あの時(1)
次の場面では、中学生活も二年目を迎えていた。
祥介は母に言われたとおり、二年からはある程度体調も落ち着いてきたのか登校できる日も増えたようだ。保健室登校であることに変わりはないが、祥介はそれでもどこか嬉しそうだった。
その日も変わらず、祥介は保健室で養護教諭とのんびりと過ごしていた。祥介が自習をしている側で、養護教諭が仕事をしている。恵もすでに見慣れてきた光景である。
「糸井くん、間宮さんとはお話できた?」
祥介が手を止めると、養護教諭が他意なく問いかける。
この時点ではまだ、祥介は恵の視界にも入っていない。祥介は落ち込んだように俯くと、緩やかに頭を振った。
「……いいえ」
「あら。せっかく二つ隣のクラスになれたのに」
去年はクラスがうんと離れていたから、過ごす階層も違っていた。基本的に保健室に通う祥介には関係のないことではあるが、クラスが離れていると思えばなんとなく接し難さを覚えてしまう。恵の姿もわざわざ見に行っていたのだ。そうでもしなければ会えないほど、祥介と恵は離れていた。
けれど今年からは違う。祥介は体調が良くなって教室に行く機会も増え、廊下で偶然恵を見かけることも多くなった。会いに行かなくても、手の届くところで恵が生活をしている毎日である。
確実に距離は近づいた。それでも祥介はまだ、恵に認知されていない。
「……僕、手術するんです」
思わず動きを止めたのは、突然の話題転換に驚いたからではない。養護教諭もぽかんと口を開けていた。祥介の後ろに立っていた恵だって、無意識に「え?」と言葉が漏れてしまった。
「……手術? だって糸井くん、それだけはお母さんから口うるさく言われても嫌だって反対してたのに……」
手術に関して、恵は何も知らない。それまでどういった流れがあったのかも分からないが、祥介が手術をしないようにと引き伸ばしていたことは恵にも理解ができた。
祥介の母はすぐにでも手術をさせたかったはずだ。祥介に対してのあの様子を思えば、祥介に何を言われようとも強引に手術をさせるような気もする。しかし過干渉になるほどの愛息子からの拒絶は思った以上に辛かったのか、はたまた祥介の言い方が厳しかったのか。どちらにせよ、今まで何をしてもすべてを甘受してきた祥介から初めて抵抗をされて、祥介の母に深く大きなダメージを与えたのは間違いない。
それは、どうして祥介の病を放置しているのだろうと思っていた恵にとって、納得のできる正当な理由だった。
「死んでもいいって思ってたんですけど……今は、そうじゃないので」
「……そう。生きたくなったの」
「はい」
「とってもいいことだわ。間宮さんには感謝しなくっちゃ」
祥介は手術を受ける理由を語ったわけではない。けれども確信めいた口調でそう言われて、図星をつかれたかのように目をまん丸にしていた。
恵には養護教諭の言葉がよく分からなかった。
祥介が生きようとすることに、どうして恵が関係あるのだろうか。祥介はただ恵を観察していただけだった。話しかけるわけでもなかったから、恵はまだ祥介の存在すら知らない。体のアザを見つけて興味は深まり、その中で多少の仲間意識は芽生えたのかもしれないが、ただそれだけのことである。
希薄な関係であるのに、どうして恵が祥介の生きる理由になるのか。
「なんでって顔するのねえ」
「はあ……なんでって思っているので」
「そりゃあだって糸井くん、分かりやすいんですもの」
「分かりやすい?」
「分かりやすいわよ。……間宮さんて少し糸井くんと似てるわ。たまにとっても寂しい目をしてる。前に体育で怪我をしてここに来た時にもね、自分でやるからって絆創膏だけ持ってっちゃったの」
そう言われて初めて、恵は唯一保健室にやってきた時のことを思い出した。
中学一年の終わり頃だっただろうか。体育の授業で転んで怪我をして、晴香が付き添いに来ようとしたのを難なくかわし、一人で保健室にやってきた時のことである。
その時には祥介は居なかったために、おそらく通学していなかったのだろう。ここで祥介が居れば初対面の場になっていたのかもしれないが、神様はそんな機会を設けなかった。
突然訪れた恵の膝を見て、養護教諭は落ち着いた様子で消毒液を取り出した。痛そうねと、そんな言葉をかけられた記憶もある。しかし恵はすぐに大丈夫である旨を養護教諭に伝えると、どうにか消毒される流れを食い止めた。
膝下はアザがないとはいえ、膝上からは違う。見られるリスクを考えれば、恵には絆創膏を貰って帰るという選択しかできなかった。
「……頼れないのか、頼り方を知らないのか……。星沢さんといつも一緒に居るけど、すごく仲がいいってわけでもなさそうだし」
養護教諭が心配そうに言葉を続ける。祥介は微かに目を伏せていた。
「糸井くんが間宮さんの拠り所になれたらいいわね」
祥介はそうなりたいと願いながら、小さくコクリと頷いた。
ぐるりと大きく場面が変わる。今度は塾に来たようだ。
この頃には祥介はもう、どうやって恵に話しかけようかとそればかりを考えていた。
いつもの場所に座った恵の隣、祥介はそこで、首元から覗くアザを見つける。
『まただ……痛そうな跡……』
モヤモヤと苛立ち。恵は、祥介からそんな感情を受けた。
『どうして僕たちばかりがこんな思いをする……あいつらのせいで。あいつらが勝手なせいで』
シャープペンシルを持っている祥介の手が小刻みに震える。隣に座った恵は気付かず、授業に集中しているようだった。
どうして祥介はそこまで恵に親身になってくれるのかと、恵はずっと不思議に思っていた。どうして恵に生きていてほしいと言ってくれるのか。遠い他人だと思っていたために浮かんだその疑問も、過程を見れば納得である。
祥介はずっと恵を見ていた。時には遠くから、時には隣で、二年近い時間ずっと恵のことを考察し、観察を続けていた。
ある意味、近くにいた晴香よりも近い距離に居てくれたと言えるだろう。今日も隣に居る祥介は、頭の中では恵に対する焦燥と恵の環境に対する苛立ちでいっぱいである。
『僕のことを知らないだろうし……』
いったいどうやって話しかければいいのか。もう何度目かそう思った時、講師の陽気な言葉で授業が終わった。
いつものように、教室から生徒が出ていく。授業中とは打って変わっての賑やかしさが、生徒たちの解放感を表しているようだった。
祥介も帰る準備を終えると、うっそりと席を立った。しかし恵はまだ立ち上がらない。恵はいつも祥介より少し早く塾を出るのだが、今のところそんな様子も見られなかった。今日はどうしたのだろうか。ちらりと盗み見ても、恵はまだ帰る準備をしている。
『……今日はやけにゆっくりだな……』
祥介も手際が良いというわけではないから、いつもまったりとしてしまう。それでもそれ以上に遅いというのは少しおかしいのではないだろうか。
違和感を覚えながらも、今日は調子が悪く段取りが上手くいっていないのかなと、祥介は強引に自分を納得させた。
そうして一人、どこか腑に落ちない顔をして、雑居ビルのエレベーターに乗り込む。
そんな祥介を背後から見ていた恵は、なんとなく心の中で謝罪をした。
恵だけは知っている。これから何が起きるのか。どうして恵がこの日だけ、やけに時間をかけて帰り支度をしていたのか。
本当に突然だった。衝動とも言うのかもしれない。恵は唐突に、耐えられないと思ってしまった。
何か嫌なことがあったわけではない。むしろいつもどおりの日常を繰り返していただけである。朝から母には殴られた。昼は学校で愛想笑いをして沙織に嫌味を言われ疲弊し、そのまま塾にやってきた。なんら変わりない、いつもの恵の一日だった。
その中で突然、ぷつりと糸が切れた。そんな感覚だったのは恵もよく覚えている。
いつもと変わりない日常に紛れて、まるでさざ波のように優しく襲いくる。
死への衝動。いや、憧憬だった。
雑居ビルの一階に下りて建物を出たところで、祥介が足を止めた。やはり変だと思ったのだろう。奇妙な顔をして雑居ビルを見上げている。
虫の知らせというのか、嫌な予感というのか。祥介の胸中にはそれらが渦巻いていた。
『いや……気のせいかも』
だけどもし、そうでなかったら。自問自答を繰り返した末、結局祥介は雑居ビルへ勇ましく踏み入れた。少し前までどう話しかければ良いかと考えていたのが嘘のような足取りである。祥介はすぐさまエレベーターに乗り込み、塾のある階層のボタンを押す。
古びたエレベーターが、大きな機械音と共に上昇する。いつもは速く思えていたが、今ばかりはやけに遅く感じられた。
『残って、何かがあるのかな……』
それでも帰る準備をしていたなら、帰ろうとしていたということである。講師に何か用があるということも、誰かと待ち合わせをしているということも、恵のこれまでの行動を思えば考え難いだろう。
ようやくたどり着いたエレベーターから飛び出すと、祥介は急いで教室に入った。
「うわ、どうしたの糸井くん。忘れ物でもした?」
講師である若い男が、驚いた顔をして振り向いた。ホワイトボードを消していたようだ。しかし今は手を止めて「どこの席?」と祥介に聞いている。
恵の姿はない。いつもの席はもぬけの空で、どこかひんやりとした空気さえ漂っている。
「間宮さん帰りましたか?」
「ん? ああ、うん。俺が来て少ししてからね。もうみんな帰ってたし、間宮さんも早く帰りなよって言っ……ってちょっと糸井くん!?」
祥介は、自分の体のことも忘れて駆け出していた。
先に下に居た祥介とはすれ違っていない。祥介が塾に戻ってきた時にも、エレベーターを待っていたわけでもなかった。恵は下におらず、けれど教室にも姿はない。ともなれば、どこに行ったのかは何となく察することができる。
キィ、と、半開きの扉が揺れる音が聞こえた。
階段を上って少し。疑心が確信に変わる。
本当は心のどこかで期待していた。
祥介がエレベーターを使って上がってくる間、恵は実はエレベーターを待っていて、しかし早く帰りたいからと階段を使って下りていたのだと、恵の家庭環境を思えばありえないそんなことを、馬鹿みたいに期待していた。
ありえないと分かっていながら、それでも最悪の未来を考えたくなかったのだ。
祥介は必死に階段を駆け上がる。全力疾走なんて、祥介の人生において初めてのことだった。
やがて、屋上の扉が少し開いているのが見えた。手遅れになる前にと半ば転がり込むようにそこを開き、必死に恵の姿を探す。
屋上のへりに立つ人影。それを見つけて、祥介は反射的に駆け出した。
空を見ていた恵の体が、ゆっくりと傾いていく。祥介はただ必死に手を伸ばしていた。どこでもいい。掴むことができたなら、絶対に引っ張り上げてみせる。そんな覚悟を胸に、一歩一歩力強く地面を蹴り上げる。
まるでスローモーションのように、恵の姿が祥介の視界から消える。しかし祥介は諦めない。屋上から身を乗り出して、落ちていく恵に手を伸ばす。
「間宮さんッ!」
涙まじりの悲痛な声は、重力に逆らわずに落ちていく恵には届かなかった。
なんで。どうして。祥介の頭を占領した絶望の声が、他人事のように見つめていた恵に痛いほどに伝わってくる。声にも出ていたのかもしれない。祥介は繰り返し嫌だとつぶやきながら、それでも落ちていく恵から目をそらさない。
やがて鈍い音がした。悲鳴が届く。そうして屋上に居る祥介を見上げた野次馬が、何事かと警察を呼んでいる。
自分が死ぬ瞬間とはこんなものだったのかと、恵はやはりどこか他人事のように考えていた。
現場はとにかく凄惨なものだった。恵自身も目を逸らすほどであるというのに、祥介は屋上からそこを見つめて動かない。
「はぁ、はぁ、なんで。届かない。だってまだ、どうして、今日」
先ほどの全力疾走が祥介の体に無理をさせたのだろう。心臓が変な動きを繰り返し、呼吸がままならない。それでも霞む視界で恵を見つめて、祥介はただ支離滅裂な言葉を吐き続けていた。
「まだ。何も言えて、ない。はぁ。まだ。今日、だって」
「もういいよ、糸井くん」
可哀想なほどに必死な祥介を見て、恵も思わず言葉が漏れた。
もうどうだって良かった。自分を情けないとも思わない。恵は自ら死を選んだ。恵はまだ子どもだけれど、それでも生死に関しては自己責任である。
うずくまる祥介を見下ろして、恵は微かに眉を下げる。しかしすぐに異変に気付いた。
「糸井くん……?」
今の恵の声は届かない。その上触れられるわけもない。それでも恵は寄り添うように膝をつくと、苦しげな呼吸を繰り返す祥介の背を撫でる。
「なん、はっ、はぁ、まみ、さ、」
這うようにして、祥介が屋上から身を乗り出した。
まさかと恵が思うと同時、背後で屋上の扉が開く。
「きみ!」
入ってきたのは警官だった。しかし祥介は構うこともなく、苦しみながらも、屋上から這うようにして身を投げる。
「待ちなさい!」
警官の手も、祥介には届かなかった。
祥介は恵の隣に落ちた。同じように弾けて、恵の方に顔を向けている。
それは、寄り添っているようにも見えた。凄惨なはずの現場であるのに、上から見ていた恵の目からは一筋の涙が伝う。
祥介は恵の後を追っていた。最後は何を呟いていたのか。
苦しみながら何かを言って、躊躇った様子も見られなかった。