は信用ならないと、恵はすっかりそういう認識である。
「そう。……何にせよ、間宮さんが気持ちよく生きていくには、まずは家庭の環境を変えないといけないわね」
「……それって」
「ええ。知り合いの施設に問い合わせてみる。詳しいことが分かるまでは内緒よ」
「……は、はい!」
恵のことであるというのに、なぜか祥介が嬉しそうな笑みを浮かべていた。
今頃恵は河上と言い合っているだろう。しかしその裏側で残された二人がこんな会話をしていたなど、恵は想像すらしていなかった。
(それなら、あの時……)
そう思うと同時、恵が思っていた場面が目の前に広がる。
恵が虐待を受けているという噂と共に、恵と祥介が実は付き合っているなど馬鹿げた噂が立ったのを、祥介に謝りに行った時のことである。
保健室では相変わらず、祥介は黙々と勉強をしていた。塾にも行っているからか理解が早く、手が止まることはない。
するとそこに恵がやってくる。最初に挨拶をしてからは、養護教諭は知らないふりをしていた。生徒間のやり取りにわざわざ割って入ることもないからだろう。
祥介は恵が来たことに嬉しそうに受け答えをしているが、恵はあんなことがあったために浮かない顔だ。すべての教師に対して良い印象もないために、近くに座る養護教諭さえ警戒しているのが目に見えて分かった。
「あの後、どうなったの?」
祥介は養護教諭が河上を疑っていたのを知っている。だからこそ養護教諭が側にいても平気でその後のことを聞けた。けれども恵はそれを一切知らないために、口を割ろうとはしなかった。
恵の記憶をなぞるように、恵が「また今度言うね」と笑っても、祥介は納得できない顔をしていた。
恵は頑なに笑顔でかわしている。自分ではうまく流せていたつもりだったが、こうして改めて客観視してみるとあまりにも下手くそである。
「次はいつ来る?」
祥介のその問いかけにもはっきりと答えを出さず、恵は結局曖昧に笑って保健室を出て行った。
「……間宮さん、大丈夫そう?」
養護教諭は手元を見たまま、ペンを走らせている。
「いえ……何かがあったんだとは思うんですけど、僕には全然頼ってくれなくて」
「……そう。実は私、糸井くんの話を聞いてからね、その日のうちに例の知り合いに連絡したの。通告さえしていれば、あとは向こうが段取りを組んでくれるから」
「それで?」
「急いではいるみたいだけど、必要な手続きとかかぶってる子のこともあってね。ようやく今日から調査をするんですって」
恵の命はあと二日だ。その短い時間で調査が終わるわけがない。いや、終わらなかったから恵は死んだのだ。
「間に合えばいいけど……河上先生ね、最近間宮さんをやたらと責めるのよ。ネガティブすぎるとか、それで他人を攻撃したらいけないとか……論点が違いすぎて、最近では職員室でも浮いてるわ」
「……間宮さんはネガティブなんじゃない」
「分かってる。……希望を持つことも許されなかった子は、さっきみたいに頑ななことが多いの。他人を信用しない、すぐに諦める、そんな癖もある。……機関が動けるまであと少しだと思うから、糸井くんはしっかり見ていてあげて。河上先生があんなだし、私のことはあまり信用できないと思うから」
「……はい」
養護教諭の言葉に、祥介は強く頷いた。しかし残念ながら恵は助からない。もしも声が届くのなら、恵はすぐにでも言ってしまいたい気持ちだった。
誰か一人が殺されても、世界は普通に回るものである。
たとえば隣の家で殺人が起きても、昨日すれ違った人が殺されていても、世間は意外と関心がない。多少の驚きはあれど、少々噂をしてそれだけだ。"他人事"というのがまさにそうなのだろう。自分事にできないうちは、結局噂をして終わるだけである。
恵は殺された。
保健室で祥介と話してから、やはり二日後のことである。
世界は普通だ。とりとめもなく、普段と変わらない明日が来ることを疑わない。祥介もまさにそれで、恵がまさか殺されるなんて思いもせず、その日も普通に学校にやってきた。
「糸井くん!」
保健室に入って早々、養護教諭が祥介の肩を捕まえた。その手が震えている。以前養護教諭から「間宮さんが亡くなったの」と告げられた祥介には、一気に嫌な気持ちがよみがえる。
そんな祥介の気持ちを他所に、養護教諭は「落ち着いて聞きなさい」と静かに前置きをした。
「間宮さんが殺されたの」
亡くなったの、以上の言葉に、祥介はひゅっと息をのみ込む。
「昨日、学校から帰ってすぐだったらしいわ。犯人である間宮さんのお母さんがすぐに自首をして判明したって」
「……え。……だって、でも、なんで……そんな……い、今更だ……殺すなんて、そんなこと……」
事情を知る祥介ならば、そう思って当然だろう。
殺すのなら今までにいくらでも出来ていたはずだ。しかしこれまで恵の母は、殴る蹴るしかしてこなかった。ストレスの発散も兼ねていたと考えれば、殺してしまうのは少々おかしいようにも思える。
祥介のもっともな言い分に、養護教諭が言葉を躊躇う。それに祥介は違和感を覚えて、「何があったんですか」と追い討ちをかけた。
「……実は、捕まったのは間宮さんのお母さんだけじゃないの」
それはまるで、絞り出すような声だった。
「捕まったのは間宮さんのお母さんと、河上先生よ」
「……え……?」
「児童虐待の疑いがあると通告されていた家の親に、無責任にも電話をかけたの。あなた子どもに虐待してますよね、なんて馬鹿げたことをね。どうなるかなんて火を見るより明らかだった。あの人はそんな愚かなことを、教職であることも忘れて感情のままにしてしまったの」
してしまった、なんて言い方さえ恵には不愉快だった。
養護教諭は言い方を選んだだけだと分かってはいる。しかし、当事者からすればそんな控えめな言い方で許せるわけもない。
河上は意図的におこなった。恵からすれば、それがすべてだ。
「……河上先生はどこに?」
「今は警察に、」
「殺してやる」
「こら、待ちなさい!」
出て行こうとした祥介を、養護教諭がとっさに捕まえた。
「冗談でもそんなことを言っちゃダメ!」
「冗談じゃない! これまでにも殺したんだ! 間宮さんの親も、僕の親も殺した!」
「な……何を言ってるの、落ち着きなさい」
「あいつも殺せばいい! そして僕も死んでやる……!」
「どうしちゃったのよ糸井くん! あなた、まるで何かに取り憑かれているみたいだわ!」
祥介はもう何度も恵の死を見てきた。
目の前で死にゆく姿を見たこともあれば、さあこれからだと希望を持ってすぐに自殺をしたと聞いたこともある。そんな祥介は、養護教諭の言うようにもしかしたら「死」というものに狂わされたのかもしれない。
恵への仲間意識はいつから歪に変わってしまったのか。恵を死なせまいとある種意地にもなっているのだろう。
恵を生かすためならば祥介は手段を選ばない。自殺さえ躊躇わず、人を殺すことにも抵抗を抱かないほどである。恵を守ることで自身も救われたいのだろうか。同じ境遇である恵が幸福になることこそが、祥介にとっての幸福であるとまで思えているようだった。
「私だって悔しいのよ! 河上先生を注意したら、逆に間宮さんへのあたりを強くしてしまうからって放置したのがいけなかった。私だってね、もっともっとって思う。……地獄だわ、こんなの。あの子にとっては、家も学校も地獄」
養護教諭の言葉を最後に、保健室には静寂が満ちる。
『間宮さんにとって、僕も地獄だったのかな……』
祥介は静かに涙をこぼす。養護教諭も祥介の肩を掴んで離さないまま、物言わず鼻をすすっていた。
「……違うよ、糸井くん」
もっとも伝えたいその言葉は、目の前に居る祥介に届かない。
「糸井くんは救いだったよ」
恵にとって、祥介は間違いなく「救い」だった。
祥介を信じきれなかったのは恵だ。もっと信じて話をしていれば、別の未来が訪れていたのかもしれない。
そうしていれば祥介だって、養護教諭が児童養護施設に連絡を取ってくれたと恵に言えていただろう。味方は自分だけじゃないよと、そうやって伝えて恵を励ますことも出来たかもしれない。
それらすべての機会を潰したのは、頑なに誰も信用しなかった恵である。
恵が祥介を信用せず、死へ憧れてしまったばかりに悪い結末を迎えてしまった。
河上のことも、本当はどうにかできていたかもしれない。
河上の人間性はどうにもならないとしても、沙織と晴香が言い合いになったのが狂い始めたきっかけである。二人が言い合ったのは、恵が晴香を信用していなかったからで、そして沙織と向き合ってこなかったからだ。
もしも違う未来が来るのなら——。
恵がそう思った時、視界が再び白く覆われた。