第25話 異変
そう。アーロンの言う通り、これで終わりだ。何だか、妙に呆気ない最期だ。だが、実際に崖っぷちに立たされてみると、不思議と心残りはなかった。そもそも、この二十年自体がおまけのようなものだった。本来なら自分たちのような存在は、終戦と共にこの世から一掃されるべきだったのだ。
アリスの事やレギウスの事、そしてこのムシュフシュ遺跡の事。いろいろと気になる事は残されているものの、だからと言ってこれ以上はどうしようもない。まさに状況は絶体絶命だった。
唯一――今、この部屋にあの二人がいない事だけが救いだった。アーロンの事だから、無関係のアリスやレギウスに手を出すとは思えないが、二人がもしここにいたら、生物兵器に感染し、苦しんで死ぬクロードの姿を目にすることになっただろうから。
「……俺を殺すのか」
俯いたまま、ふと、アーロンにそう尋ねた。だが、口に出してからすぐに、我ながら間の抜けた質問だと呆れてしまった。そんなことは、言わずもがではないか、と。
アーロンの返事はない。アーロンもまた、呆れているのだろうか。それとも、手にした勝利に酔いしれているのだろうか。
それはそうだろう。ここまでリスクを犯しながらも、ようやく目的を達成させたのだ。その望みが最終的にいかなる結果を生もうとも、ある種の喜びはあるだろう。しかも、アーロンの企てた計画はほぼ完ぺきだったと言っていい。おそらく、事前に綿密な計画を立て、周到に用意を重ねてきたに違いない。だから、アーロンが達成感に浸っていたとして、それもやむなしだ――そう思って顔を上げた。
そして、クロードは目を瞠る。
「アーロン………?」
アーロンに思わぬ異変が起きていた。片手をエンリルで生み出した透明な壁につき、激しく肩を上下させている。一見しただけでも、かなり辛そうだ。更に目を凝らすと、俯いた顔の半分近くが青紫に変色していた。
アーロンに一体何が起きているのか。わけが分からず混乱していると、アーロンは首をもたげ、こちらを見上げて微かに笑った。
「安心しろ。お前は死なない。……死ぬのはおそらく、俺の方だ」
「何が……どうなっているんだ……⁉ あともう一歩で、お前の目的は達成されるはずだ! ここまで仕組んでおきながら、何故……?」
追い詰められたはずのクロードには、未だに何の異常も無い。アーロンの言った実態実験が始まる様子も無いし、勿論、《ギルガメシュ=システム》にも異常はない。それどころか、実際に苦しんでいるのは、この状況を作り出した当のアーロンの方なのだ。クロードでなくても、困惑して当然だろう。疑問が高速で脳内を駆け巡る。だが、どうにも答えは出ない。
「アーロン、説明しろ!」
クロードは再び、アーロンの作り出した透明な壁の近くに走り寄った。するとアーロンは、壁から手を放し、細かく震える手で自らが纏うイディア軍の戦闘服の襟元を捲って見せた。
「これを見ろ」
そこにあるのは、ちょうど首輪のようなものだった。黒い管の形をしたものが、ぐるりと首を囲っている。だが、それがファッションの類では無い事はすぐに知れた。アーロンの皮膚にめり込むようにして、殆ど埋め込まれていたからだ。皮膚の異常な変色はそれを中心にして、グラデーションのように全身へと広がっているようだった。首輪の周囲は最も変色がひどく、既に炭のようにどす黒くなっている。
「何だ、それは……!?」
あまりにも異様な光景に、クロードは全身を硬直させていた。戦争中はそれなりに様々なものを目にしてきたが、この様な常軌を逸している現象は見たことが無い。
既に立っているのも苦痛なのだろう、アーロンは再び壁に手を突き、体重を預けながら言った。
「この首の管の中には、お前に投与する予定だった生物兵器が仕込まれている」
「生物兵器……⁉ 馬鹿な……死ぬのは俺じゃなかったのか? 何故、それがお前に投与されている⁉ 先程の説明は一体……何だったんだ!」
クロードは愕然とする。すると、アーロンは息を切らせながら説明した。
「外部に計画を漏らしたら……関係の無い第三者に機密を喋ったら、逆にこれが俺自身に作用するよう、最初から設定されていた」
という事は。クロードは混乱し、覚束ない頭を何とか叩き動かして考えた。
(俺の《ギルガメシュ=システム》を遺跡の欠けたパーツにあてる事、尚且つ俺をムシュフシュの生み出す生物兵器の実験隊にする事。これらの事項は、アーロンにとって他に漏らしてはならない重要機密だったという事か……?)
そして、おそらくアーロンはそれを承知で、敢えてクロードに喋ったのだ。
「何故……一体誰がお前にそんな事を‼」
誰がそのようなおぞましい首輪を、アーロンに科したのか。しかしクロードは、アーロンの回答を得ずとも、次の瞬間には自ら悟っていた。分かりきった事だ。屍兵を思いのままに操れるのは世界でただ一人。
――死霊魔術師だけだ。
アーロンに重要機密を漏らさぬよう命令することができるのも、罰則として首輪を取りつけることができるのも、死霊魔術師を置いて他にはいない。
(だが……それなら、アーロンの死霊魔術師は誰なんだ……⁉)
だが、そうして会話を交わしている間にも、アーロンを蝕む皮膚の変色は、着々とその面積を広げている。もしそれが何某かの細菌、或いはウイルスの感染によるものなら、かなり毒性の強いものに違いない。
感染の仕方も異常なほど早く、それだけを取っても、どれだけ危険なものか一目で察せられる。首輪に仕込まれた生物兵器が投与されてから、どれほどもつのかは分からないが、早急に解毒剤を撃たねば死に直結する。
(くそ……古代の軍事施設で生成された生物兵器か! 解毒剤が存在するのかどうかも分からないし、それが一体どういったものなのか、どこにあるのかも俺には分からない……!)
クロードは激しい焦燥に駆られた。時間は一体、いつまで残されているのか。その時、ふと思い出した。
アーロンは先ほど喋っている時に、一瞬不自然に黙り込んだ。クロードはそれを感情表現の発露だと受け取ったが、ひょっとするとあの時には既に、首の装置が作動していたのかもしれない。
ともかく、一つだけはっきりしている事がある。
それは、アーロンは何者かに脅されていたという事だ。遺跡を動かし、クロードを誘い出して殺せと言う命令を受け、背けば逆にお前を殺すと脅迫されていた。そして、生物兵器入りの輪っかを首に取り付けられたのだ。
「異常だ……‼」
クロードは戦慄を覚えずにはいられなかった。死霊魔術師と屍兵の関係は、基本的には主従関係だ。だがそれにしたって、これは余りにも度が過ぎている。
屍兵は動物ではない。人と同じ知能があり、感情を理解する。兵器としてそれが適切かどうかは分からないが、ともかく屍兵とはそういうものなのだ。
絶対服従は構わない、とクロードは個人的には思う。屍兵とはそういうものだからだ。事実、死霊魔術師の中にはそういう思想を持つ者もいる。また、人であっても、軍などの組織によっては絶対的な上下関係を強いられる事もある。
だが、どれだけ立場上の違いがあろうと、人と人との関係にはコミュニケーションが必要となってくるし、ある程度の信頼関係の構築も求められる。屍兵であろうと死霊魔術師であろうと、基本は人間関係におけるそれと同じなのだ。
だが、アーロンに施された手段は、コミュニケーションや信頼関係といった要素を根本的に全て否定するものだった。関係の構築を必要としていないどころか、根こそぎ葬り去っている。
何故。どうして、こんな事ができるのか。アーロンの死霊魔術師は、一体、何を考えているのだろう。
そこまで考えた時、不意に上の広間で、アーロンがクロードに向けて放ったハンドサインの意味を思い出した。
《非常事態につき、即刻退却せよ。身内に裏切り者がいる》
非常事態が何なのか、裏切り者が誰の事を指すのか。その時は判然としなかったため、意味のない偶然の符合かとも思った。たまたま偶然、アーロンの身振りが且つてのハンドサインと重なり、意味を持っているように見えただけなのかと。だが、今ならそれが偶然の産物などでは無い事が分かるし、アーロンが知らせようとしたその意味もありありと想像できる。
だがクロードは、それを受け入れたくなかった。非常事態や裏切り者が何を指しているのか、この期に及んでも、どうしても認めたくなかった。
――まさか。嘘だ。信じられない。
だが一方で、クロードの中の冷静な部分は、導き出したその答えを確信している。この一連の出来事を裏で操っている黒幕、その正体が誰であるかを、はっきりと告げている。
クロードは逡巡しつつも、自ら得た確信をそのまま問いにした。
「お前には死霊魔術師がいる……そうだな、アーロン⁉」
「………」
「それは誰だ! 『裏切り者』ってのと関係があるのか⁉」
その言葉を聞き、アーロンは僅かに反応する。
「……そうか。やはり、気づいたのか。ハンドサインの意味に」
「当たり前だ! 何年、同じ部隊にいたと思ってる!? 《非常事態につき、即刻退却せよ。身内に裏切り者がいる》……あのサインに気づいたから、俺はお前を追って来たんだ‼」
すると、アーロンはうっすらと微笑んだ。皮膚は既に、生物にあるまじき色に変色し、顔色も悪くなる一方だったが、その表情はどこか満足げだった。
「……お前は変わらないな。いつもは眠たげで緊張感の欠片も無いくせに、いざという時は妙に頼りになる。お前だから、きっと……。この邂逅は奇跡だな……」
「そう思うなら……答えてくれ! お前の背後にいるのは誰なんだ、アーロン……?」
アーロンは、答えない。
「――レギウス、なのか⁉」
クロードは僅かな躊躇と共に、その名を口にした。そうであって欲しくないという願いと、そうに違いないという確信の間で、激しく揺れながら。
しかし、アーロンはそれでも答えなかった。ふらつく体をどうにか支え、微かに顔を歪めただけだ。
「……答えろ、アーロン‼」
クロードは語気を強めた。無意識に、固めた拳で透明な壁を殴りつけていた。どうして――こんなことをされてまで、どうして彼女を庇うのか。何故、この期に及んで口を閉ざすのか。
すると、アーロンは臓腑の奥底から絞り出すようにして答える。
「特定事項には……保護がかけられている………。許可なしに、口にすることは、できない……!」
クロードは息を呑む。――そこまでするとは。
だが一方で、アーロンの答えはクロードの考えを肯定するものでもあった。特定の単語に保護をかけようと思ったら、擬似魂や《マルドゥ―ク=システム》の細かい調整が必要となってくる。そして、その様な繊細な作業ができるのは死霊魔術師の中でもただ一人――レギウスだけだ。何せ、彼女は《マルドゥ―ク=システム》や擬似魂を発明し生み出した本人なのだから。
一般的に、屍兵は死霊魔術師によって駆動制限を設定されているため、その行動には強烈な制限がかかる。屍兵は死霊魔術師を傷つけることは許されないし、戦闘を行う際も死霊魔術師の許可を取ることが必要となる。だが、だからと言って、精神までも支配されるわけではないのだ。そんなことができるとしたら、それは『特別な存在』だけだ。
クロードは唇を噛んだ。彼女なのか。
今回の事を全て仕組み、アーロンを操っていた、黒幕。
それが、レギウスだというのか。