繰り返す(1)
少女はただ、無心に歩んでいた。
塾も終わった、午後十九時の雑居ビルの屋上である。広いそこを突っ切って、誘われるように進んでいく。
フェンスなんてものがない屋上には、少しばかりのでっぱりしかなかった。誰かが飛び降りるということは想定されていないのだろう。ここは普段鍵がかかっているし、少女が「コツさえつかめば鍵は簡単に開く」ということを知ったのも、単なる偶然である。
まさか自分がここの自殺者の一人目になるとは、考えてもいなかった。
少女はそんなどうでも良いようなことを考えながら、とうとう屋上の端に立つ。
生温い風が吹いた。それは少女の頬を撫で、髪を揺らし、通り抜けて空に向かう。
そうして少女は、数回ほど深呼吸を繰り返す。少女はやけに落ち着いていた。その高さに臆することなく、冷静に遠くを見つめていた。
――体が傾く。まるでスローモーションのように揺らぐと、やがて浮遊感が襲う。それも一瞬だ。すぐに重力が少女を下へと追いやって、その体は真っ逆さまに落下する。
これで終わる。きっと終われる。
少女はただそれを願って、ひたすら固く目を閉じた。
少女、間宮恵は、まだ十四歳の、義務教育さえ終えていない子どもである。
特に秀でたところはない。テストの成績も学年では真ん中より少し下、部活動にも所属しておらず、交友関係が特別広いということもない。趣味は読書と絵を描くことで、いつも一緒に居るクラスメイトとは特に深い会話をすることもなく、教室の隅っこでひっそりと過ごしているような、そんなどこにでもいる女の子である。
恵がよく考えていたことと言えば、もしも生まれ変わったら、なんて可愛らしいことばかりだった。
恵はいつも思っていた。もしも生まれ変わったなら、今度はみんなに愛される犬や猫になってみたい。愛玩動物とは、愛玩と呼ばれているだけに、可愛がられるための存在である。世界を知らない幼い恵は、可哀想な境遇の動物たちの存在も知らないまま、ただ純粋にそれらに生まれ変わることを願っていた。
しかし。
一瞬の後には、ぱっと目が開く。
いつもと変わらない、眠りから目覚める時と同じ心地である。
それは、短い眠りから突然目覚めたかのような、あるいは長い夢をみていた後の気怠い目覚めのような、そんな奇妙な感覚だった。
最初に見えたのは、もう見慣れた、自身の部屋の天井である。いつもいつも、嫌なことがあれば早く時間が過ぎるようにと天井の木目を数えていた。間違いない。顔のように見える部分が少しだけ怖いなと、十四になった現在でもそんなことを繰り返し思っていたのだ。
少しだけ首を動かすと、普段使っている勉強机が見える。小学一年生の頃から愛用しているためにすっかり小さくなってしまったが、その分愛着のある机だ。備え付けの棚には教科書とノートが乱雑に詰め込まれていて、机の上も散らかっている。
その近くにある壁に引っ掛けられた制服も恵の通っている中学のものだし、置いてあるカバンも指定のもので間違いはない。
これは、どういうことなのか。恵は確かに雑居ビルから飛び降りたはずだが、なぜか家に戻ってきたらしい。
物語であればやり直しだなんだと思えたのかもしれないが、ドタドタと部屋に上がてくる騒がしい足音を聞けば、そんなこともないと分かる。
もしも恵がやり直したのであれば、もっとマシな現実を選べたはずだ。
なのに何一つ、死ぬ前と変わらない。
「あんた!」
足音と同じような乱暴さで、恵の部屋が開かれた。もう何度もそんな開け方をしているからか蝶番がそろそろ緩みかけていて、ドアがいちいちぶつかる場所はへこんでしまっている。しかし入ってきた女は気にもかけず、まっすぐに恵の元にやってくると、バシンと一つ頬を打った。
「あんたのせいでまたあの人帰ってこないじゃないの! この!」
女は恵の髪を引っ張って、ベッドから引きずりおろす。
「あんたのせいよ! 全部、全部! この、邪魔者!」
抵抗のない恵を何度も打つと、蹴って踏みつけてと女はひたすら繰り返す。
恵は知っている。こういった時、助けを請うことも無駄なのだ。
随分昔に試みたそれは、結局「うるさい黙れ」の言葉と共に、さらに酷い仕打ちを受けて終わった。その経験を元にすれば、黙っているのがもっとも賢いことだというのは考えなくても理解が出来る。
恵は心を無にして耐えていた。痛みに声も漏らさず、泣くこともなく、目を閉じてひたすら時が経つのを待っていた。
やがて女は気が済んだのか、充分に恵を痛めつけると、満足したように部屋から出ていく。女が部屋にやってきて、実に三十分後のことである。
うずくまって自身を守っていた恵はゆっくり体を持ち上げると、鼻血を止めるためにすぐにティッシュを引き抜いた。そうして鼻に突っ込んで、今度は血がついた服を着替えようかとクローゼットを開ける。
体は痛む。しかしそうも言っていられない。このままで居ればまたあの女が「汚らしい」と言って逆上するのだ。それでもう何度も失敗しているために、恵はその後の動きもしっかりと心得ている。
綺麗な服に着替えて、鼻に突っ込んでいたティッシュを詰め替えた。そうして再び、脱力したようにベッドに横たわる。
恵の毎日は、おおよそこんなことばかりだ。
先ほどの女――恵の母は、恵に対しての愛情はもはや皆無と言えるほどにしか持ち得ていない。母は恵の父のことしか考えておらず、そしてその父が不倫をしているために、恵に八つ当たりを繰り返す。父は不倫を公言して「別れたい」と離婚を求めているのだが、父を愛している母がそれを受け入れるわけもない。愛している相手との別れを選べず、しかし不倫も許せないままで、弱い母は結局恵をはけ口に逃げるしかできないのだ。
最初は良かった。父は不倫を公言していなかった。喧嘩が多いだけの夫婦だと、恵の認識もその程度だった。しかし恵が九歳の頃、その認識が唐突に終わる。父の不倫を知った母が父に詰め寄り、今までのものが比ではない大喧嘩が始まってからである。それ以来開き直った父は不倫を公言し、金も払うからと離婚を求めて現在に至る。
両親は、ただ喧嘩が多かったわけではない。単純に冷め切っていただけだった。
母が恵に手をあげ始めたのはそれからである。愛されない原因を自身に見出したくなかった母は、すべての原因を恵だと決めつけた。そうして恵のせいで不倫されたのだと思い込んで、毎日恵に罵声を浴びせては殴る蹴るの暴力を繰り返している。そんな様子を知る父も、我関せずで口を出す様子もない。むしろ視界にすら入れないために、恵のことは無いものとして思っているのだろう。
恵は一人だった。もう死にたいと思っていた。
そんな気持ちで、出来るだけ家に居るなという理由で通わされていた塾の終わりに、屋上に立ったのだ。
(おかしい……殴られたところが痛い。生きてる。私は確かに、飛び降りたのに)
殴られたところは、生きていると主張するようにジクジクと痛む。鼻血も出ているし、胸に手を当てれば、心臓もそれまでどおりに脈打っていた。
間違いなく飛び降りた。記憶もある。落ちる直前までの記憶もしっかりと残っている。それなのに、恵は生きている。その現象が、恵には理解ができない。
もしかしたらこれは夢だろうか。しかし殴られたところが痛むのだから、その可能性も低い。
では、何故。
考えても分からない現象に、恵は少しばかり頭を抱える。
走馬灯とも思いにくい。実体もあるために霊になったわけでもない。あらゆる可能性を思い浮かべるのだが、そのどれもに否定材料が見つかってしまって、どうしても正解が見つからない。
確実なのは「何故か生きている」という事実だけである。
(……なら、また、死なないと)
そう思い立つと、鼻にティッシュを詰めたままで、恵はすぐさま家を飛び出した。
リビングでテレビを見ていた母は恵の様子を気にすることもなく、恵を追いかけることも声をかけることもなかった。彼女の中で恵の存在などその程度ということなのだ。しかしそれも分かっていたことである。恵は今更そんなことに傷つくこともなく一目散に走り抜けて、塾が入っている例の雑居ビルへとやってきた。
一度死んだあの時とは違い、今回は落ち着いた様子もなくひたすら駆け上がる。足音が響く。それも気にせず屋上を目指して、恵はとうとうコツを駆使してそこの扉を開け放つ。
早く早くと、気が急いていた。何故か死ねなかったからだろう。恵は無駄に母に殴られただけである。
そんな現実から逃げ出さなければと、一度目と同じように屋上の端に向かった。
死が目の前に見えていた。魅せられてさえいたのかもしれない。恵がフラフラと足を進め、ちょうど、その縁に立った頃。背後で、扉が開く音が聞こえた。
「間宮さん」
まだ声変わりの終わらない、少しだけハスキーな声である。
「間宮さん、危ないよ」
こんなところを見られた。それも、自分の名前を知っている人物に。そう思うと恵は動けず、振り返ることすらも出来ない。
恵は当たり障りなく生きていたのだ。平々凡々で目立たず、すれ違っても印象に残らないような存在で、間違っても授業中に大きな声で先生と話したり、休み時間に走り回って男の子を追いかけ回したりなんてしていない。注目されるのが好きではなかったし、そもそも恵は暗い境遇もあって内気で根暗で引っ込み思案なために、目立つ存在になりたいと思ってもいなかった。
しかし、こんな場面を見られたならどうだろうか。
明日にはきっと、学校で悪い噂が広がっているだろう。自殺をしようとしていたなんて、どんな目で見られることになるのかは想像に難くない。それも、特に中心的な人物でもない、教室の隅っこで大人しくしていた恵のことである。何あいつ、頭おかしいじゃん、と、容赦のない罵声が浴びせられるかもしれない。
ゴクリと、喉を鳴らす。そうしていったい誰に見つかったのかと恵がゆっくりと振り返ると、一瞬、そこには誰も居ないように見えた。
しかし、あくまでもそう見えただけだ。実際には居る。なぜかその少年はうずくまっていたために、すぐには認識が出来なかったのだ。
「……え?」
「はっ……はっ、ま、みや……さ」
「え、え? 大丈夫!?」
明らかに普通の様子ではなかった。
苦しそうに荒く呼吸を繰り返し、大きく体を揺らしている。空気が抜ける音も聞こえるために、きっと呼吸もうまく出来ていないのだろう。
うずくまって地に額をつけている少年は、それでも呼吸の合間に恵を呼んでいた。自身の危機も顧みず、まるで恵の自殺を引き留めているようである。
「は、話さないほうがいいよ! ほら、私はここに居るから、落ち着いて。ね。ゆっくり呼吸して」
駆け寄った恵は、ひとまず少年を落ち着けようと必死に背を撫でる。はたしてこの行為がどれほど役に立っているのかは分からない。気休め程度なために、恵はハラハラとしながらただ少年を見守っていた。
やがて、少年も恵が飛び降りなかったことを理解して落ち着いたのか、自身の身を守ることに専念し始めたらしい。冷静に呼吸を繰り返し、自身を落ち着けるようにと努めている。
当然ながら、二人に会話はない。気がつけば空は暗く、もう塾も始まっている頃だった。
そういえば、死んだ後はいつの時間に「戻った」のか。それを確認していなかったことを思い出して、恵は唐突にそれが気になった。
今が、塾の始まる時間であるのは分かる。空の明るさで一目瞭然だろう。けれども恵が死んだ時は、塾の終わった時間だった。
「はぁ……間宮さん。ありがとう」
かすれる声でそう言った少年が、ゆっくりと体を持ち上げる。
額に玉の汗が浮かび、顔色もまだまだ悪いものの、先ほどよりは幾分体調は良いらしい。呼吸も落ち着いて、微笑む余裕さえ戻っているようだ。
「……あ。えっと……」
恵の名前を知っていたために恵も知っている人物かと思っていたのだが、記憶のどこを探しても、少年の顔に見覚えはない。
名前を呼ぼうとしたのだがそれもかなわず、恵はきゅっと口を閉じた。
「……僕のことを知らないのは当たり前なんだ。間宮さんとは同じクラスになったこともないし、そもそも僕はあんまり学校にも行けてなくて、まとまって登校出来ても保健室で過ごしてるから」
残念そうな様子もなく、なんてことないように少年が語る。
「僕は、糸井祥介っていいます。えっと……三組だから、間宮さんの二つ隣」
「……そうなんだ……。ご、ごめん。私、人のこと覚えるのって苦手で……」
「ううん、大丈夫。クラスメイトでさえ、僕のこと知らない人が多いからね」
陰りなく、祥介が笑う。真に気にしていないということが分かるそれに、恵はホッと安堵する。
しかし、すぐに違和感に気がついた。
「……どうして私のことを知ってたの?」
「塾は同じなんだよ。……僕、学校に行けてなくて、勉強も遅れ気味だから、元気な時には通わされてるんだ」
だからここにも居るのかと、恵はみょうに腑に落ちた。
焦ったように屋上に駆け上がる塾が同じな同級生を見かけたら、それは追いかけて当然だろう。彼はきっと正義感にしたがって恵を追いかけ、自殺を止めたのだ。
(糸井くんなら学校にも来ないし……悪い噂も流しそうにない)
ここは一旦引いて、今日のところは祥介と帰るのが妥当かと、恵はすぐにそんなことを考えていた。
「……同じ塾に同じ学校の子が居たのなんて知らなくて驚いちゃった。あ、糸井くん家近い? 体弱いなら、送っていくよ」
暗に「帰ろう」と立ち上がると、祥介は膝をついたままでじっと恵を見上げる。
何を思っているのかは分からない。恵はそんな祥介の目を見つめ返すことも出来ず、なんとなく視線を泳がせた。
「……間宮さん。どうして死のうと思ったの」
回り道をすることもなく、まっすぐに核心を突く。
「あ、いや……こういうことは言いたくないことも多いだろうから、無理には聞かないけど……でもせっかく生きてたのに、また死のうとするなんてよっぽど……」
そこまで言うと、祥介はハッとして慌てたように口を閉じた。
もちろん恵は聞き逃さない。「せっかく生きてたのに」と、そして「また死のうと」と彼は間違いなくそう言った。つまり、恵が一度飛び降りて、なぜか生きているということを知っているのだ。
「……なにを知ってるの?」
聞いても、祥介は答えない。ただ俯いて、気まずそうに眉を下げている。
「わ、私、死んだの。死んだはずなのに、生きてるの。だからまた死ぬためにここにきたの。ねえ糸井くん。私に今、なにが起きてるの?」
「……分からない」
「でも今せっかく生きてたのにって、」
「分からないよ。僕にも分かってないんだ。……言えるのは、きみは生きてるってことだけ」
それは、恵が最終的に思い至った結論と同じだった。
なにも分かることはない。だけど「生きている」という事実だけは目の前にある。だからそれしか確実なことは言えないのだ。
「……なんで。糸井くんはなんで、私が死んだことを知ってるの?」
祥介はぐっと唇を閉じて、噛み締める。
「おかしいよね。だって生き返ったなら、死んだことはなかったことになってるはずなのに。……なんで、糸井くんには分かったの」
「……間宮さんが飛び降りた時、居たから」
「え……?」
「僕、居たんだよ。後ろに。だけど間に合わなかった。手を掴めなかった。……それだけ」
「……それだけ、って、そんなに軽いこと? だって、私が死んだことを知ってて、その上で糸井くんがここに居るなら……糸井くんも私と同じように『繰り返してる』ことになるのに……?」
時間が戻ったのかは恵にも分からない。しかし「繰り返している」ということはおそらく確実で、この世界が死ぬ前の世界となんら変わりない残酷な現実であるということもまた、変わらない事実である。
「……僕から言えることはない。だけど、間宮さんには、死んでほしくない」
祥介は切なげに顔を歪めて、静かに俯いた。