プロローグ② グアンデラ要塞の戦禍
「エクドレ―ル大佐、準備が整いました」
部下の報告に、大佐は「よし」と頷いた。ガレリアの軍服に身を包む彼は齢三十八。これまで数々の武功を打ち立てて来た、猛将であった。
自陣――ガレリア軍の戦闘準備は、着々と進み、後は号令をかけるのみとなっていた。
大帝国ガレリアの現皇帝・イクシニウス四世が世界統一を謳って他国への侵攻を開始してから十年。今やアルルカンド大陸の八割がガレリア領となった。だが、抵抗勢力というものはどこにでも存在するものだ。小国イディアもまさにその一つだった。
大佐は苦々しい思いでグアンデラ要塞を睨みつける。今度こそ、結果を出さねば。武功も重要だが、兵が疲れ始めている。何より彼自身も、故郷にいる妻や子供と再会して、熱い抱擁を交わしたかった。今度こそ、終わらせてやる。祖国に勝利を、子供たちに未来を。そのためには、何が何でも戦って勝つしかないのだ。
そして、エクドレ―ル大佐は重々しく口を開く。
「大砲用意……撃てぇ‼」
聖霊魔術による魔術砲弾を詰め込んだ最新鋭の巨砲が十六門。そのうち八門が一斉に火を噴く。直撃すれば、城一つを軽々と吹き飛ばすほどの、凄まじい破壊力を秘めた砲撃だ。ところが、その魔術砲弾がグアンデラ要塞に直撃することはなかった。要塞の城壁に、巨大な魔法障壁が浮かび上がり、砲撃を悉く弾いてしまったのだ。
しかし、エクドレ―ル大佐は焦らなかった。要塞を守る巨大障壁といえど、その防御力は決して無限であるわけではない。現に魔法障壁は、魔術砲弾の全弾を阻止するという訳にはいかず、数発が要塞の壁に着弾した。大佐は内心でにやりと笑う。一点が崩れたなら、後はひたすらそこを攻めるだけだ。大砲は火を噴き続け、魔法障壁に負荷を与え続ける。やがて石造りの堅牢な壁は砂埃を上げ、とうとうその一角が崩れ落ちた。
「撃て! 撃て、撃てぇ‼」
大佐の命令によって、間髪置かず、残りの八門が砲撃を追加した。雷鳴の様な轟音が鳴り響き、粉塵が舞う。要塞の展開する魔法障壁もかなりの耐久性があるはずだったが、その許容量をはるかに超える攻撃が仕掛けられていた。城塞の壁は今や憐れなほど崩れかかっていた。
「突撃―――――‼‼」
エクドレ―ル大佐は叫んだ。それに続き部下の兵士たちが、おおおお――と地の割れるような咆哮をあげる。魔術装甲を施した戦車の無限軌道が唸りを上げて回転しがら前進を始めると同時に砲撃を開始し、その後から自動小銃を装備した歩兵が一斉に要塞内部へと進軍を開始する。
しかし、その時だった。
崩れ落ち、砂埃の舞うイディアの要塞の向こうから、幽鬼の様な不気味な人影が姿を現した。
一人、二人――三人。全部で十人ほどいる。彼らはイディアの漆黒の戦闘服に身を包んでいた。ところが、手には何も持っていない。ライフルも、軍刀も、ナイフすら手にしていない。戦闘服をまとっているだけの、完全な丸腰だった。ガレリア軍側の兵士がものものしい装備をしていることに比べると、冗談のような光景だ。
しかし、ガレリアの兵士たちはそれを見ても愚かな――と嘲笑を向けはしなかった。それどころか、進軍の足を止め、息を詰めて要塞の向こうから姿を現した、たった数人のイディア兵を凝視している。彼らの顔にはみな、明らかな恐怖が広がっていた。
エクドレ―ル大佐もまた、イディアの十人の兵士の姿を認めた。先頭を歩く男の白銀の髪が、大佐のいる場所からでもはっきり分かる。
「――出たか。死にぞこないの、悪魔どもめ……!」
我知らず、吐き捨てる。イディアが小国でありながら未だ独立を保っている要因は、グアンデラ要塞だけではない。
屍兵――《リバーサー》。
彼らが、忌々しいあの幽鬼たちこそが、ガレリアの侵攻を阻む最大の元凶であった。
「怯むな! 敵は少数――押し切れぇい‼」
しかし、それが口で言うほど簡単な事では無いという事は、大佐自身よく知っていた。ただ、軍人としての誇りと責任感が彼を支えていた。この戦いには、勝利しなければならない。勝たない戦争ほど無意味なものは、この世にはない。これまでガレリアが払った犠牲を無に帰さぬためにも、突き進み勝利をもぎ取らねばならないのだ。
ガレリア軍の戦車の火砲と、歩兵が装備した魔弾ライフルが、屍兵に向けて一斉掃射される。しかし屍兵の前面に、高密度の魔法障壁が展開され、それを悉く弾いていく。
グアンデラ要塞の魔法障壁に比べて規模こそ小さいものの、強度は同じかそれ以上だ。現に何千、何万という砲弾や銃弾が屍兵に向けて発射されたが、結局それらが彼らに被弾することは一度たりともなかった。俄かには信じ難いその光景を目の当たりにしたガレリア軍兵士の間に、瞬時に動揺が広がっていく。
――攻撃が当たらない。掠りもしない。
すると、まるで畳みかけるように、屍兵の一人が動いた。イディア軍の先頭に立つ、白髪の男だ。それまでの泰然とした歩みを止め、一気にこちらへ向かって加速する。それを合図に、他の屍兵も同じようにしてゆらり、ゆらりと次々と動き出す。
「突撃ィ!」
エクドレ―ル大佐の声には、狼狽が滲み、すっかり裏返っていた。だが誰も、そんなことなど気にも留めない。ガレリア軍の兵士たちは、恐怖を振り払うようにしてイディア軍の屍兵に向かって突き進んでいく。
戦場が一気に湧き上がった。イディアとガレリア、両軍が真っ向から衝突する。
まず、ガレリアの魔術砲搭載戦車が屍兵に向けて砲塔の照準を合わせた。どれだけ砲弾を打ち込もうと、それらは全て魔法障壁によって防御されるだろう。しかし、その事は織り込み済みだ。高負荷をかけ、力技でねじ伏せる算段なのだ。
ところが、同時に屍兵達の瞳がチカと光った。イディア軍を率いる、白髪の屍兵の、どこか眠たげな瞳に鮮烈な光が迸る。寸暇の後、ガレリアの戦車がまっ黒な焔に呑まれていた。この世のものではあり得ない、冥界の焔――聖霊魔術による特殊な焔だ。
エクドレ―ル大佐は我が目を疑った。戦車の鉄壁の装甲を、黒焔が容赦なく溶かしていく。まるで、熱で溶かされたチョコレートのように。
その間も、イディア軍の屍兵は、躊躇することなく瞳に鮮やかな光を瞬かせる。鮮烈な光が放たれるたび、ガレリア軍の戦車は次々と黒焔に包まれ、あっという間にみな戦闘不能に陥っていく。それは、あまりにも圧倒的な光景だった。
エクドレ―ル大佐の頬を、冷たい汗が滴っていく。これは……いや、考えるな。敗北など、我が国の未来に決してあってはならないのだ。
「突撃、突撃ィィ―――――‼」
エクドレ―ル大佐はなおも進軍を進めた。戦車の次は、歩兵達だ。だが、戦車ですら敵わなかった相手に、歩兵で太刀打ちできるだろうか。悪い予感が、雨雲のよう立ち込める。しかし、僅か十ほどしかいない敵を前に、逃げることなど許されなかった。
そして次の瞬間、エクドレ―ル大佐の抱いた悪い予感が、現実となって牙を剥く。
血飛沫があちこちで舞い上がった。
それは、戦闘と呼べるものではなく、殺戮にすら近かった。
イディア軍の敵兵は丸腰だ。武器となるものを何ら所持していない。よって、彼らが用いているのは素手だ。素手でガレリア軍の体を引き裂き、バラバラの肉片へと解体していく。筋肉の引き千切られる、グシャリという生々しい音が、あちこちで聞こえてくる。
ガレリア軍の兵士は、次々と断末魔の悲鳴を上げて倒れていった。たった十人の丸腰の歩兵が、最新の戦車を溶かして無力化させ、ガレリアのありとあらゆる兵器を一瞬でただの塵芥にし、二十万もの軍勢を一掃していく。最新鋭の魔弾ライフルを装備し、大陸を蹂躙し続けてきた勇敢な兵士たちが、紙屑のように薙ぎ倒されていく。
むっと生々しい血の臭いが立ち込め、一帯が不吉な赤で染まっていく。
「ば……バカな……!」
大佐は絶句し、大きく喘いだ。限界まで見開かれた眼の、瞳孔が小刻みに震えていた。屍兵はガレリアにとって、恐ろしく厄介な兵器だ。大佐はそのことを、これまでの戦争で幾度となく思い知らされている筈だった。ただでさえ、戦争とは無情なものだ。どちらかが勝てば、必ず残った方が負ける。そして戦争に勝とうが負けようが、敵味方ともに、無数の血が流れるのだ。
だが、それにしたってこれは、あまりにも常軌を逸している。
兵器としてのアンデッドは、これほどまでに『進化』してしまったのか。死霊魔術は、ついにこれほどまでに恐ろしく禍々しい化け物を、生み出してしまったというのか。エクドレ―ル大佐は奥歯をぎりぎりと噛みしめ、胸中でそう吐き捨てた。
死者の魂を操るその魔術は、長い歴史の中で、禁忌とされてきた。その理由が、イディアの屍兵を見ていると嫌というほどよく分かる。
死霊魔術は、人間には過ぎた力なのだ。屍兵など、たとえどれだけ戦争が長引いたとしても、この世に存在してはならないのだ。
うろうろと空を彷徨った大佐の眼球が、ふと白髪の屍兵の姿を捕らえる。異常ともいえるこの戦場の中で、ひときわ異彩を放つ、黒焔の使い手だ。敵軍の屍兵はみな聖霊魔術を駆使し、鬼神のごとき戦功を上げている。その光景はガレリア側にとっては、まさに地獄そのものだ。中でもその白髪は、最も多くのガレリア兵の命を奪っていた。
ゴボッ――異様な音を立て、白髪の男はガレリア軍兵士の心臓を素手で一突きにした。そして、左手に掴んでいた、別の絶命したガレリア兵士の身体を放り投げると、大きく上体を仰け反らせる。
最初は訝しんだ。何故このような時に、空を仰いでいるのだろう、と。しかし、すぐにそれが自分の思い違いであることに気づく。
白髪の屍兵は空を振り仰ぎ、その体勢で口を大きく開けていたのだ。
一体、何のために――大佐が訝しんだその刹那、白髪の足元に転がった兵士の身体から、ぽう、と神秘的な光を放つ球体が浮かび上がる。儚げであり、同時に力強くもあり、この世で最も神聖で尊い光――それは兵士の霊魂だ。そしてその発光する球体は宙に浮かび上がると、口を開く屍兵の口腔内へ、するりと吸い込まれていった。
まさか――……。
大佐は蒼白になりながら、目を見開く。ある可能性が脳裏に浮かんだが、あまりの恐ろしさに理性が認めることを拒否していた。
大佐が愕然としている間にも、白髪の屍兵の周囲には、命果てたガレリア軍兵士たちの魂魄が、次々と浮かび上がった。純真無垢なる魂たちは、これから自分たちの身に何が起こるかも知らず、無邪気に飛び回っている。大佐が声を上げる間もなく、それらの何ら罪の無い同士の魂たちも、次々と白髪の男の口へと吸い込まれていく。
それを目撃した大佐は、何が起こっているかを確信した。認めたくはなかったが、こうもはっきり目の前に突きつけられると、現実として受け入れざるを得ない。
――あの屍兵は、死者の魂を喰らっている。
殺せば殺すほど――奪えば奪うほどそれがあの男の力になる。
男の白髪は今や返り血をしたたかに浴び、赤黒く染まっていた。大佐は息をするのを忘れ、自軍を指揮することすらも忘れ去って、茫然と立ち尽くしていた。
何という、惨たらしい光景なのだろう。
何という、おぞましい存在なのだろう。
こんな事は許されない。
あってはならないのだ。いかなる形であれ、死者の魂を冒涜するなどという罪深い事は。
それはあまりにもおそろしく、そして同時に、溜息が漏れるほどの美しい光景だった。
そう、この世のものとは思えないほどの。
「《黄昏の喰霊鬼》……‼」
大佐は思わず、呟いていた。脳裏にある噂が甦る。イディアの特殊部隊の中には、人の魂を喰う屍兵がいるらしい、と。それを初めて耳にしたとき、大佐はその噂を一笑に付した。そうか、それなら我がガレリア軍は、イディアの屍兵の魂魄を酒の肴にし、盛大に宴を催してやることにしよう。もっとも、アンデッドである連中に魂があるのならな、と。
まさかその噂が紛れもない事実だったとは、その時は思いもしなかった。
大佐の声に反応したのか、白髪の屍兵がゆるりとこちらに首を向ける。獣の様な、飢えた瞳が将軍へと照準を合わせた。
それがエクドレ―ル大佐の目にした最後の景色だった。
ガレリアの侵攻はその後六年間、イクシニウス四世が病によって崩御するまで続いた。
その間、ガレリアとイディアは再三に渡って衝突を繰り返したが、イディアがガレリアに屈する事は一度として無かった。