あの時(2)
気が付けば恵は祥介の病院に立っていた。
雑居ビルの屋上ではない。恵と祥介は血を流して倒れていない。瞬きの間に場面が変わり、恵は思わずあたりを見回す。
恵が我に返ったタイミングで、ベッドに横になっていた祥介も目を開けた。
「……あれ?」
祥介の声に、近くに居た祥介の母が振り返る。
「あら、おはようしょうちゃん」
「え、なんで? 病院……?」
勢いよく起き上がると、祥介はすぐに自身の体に触れて無事であることを確認する。どこにも痛みはない。苦しくもない。母の様子を考えても、飛び降りた後に病院に運ばれたというわけでもなさそうだった。
そこで恵はようやく察する。祥介も死んで戻ったのだ。
「どうしたの?」
「母さん! 今、いつ? 僕、いつから学校に行けるんだっけ?」
「あらあらどうしたの。しょうちゃんは明後日で検査入院が終わるじゃない」
「明後日……」
祥介は心の中で「戻ってる」と静かにつぶやく。
「あ、じゃあもしかして、」
「っ、こらしょうちゃん!」
祥介は母の制止も振り切って、一目散に病室から飛び出した。検査結果は良好とはいえ、こんなにも走ればどうなるかは分からない。
それでもそんなことを考えられないほど、祥介には嫌な予感がしていた。
あの時と同じ予感だった。だからこそ祥介は後のことを考えてもいられなかった。
病院から塾は近い。徒歩圏内であるその見慣れた雑居ビルに入ると、祥介はなるべく落ち着いてエレベーターに乗り込んだ。
これ以上走ればまた発作が起きるかもしれない。いざという時に倒れては以前と同じ結果になるために、祥介は階段を駆け上がるという選択をしなかった。
エレベーターの中で一人、騒がしい機械音を聞きながら深呼吸を繰り返す。しかし胸中は落ち着かない。早く早くと急く心を抑えながら、エレベーターが上るごとに増えていく数字を睨みつける。
『次は……もし居たら、次こそは……』
エレベーターが開くと、祥介は慌てた様子でそこを出た。立ち入り禁止の札を尻目に、屋上までの階段を上る。ただし今度は走らない。あくまでも「早めに」を心がけていた。
屋上を開ける。すぐに恵の背中が見えた。恵は屋上のへりに立ち、今にも飛び降りようとしている。
焦ってはダメだ。ここで間違えては、恵はまた飛び降りるだろう。二度とそんなことはさせるものか。祥介は慎重に歩み寄り、短く息を吸い込んだ。
「間宮さん」
極力優しい声を出す。初めて声をかける緊張感を押し殺した、安心させる声音だった。
「間宮さん、危ないよ」
これからどうなっていくのかを、今の恵はもう知っている。
この時の恵にとっては、これが祥介との初めての出会いだった。
——そういえば祥介はなぜ、恵がこの後に死んだことを知っていたのだろう。
今回は祥介も死んだから"戻った"。二回目に恵が死んだ時にも、実は祥介が後を追っていたのだろうか。あまりにも非現実的な考えな気がして、どうにも腑に落ちない。
そんなことを考えている恵の側で、いくつかやりとりをした二人はようやく「また明日」という流れに行き着いた。
問題はこの後のことだ。恵は家に帰り、母に失望してまた飛び降りにビルに戻ってくる。
当然ながら何も知らない祥介は、大人しく病院への帰路をたどる。何事もなく病室に戻ると、医師や看護師からこんこんと叱られ、祥介を探すのに病院を出ていた母が戻ってからもしつこく怒られていた。
祥介は心此処にあらずといった様子だった。それは一種の安堵からなのかもしれない。恵を救えたということにまだ心が追いついていないようだ。
(……ごめんね、糸井くん)
無茶をしてまで助けにきた祥介のことを、恵は結局裏切ることになる。やはり一度死を選んだほどの絶望はすぐには拭えなかったのだ。
今頃"私"はどうしているのだろうか。大人しくベッドで横になっている祥介を見ながら、恵はぼんやりとそんなことを考えていた。
場面が変わり、今度は学校に来ていた。嬉しそうに登校する祥介の背中が目の前にある。恵の自殺を引き止めてから数日後、検査入院を終え、久しぶりの学校である。祥介は学校で恵に会えることにワクワクとした気持ちを抱き、いつものように保健室へとやってきた。いつ恵の教室に行こうかとそればかりを考えている。そんな様子だったから、祥介が保健室の空気が重たいことに気付くことはなかった。
おはようございます、という祥介の元気な声は、重い空気にのまれて消える。
養護教諭の表情はやけに暗かった。
「先生? 何かあったんですか?」
祥介はいつものパイプ椅子に腰掛けると、カバンから教科書を取り出した。
一応どうしたのかと聞いてはみたが、祥介にとっては養護教諭が暗い顔をしていることはどうでも良いことである。今は早く恵に会って、二人で次の作戦を立てたい。祥介はついに恵に認知されたのだ。話しかけても驚かれることもないだろう。
浮かれ心地な祥介とは裏腹に、養護教諭は辛そうに顔を歪めた。
「……まだ聞いていないのね」
意味深なその言葉は、祥介の心を冷静に戻すには充分なものだった。
嫌な予感がした。これまでにも何度か感じたことのある、そして外れたことのない予感だった。
まさかまた。一瞬そんなことを思うが、信じたくなかった祥介はひとまず答えを求めるように、疑うような瞳を養護教諭に向けている。
「間宮さんが亡くなったの。……自殺をしたって」
恵がまた自殺をした。その現実に、祥介はピタリと動きを止めた。すぐには何も言えないのか、震える唇を開閉し、音にならない息を吐く。
「原因は虐待じゃないかって警察は言ってるみたいよ。ご両親は不仲だったって……詳しいことは分からないけど、学校は今そのことで持ちきりなの」
「なんで……」
養護教諭の言葉がすり抜けていく。理解ができない。何も分からない。祥介はただ呆然とする中で、恵が死んだということだけは理解ができた。
また救えなかったのだ。自分の非力さも同時に痛感した。
「ねえ、もしかして糸井くん、間宮さんの事情を知ってたんじゃないかな? 前に児童養護施設のことを聞いたでしょう? 間宮さんから何か相談を受けていたりとか、」
「そんなことしてくれない」
祥介は未だ受け入れ難いのか、戸惑った様子で深く俯く。
「……そうね。そうよね。ごめんなさい。私も混乱していて。……まだ三日前のことなのよ」
「三日前……?」
三日前と言えば、祥介が恵を引き止めた日である。
『……あの後に?』
祥介の心に真っ先に浮かんだのは絶望だった。
泣きそうな顔をして、悔しそうに唇を噛む。恵は申し訳なく思いながら、それでももう死ねたのだから放っておいてくれと、祥介からすれば酷いと思われそうなそんなことを願っていた。
「今日はゆっくりしていてもいいからね。……私はこれから職員会議で離れるけど、何かあったらすぐに教えて」
「……はい」
週明けの朝の会議は定例のものである。この日だけは朝の読書時間が延びて、ホームルームの時間がなくなる。
恵は少し長く読書ができるその時間が好きだった。そんな時間に懐かしさを覚えたが、決して戻りたいとは思わない。
(……糸井くんには悪いけど……)
恵はもう、生きていけるとは思えなかった。
養護教諭が出て行くと、保健室には祥介一人が残される。
朝の時間は全クラスが読書の時間なために、校舎内はどこも静まり返っていた。
保健室も静かなものだ。祥介は身動ぎすることもなく、ただぼんやりと俯いている。
『死んだ。間宮さんが死んだ。頑張ろうって言ったのに。どうして。なんで。僕が頼りなかったから。間宮さんが、死んだ』
なんで、何も言ってくれない。最後に小さくつぶやいて、力なくパイプ椅子の背にもたれかかる。
「……どうしていつも僕たちが、こんな思いを……」
その言葉は、やけに重たくとり残された。
祥介が顔を上げる。その表情を見て、恵は思わず息を飲んだ。
恵のよく知る穏やかな祥介はそこにはいなかった。今の祥介は、恵が見たこともないような怒りをあらわにした、知らない男の顔をしていた。
「……糸井くん?」
おそるおそる問いかけたのだが、当然聞こえるはずもない。祥介は恵のことを見ないまま、ただ恐ろしい顔をしてどこかを見つめている。
「なんで苦しいことばっかり……」
祥介の口から言葉が漏れた。表情は怒っているのに、頬には涙が伝う。握り締められた拳も震え、悲痛なその表情からは恵も思わず目を逸らす。
しかしそこでふと、とあることに気がついた。
(……そういえば、私まだ死んでる……?)
たしか、恵は二度目の死の後にもう一度目覚めるはずである。今の段階では死んでいるようだから、いったい何が起きて恵の時が戻ったのだろうか。
恵がそんなことを気にしたからか、突然視界に白が溢れた。端からじわじわと侵食したそれは恵の視界を覆い尽くし、やがて晴れると、別の場面を映し出す。
恵の家の前だった。そこに、祥介が立っていた。
(糸井くん? なんでうちに……)
祥介がインターホンを押す。その仕草に躊躇いはない。聞き慣れたインターホンの音が室内に響くと、遠くからスリッパの駆ける音が近づいた。それでも祥介は身動ぎもしない。何を考えているのか、表情のない横顔からは感情が何一つ読み取れなかった。
やがて家に居た恵の母が、恵も知らないようなよそ行きの表情で顔を出した。
「はーい」
「こんにちは」
「あ、もしかして、あの子の友達?」
「はい」
「どうぞ」
娘が自殺をしたとは思えない、やけにすっきりとした表情だった。
恵が自殺をしたところで、恵の母が何かを思うはずがない。そうであろうことは恵にもよく分かっていた。むしろようやく邪魔者が居なくなったと喜んでいたのだろう。笑顔さえ浮かべたのかもしれない。これで父が振り向いてくれると、現実に期待でもしているのか。
最後まで恵は家族から必要とされなかった。その事実は、思ったほか恵の胸を突き刺した。
「そこにお仏壇があるから」
祥介を和室へと案内すると、母は興味もなさそうにリビングへ戻った。
新しい仏壇だ。しかし小さく質素で、お供え物もない。写真は小学校の頃の卒業アルバムから引き延ばしたと分かるもので、恵は笑顔を浮かべていなかった。
そんな仏壇を前に手を合わせた祥介が、淡々とした心で呟く。
『僕が終わらせるから』
祥介は強い目をしていた。それに気付いた恵は、強い足取りで和室を出ていく祥介を焦ったように追いかける。
「い、糸井くん、終わらせるって何?」
いつもの祥介とは違う。それに嫌な予感を覚えて、恵は聞こえないということも忘れてつい祥介に問いかける。当然彼は振り返らない。そのまま和室を出ると、人の家であるというのに遠慮もなくリビングの扉を開いた。
恵の母はソファに座っていた。よほど機嫌が良いのか、祥介のためにケーキも用意している。
「どうぞ、ゆっくりしていってね」
「……はい」
しかし祥介は座らなかった。リビングを通り過ぎると、すぐ側にあるキッチンに無遠慮に立ち入る。
「どうかしたの?」
祥介を見て不審そうに聞いてはいるが、恵の母は興味もないのか立ち上がることはしない。けれどすぐに顔色を変える。ゆっくりと腰を浮かせると、呆然とした様子で立ちすくんでいた。
「ちょっと……何考えてんのよ」
「……だっておかしいよ。間宮さんが死んで、あんたが生きてるのは」
戻ってきた祥介の手には、母の愛用の包丁が握り締められていた。
恵が殺された時に使われたものだ。そんなものを祥介が持っているということが信じられず、恵も動くことができない。
「や、やめなさい、そんなことしたら人生が台無しに、」
「あんたたちのせいで僕たちの人生が台無しなんだ!」
聞いたこともないような声を張り上げると、祥介は大股に歩み寄り、逃げ出そうとした母の髪をひっつかんだ。
「は! 離しなさい!」
「あんたたち大人は!」
そうして祥介は、容赦無く母の喉に包丁を突き刺す。
「いつも僕たちのことを考えない!」
母が恵にしたように何度も何度も、見たこともないほど力強く繰り返している。
「子どもは親の道具じゃない! 人間なんだ!」
すでに母は息絶えている。しかし祥介は返り血を浴びてもなお貫き続け、だらんとしたその体を乱暴に放り投げた。
「……死ぬまで追い詰めておいて……平気な顔して生きるなよ」
重苦しいとも言える沈黙の中、祥介の息遣いだけが聞こえていた。
恵は言葉を失った。まさかこんなことになっているとは思ってもみなかったのだ。
二度目の死の後、再会した祥介はいつもどおりだったはずだ。恵に何も言わなかった。態度にも出さなかった。相変わらず穏やかで、変わらない笑顔を恵に向けてくれていた。
いまだに信じられない恵を置いて、祥介はふらりとリビングを突っ切る。そうして間宮家の固定電話に向かうと、どこかに電話をかけていた。
こんな時にいったいどこにかけるのか。恵は疑問に思ったのだが、通話の途中で「母さん」と聞こえたために、自身の母親に連絡をしたのだと分かる。
迎えにきて、とも言ってたが、この現場をどうするつもr。
祥介は待っている間、無残に死んだ恵の母を、ソファに座ってただじっくりと見つめていた。暗い瞳だ。恵が見たこともない、光を感じさせない目をしていた。
それから十五分ほど待った頃か。静かな家に呼び鈴が響き渡る。
祥介は動かない。するともう一度、焦れるように音が鳴った。それでも家人が出てこないために不安に思ったのだろう。「すみません、糸井祥介の母ですが」と声がして、祥介もようやく相手に確証を得たようだ。
しかし玄関に向かうことはなく、そこから少し大きな声で「入って」と叫んだ。返り血のことを考慮したのかもしれない。
祥介の母が、祥介に導かれるままにリビングへと踏み入れた。戸惑ったのは一瞬だ。祥介の母は何を聞くこともなく、そこに投げ出された遺体と、祥介の返り血を見て状況を正しく理解した。
祥介の母は小走りに駆け寄り、真っ赤に染まる祥介を優しく抱きしめる。
「だ、大丈夫、大丈夫よしょうちゃん。きっと、この人が何かをしたんでしょう? ね、お母さんちゃんと分かってるからね。お母さんに任せて。お母さんね、しょうちゃんのためにこれの処分をしてあげるからね」
「ありがとう、母さん」
祥介は抱きしめられたまま、母の背中に包丁を突き立てる。
「僕のために死んでよ」
驚いた顔で祥介から離れた母は、何が起きたのかをいまいち理解出来ていないようだった。
それも祥介には関係がない。刺した包丁を引き抜くと、思い切り母の顔を殴りつけた。
「僕たちは、あんたたちの思うままに生かされていただけじゃないか」
「や、やめ、しょうちゃ……」
恵はただ、その光景を呆然と見ていることしか出来なかった。
恵が死んで、祥介も糸が切れたのだろうか。日常の中でぷつりと、案外簡単にその細い糸は切れてしまう。恵はその感覚を知っているために、祥介の激情を見ても特に何も思わなかった。
恵の胸に、祥介の言葉の一つ一つが重く浸透する。子どもは親の道具じゃない。親の思うままに生かされていただけだ。それはすべて、恵も思っていたことである。
先ほどまで祥介の母の命乞いが聞こえていたが、恵が意識を向けた頃にはすっかり静かになっていた。どうやら祥介がすべてを終えたらしい。凄惨な現場は静まり返り、恵は固唾を飲んで見守ることしかできない。
けれどひと息つく間もなく、玄関から扉を強く叩く音が聞こえた。
「おい! 悲鳴が聞こえたぞ! 間宮さん、どうしたんだ!」
近所の人間が聞きつけてやってきたのだ。
それに祥介は煩わしそうに舌打ちを漏らす。恵も同じ気持ちだった。
幼い頃、殴られた恵がどれだけ泣き声をあげても、来てくれたことなどなかったくせに。
(私が死んだからって善人ぶる……)
他人はいつもそうだ。その時には助けてはくれない。何かが起きた後に出しゃばって、いい子だったのに、こんなことになるなんてと安い言葉を無責任に吐き出す。
そう思う恵の隣で祥介はどう思ったのか、もう役目を終えたと言わんばかりに自身の首に包丁を構えた。祥介の狙いはもとより恵と祥介の母親だった。無駄な殺人は望むところではない。
「一回目は、もう一回やり直せたらって思ったら、戻ったんだ」
ポツリと、祥介が呟く。
「大丈夫。また戻る。……戻れる。次に目を開けたら、絶対に間宮さんはまた生きてる」
恵が理解するより早く、祥介が手に力を込めた。




