第18話 《ギルガメシュ=システム》
「とにかく、だ。……俺は、アーロンを追う。アリス、補給油を補給してくれ」
そう切り出すと、アリスの表情は急に強張った。
「わたしは……反対だよ」
何故、反対するのか。クロードはアリスに視線を向ける。それが存外強いものだったらしく、アリスはびくっと肩を震わせた。しかし、気丈にもクロードを睨み返す。
「れ……《レヴィアタン》に応援を要請した方が、いいんじゃないかな? 危険だよ!」
「分かってる。お前はここに残れ。俺一人で行く」
「あ……あう、そうじゃなくって……!」
アリスはまごついた様子だったが、やがて決心した様にはっきりと口に出した。
「で……でも……こ、このままじゃ……きっと勝てないよ!」
そんな事は分かっている。クロードは内心で舌打ちをした。だが、それでもアーロンを放っておくことはできないのだ。アリスにそれを理解しろとは言わない。ただ、邪魔だけはして欲しくなかった。
ところが、クロードより先に口を開いたのはレギウスだった。
「心配ないわ。クロードはアーロンに勝つわよ」
それは何かを確信したかのような笑みだった。例えるなら、神様はこの世にいるのだと、純粋無垢に信じている少女のような、一片の懐疑も感じられない完全なる微笑。
アリスは訳が分からないらしく、「えっと……?」と、小首をかしげている。
しかし、クロードはレギウスが浮かべた笑顔の意味を知っていた。彼女の言わんとするところを悟り、胸のあたりにずしりとした重苦しさを感じる。忘れた筈の――二十年前に置いて来た筈の、どうしようもない虚無感と絶望感が、俄かに蘇って来た。手足の先が温度を失い、痺れていくのを感じる。
「レギウス! 俺は……もうあれは使わない……!」
吐き捨てるように、声を荒げる。アリスは何事かとぎょっとした表情になった。
しかし、当のレギウスは動じない。それどころか、その瞳に冷徹な光が灯る。
「どうして? あなたはギルガメシュよ。それは、変えられない事実なのよ」
「ぎ……ギル、が、めしゅ………?」
何のことか分からないのだろう、アリスが戸惑った表情を浮かべる。
だが、クロードはその名をよく知っていた。ギルガメシュ――それは、まさにクロードの代名詞だと言っていい言葉だったからだ。
そもそも、ギルガメシュとは何なのか。それは、《ギルガメシュ=システム》という機関を内蔵している屍兵を指す言葉だ。
屍兵には全て、《マルドゥーク=システム》が搭載されている。性能の差はぴんからきりまであるが、ただ一つ共通している事がある。それは、《マルドゥ―ク=システム》が扱うのはあくまで聖霊魔術だという事だ。《マルドゥーク=システム》では、聖霊魔術の上位互換魔術である死霊魔術は発動させることができない。
死霊魔術の為の演算機関――それが《ギルガメシュ=システム》だった。そして、この世で《ギルガメシュ=システム》を内蔵している屍兵は、クロードただ一人である。レギウスは幾度か《ギルガメシュ=システム》を他の屍兵に搭載しようと試みたが、ついに適合者は現れなかった。だから昔も今も、クロードが唯一のギルガメシュなのだ。
《マルドゥーク=システム》が聖霊を消費するように、《ギルガメシュ=システム》もまた、霊的エネルギーを消費する。死霊の魂――いわゆる人魂だ。その様がまるで人の魂を喰っているようにも見える事から、クロードはかつて《黄昏の喰霊鬼》と呼ばれていた。
今となっては、忌々しい黒歴史でしかない。だが、少なくともレギウスにとっては、《黄昏の喰霊鬼》の異名は、黒歴史とは真逆の意味を持つようだ。
「アーロンにあるのは《マルドゥーク=システム》だけ……あなたが《ギルガメシュ=システム》を起動させれば、十分勝機はあるわ」
こちらの意向を全く構わず話を続けるレギウスに、クロードは強い苛立ちを感じた。
「あんたは本当に変わらないんだな……嫌だと言っているのに! 俺が……俺が喜んで、人の魂を喰っていたとでも思うのか⁉ 人の魂を消費して、死霊魔術を使ってまで戦闘を望んでいたと、本当にそう思っているのか‼」
気づいた時には、声を荒げていた。そこまで口にすると、さすがに『ギルガメシュ』が何なのかアリスも察したらしく、表情がはっきりと強張る。
しかし、やはりレギウスだけは、冷然とした態度を崩さなかった。
「……嫌なの?」
「当然だろ!」
「それは、嘘よ」
あまりにもはっきりと断言され、クロードは思わず次の言葉を呑み込んだ。
「だって、あなたは屍兵だもの」
レギウスの瞳がクロードを射る。クロードは蜘蛛の巣にかかった獲物の如くそれに絡め取られ、身動きができない。為すがままに、ただ呆然と彼女の瞳を見返していると、まるで深い海の底を覗いているような、冷やりとした感覚にさえなってくる。
レギウスは静かな声で続けた。
「アーロンは探し求めているわ。……自分自身の在り方を。それはあなただって同じでしょう?あなたは屍兵よ。そして、《ギルガメシュ=システム》を正常に起動できるただ唯一の存在でもある。だったら、そうありたいと思うのはごく自然な事だわ。むしろ――無理に衝動を押し殺す必要なんてないのよ」
まるで悪魔の誘惑だ――クロードは強い敗北感の中で、ふとそう思った。レギウスに対する敗北感ではない。それは、自分自身に対しての敗北感だ。
《ギルガメシュ=システム》は『死』という代償を伴う力だ。人の魂があり、それを消費することで、初めて成立する。それがどんなに恐ろしい事か、どれだけ死者を冒瀆する汚らわしい行為であるか、クロードもよく理解しているつもりた。
だが一方で、唯一それを行使することが、屍兵として肯定される時でもあった。死霊魔術の大規模行使は、あまりにも複雑な術式を必要とするので、人間の死霊魔術師ではほぼ不可能だからだ。もし人間の死霊魔術師が死霊魔術を行使しようとしたら、一つの術式を発動させるのに数十年を要するだろう。それほど難解な魔術なのだ。
だからこそ死霊魔術は圧倒的な効果を発するものが多く、戦場においても無類の強さを誇ったものだ。大量殺戮を可能にする戦車や大砲、機関砲が、一瞬にして灰燼と帰す。数万の兵を一瞬にして屠ることも不可能ではない。
《黄昏の喰霊鬼》は戦場の頂点に立つ存在であり、対峙することを恐れる者は数多、存在していても、その命を脅かす者は皆無だった。他のものでは決して味わうことができないあの充実感や充足感、そして高揚感。筋肉が、細胞が、沸き立つような―――二十年が過ぎ去ったからといって、到底、忘れることなどできはしない。
そして、レギウスはその事を見抜いている。
彼女には昔から、そういうところがあった。残酷なまでの冷酷さと、全てを見透かしているかのような 圧倒的な威圧感。そして、何か得体の知れなさ――――
普段は感じさせないが、時おり野生の獣が牙をむく様にして、その本性を覗かせることがある。
「――どのみち、私はもうあなたの死霊魔術師じゃない……だから、無理強いはしないわ。でも、あなたにも選択権は無い。決めるのは彼女よ」
レギウスは温度の無い瞳でそう言った。その右手は、まっすぐにアリスを指し示している。不意に話の矛先を向けられ、アリスは激しく狼狽した様子を見せた。困った様子で、クロードとレギウスに、交互に頼りない視線を送っている。
クロードは苛立ちを隠しもせず、真正面からレギウスを睨む。
「あんたはどう思ってるんだ、アーロンの事を! 全部見ていたなら分かっているだろう! アーロンがああなったのは、死霊魔術師だったあんたのせいでもあるんだぞ‼」
できるなら、こんな事は言いたくなかった。しかし、あまりにも冷徹に事を進めようとするレギウスに、どうしても反発と怒りを感じてしまう。もう少し何かあって然るべきではないのか。アーロンに対しても――自分に対しても。
しかし、彼女は揺るがなかった。
「……そうね。そして、あなたのせいでもあるわ。だからあなただって、彼を止めたいと思っているのでしょう?」
「………ッ‼」
レギウスの、決して動じない瞳。クロードは唇をかみしめた。
何を言っても、無駄なのか。どう説得しても、考えを改めてはもらえないのか。
――あの、最後に分かれた時のように。
クロードは打ちのめされるような思いだった。二十年前も散々味わった、怨嗟の入り混じった諦念。途方もない、虚無感と絶望感。
死霊魔術師は屍兵の主であると同時に、一番の理解者だ。だが、当然の事ながら何もかもを分かっているわけではない。
生者と死者、支配者と被支配者――根本的にあり方の違う両者の間には決して埋めようもない溝が横たわっている。そしてレギウスはそれを決して自ら埋めようとはしないのだ。
何が彼女をそこまでさせるのか分からない。何故レギウスは、こんなにも屍兵を愛していながら、一方で決してその冷酷さを捨てようとしないのか。
ただ一つ分かっているのは、彼女は決して変わらないだろうという事だけだ。二十年の月日はしかし、レギウスの意思を和らげるどころか、ますます強固にしているように見える。これから何年待ったとしても、それが変化するとは思えない。
――何もかも放り出して、やめてやろうか。どうせ変わりはしないのなら。
彼女に対するこの感情が、決して伝わる事など無いのなら。
そう思った時だった。
ふと、アリスの両目からぽろりと涙が零れ落ちた。
「あっ……!」
アリスは慌ててそれを拭うが、涙は次から次へと溢れ、止まらない。アリスは混乱したらしく、自分の顔をぐしゃぐしゃとかき回す。
「あ、あれ……? へ……へんなの……!」
(おい……今の、泣くタイミングか……?)
クロードは呆れる。今までのクロードとレギウスの会話に、泣きどころなどあっただろうか。おまけに、どれもアリスには何一つとして関係のない話なのだ。
しかし、一向に涙が止まる気配が無く、べそべそと泣くアリスを見ていると、クロードは何だか徐々に怒るのが馬鹿らしくなってくる。冷静さが戻ってきて、自分が怒っても詮無い事に腹を立てていると気づいたからだ。ただ、毒気を抜かれたまでは良かったが、追加でどっと疲れも押し寄せてきた。
「………何でお前が泣くんだよ?」
涙を流すアリスを持て余し、頭を掻きながら尋ねると、思いもよらぬ返答が返って来た。
「だ、だって……悲しいよ……。よく考えたら……死霊魔術師って、屍兵に酷い事をしてるんだね……」
上擦った声で答えるアリスは、もはや両手なしには顔面維持ができないらしく、しきりに涙を拭っている。青灰色の大きな瞳は涙で潤み、目元は真っ赤だ。どうやら、本気でそう思っているらしい。
「あのな……そう思うんなら、何で死霊魔術師なんかになったんだ?」
悪気はないのだろうが、このタイミングで泣かれると、まるでこちらが虐めているか、さもなくば同情されているようにも感じる。いずれにしろ、あまり愉快ではない。それに、これまで行動を共にしてきて、アリスが死霊魔術師に全く向いていないと感じたのも確かだ。単純に、疑問でもあった。
アリスはしばらくして落ち着くと、小さな声で話し始めた。
「わ、わたしの村はね、屍兵の襲撃を受けた事があるの。野良の屍兵だったけど、すごく強くて……村で一番力持ちだったダニーおじさんが鍬で戦ったんだけど、何度殴りつけても起き上がってきた。沢山の人が怪我したり、死んだりしたの。ダニーおじさんも………」
クロードもレギウスも一言も発しなかった。一般の村には、野良の屍兵と戦える死霊魔術師は常駐していない。野良屍兵とはいえ、《マルドゥーク=システム》を搭載しているし、聖霊魔術も発動させる。生身の人間が屍兵に敵うはずなどない。
ましてや突然、野良屍兵からの襲撃を受けても、碌に対処できないのが普通なのだ。勿論、《レヴィアタン》から派遣される事はあるが、村に到着した時は既に手遅れであることも多いのが実情だった。
その様な光景は、大陸中の至る所にある。珍しくも無い話だったが、当事者にしてみれば大変な経験だったろう。クロードとて、何ら魔術の使えない生身の人間だったとしたら、屍兵と戦う事態など考えたくもない。勝てるかどうか分からないし、生き延びることができるかさえ定かではないだろう。
クロードには生前の記憶が無い。だから、親兄弟もいないし、郷愁といったものも皆無だ。だが、それらを失うという事がどれほど辛い事か、おぼろげながらも想像はできる。アリスの心中を完全に理解できるわけではないかもしれないが、彼女がどれだけ辛く悲惨な思いをしたか想像することはできる。
「でも……それなら普通、死霊魔術師や屍兵を恨むんじゃないかしら。それに……私の事も」
レギウスはまるで試すかのような目でアリスを見つめる。ちょうど、クロードも同じことを思っていた。屍兵によって辛い目に遭わされ、大切なものを奪われたのだとしたら、余計にアリスが死霊魔術師になったのは不自然だ。むしろ、死霊魔術師や屍兵の存在を恨むのが普通なのではないだろうか。
すると、アリスはこくりと、小さく頷いた。
「最初は……確かにそうでした。屍兵の事も、死霊魔術師の事も、はっきり言って嫌いだった。でも、どんなに憎んでも、何も変わらなかったんです。たくさんの村や街が、徘徊する屍兵に襲われて、そのたびにたくさんの人が傷ついて、殺されて……わたし、気づきました。誰かを憎んだり何かのせいにしたって、何も解決しないし変わらない。だから、逆に死霊魔術師になってやろうって思ったんです。何も変わらないなら、わたしが変えてやる――そう思いました」
「アリス………」
クロードは言葉が出なかった。不覚にも、素直に感じ入ってしまったのだ。
アリスの決断は、はっきり言って尋常ではない。普通の人間はまず選ばない道だろう。だからこそ、並大抵の努力では無かった事が分かる。そう思えるようになるまで、たくさんの葛藤もあったはずだ。
しかしそれを乗り越え、彼女は今ここにいる。自分の手で、未来を変えるために。
(これで実力があったなら……言うこと無えんだがな)
ついつい、そう思ってしまうクロードであった。志は立派なのだが、どうにも実力がそれについてきていない。もっとも、何の信念も無いよりは、ずっとましなのかもしれないが。
昔を思い出したのか、アリスは遠い目になって言った。
「そして……実際、死霊魔術師になってみたら、屍兵や《マルドゥ―ク=システム》がいかにすごいか、思い知らされたんです。わたしにはきっと、百年経っても創り出せない。そう思ったら、何だかすごいなって……少しだけ感動しちゃって……。それから《レヴィアタン》で初めて、屍兵って本当はクロくん達みたいに、ちゃんとした人たちなんだって知りました。
ちゃんとした技術を用いた屍兵は、何よりも心強い味方になってくれる。間違っているのは徘徊する屍兵じゃなくて、無責任にそれを作り出し放置してしまった死霊魔術師たちなんです。それに気づいた時わたしの中で、死霊魔術師になりたいっていう気持ちの方が、憎しみよりも強くなったんです」
そして、アリスはクロードを見上げた。その両目にはすでに涙は無く、代わりに真剣な輝きが灯っていた。
誰より、あなたに聞いて欲しい。アリスの両目は、クロードにそう訴えかけていた。
「わたしが変わる事で、世界が変わるなんて、そんな都合のいいこと無いってことくらい分かってる。でも……何かが変わればいいなって思ったの」
ああ、生きている者の目だ――クロードはアリスの瞳を見て、そう思った。
彼女はまごう事なき生者だ。果敢に変化し続けようとし、また、そうあるように力一杯の努力をしている。これまでも変わり続けてきただろうし、これからも変わっていくのだろう。そして、その小さな手で未来を掴もうとしている。既に死の世界にいる自分達とは違って。
クロードにとってそれは、眩しい光だった。網膜を焼き、一瞬で冥界の空気をも浄化してしまうほどの、強い光。ただ、あまりにも眩しすぎて、クロードには手を伸ばす事さえできないが。