第16話 レギウス=マギナ①
名前を呼ばれた気がした。とても、懐かしい声で。
奇妙な浮遊感と共に、意識が覚醒する。クロードはゆっくりと瞼を開いた。
目の前にはおぼろげな闇が広がっていた。向こうが見通せそうで見えない、そのちょうど間際だ。じっと目を凝らすと、徐々に視界がはっきりしてきて、真っ黒い壁や、生物の骨のような白い骨組などがあるのが分かる。
暫くして、ムシュフシュ遺跡の内部にいるのだという事を思い出した。バルトロメオを追って辿り着いた、あの大広間だ。クロードはその床に、横たわっている。どうやら完全に気を失い、夢を見ていたらしい。
屍兵になっても、夢は見る。我ながら、人間でもないのに夢など見てどうするのだと思わないでもないが、見るものは見るのだから仕方ない。それでも、屍兵になる前の事――失った記憶でも夢に出てくれれば、少しは夢を見た甲斐というものもあろうものだ。ところが、生憎とそういう都合のいい夢だけは何故か見なかったりする。
ともかく、クロードは夢を見ていた。そのせいだろうか。レギウスに名前を呼ばれたような気がした。久しぶりに、アーロンに再会したせいかもしれない。
「……! そうだ、アーロン‼」
アーロンと対峙した事を思い出し、クロードは跳ね起きる。
しかし、アーロンは既に広間の中にはいなかった。それだけではない。アーロンが作動させたはずの六角柱も、全て消えて無くなっていた。魔術による破壊の痕跡も無い。クロードが負ったはずの酷い怪我も、バルトロメオ達の遺体に至るまで、全て何事も無かったかのように消失していた。
アリスの聖霊魔術による爆発も、幸いな事にどうやら未遂に終わったらしい。あまりに何も残っていないので、まるで、先ほどあったことは全て悪い夢だったのではないかと思えてくる。
広間はしんと静まり返っていた。仄暗い暗闇の中にいるせいか、先ほど見た夢の続きを見ているのではないかと思えてくる。今にもレギウスの拵えた仮想現実訓練装置が作動し、訓練が始まるのではないか。
クロードは、大きな息を一つ吐きだした。そして、ゆっくりと頭を振る。昔の夢など見たせいか。どうも、二十年前と現在が、ごっちゃになっている気がする。
戦争はもう、終わった。クロードは《レヴィアタン》所属の屍兵となり、00部隊の他の仲間も散り散りとなって、みな行方不明になっている。それなのに、アーロンは現れた。しかもイディア軍の漆黒の戦闘服を身に着け、昔と殆ど変わらない姿だ。
クロードは一瞬、タイムスリップしたかのような錯覚にさえなった。
そのせいだろうか。こんなにも、昔の事を思い出すのは。
――と、その時。
「気が付いた、クロード?」
クロードは不意に声をかけられた。クロードはその声に、弾かれたように反応する。上体を捻り、背後を振り返ると、一人の女が膝と両手を床に付き、こちらを覗き込んでいた。
挑むような、それでいて気まぐれの猫のような、魅力的な瞳。豊かで、まるで明け方の空を思わせる、鮮烈な真紅の髪。
それは、《暁月の魔女》――レギウス=マギナだった。
見間違えようもない、かつての己の死霊魔術師。
クロードは自分の目にしたものが信じられず、思わずレギウスの顔を凝視する。まさか、本当に夢の続きでも見ているというのだろうか。それとも、目の前に存在するこの女は、幽霊か何かなのだろうか。
――幽霊。まさか、この世界に幽霊はいない。魂は理論的に存在するが、幽霊は迷信なのだ。この世界における『魂』とは、あくまでエネルギー現象の一つなのだから。
レギウスは何も言わず、混乱するクロードを見つめていた。まるでクロードの様子を窺っているかのようでもあり、こちらの反応を楽しんでいるかのようでもある。このまま、じっと見つめ合ってばかりいても仕方ない。
クロードは、何とか肺の奥から空気を絞り出した。
「本物……なのか……?」
「やあね、当たり前でしょう?」
レギウスは可笑しそうに笑う。
「……生きていたのか」
そう付け加えると、レギウスは笑いながら、いたずらっぽくクロードを睨んだ。
「何よもう、さっきから。まるでオバケにでも遭遇したような顔をして」
そして、ふと目元からからかう様な笑みが消える。
「――もっと……喜んでくれると思っていたのに」
何だかそれがひどく落胆しているように見え、クロードは思わず、「わ……悪ぃ」と謝ってしまった。
すると、レギウスは再び元のいたずら盛りの子供のような目元になり、楽しそうに笑う。
「別に……謝らなくていいのに、クロードったら」
そして、ひとしきり笑った。その仕草を見ていたクロードは、妙な感動が胸の中に広がっていくのを感じる。――ああ、彼女だ。何も変わらない。二十年前のままだ。そして、そんな感慨を抱く自分を、どこかで複雑にも思う。
レギウスはやがて、クロードの正面から真横に移動してくると足を組み、床に座ったままのクロードに合わせるかのようにして座った。
「変わらないわね、クロード」
レギウス懐かしそうに目を細め、ぽつりと呟く。
「……そうか?」
「ええ、変わらないわ。二十年前の時のまま」
そう言って笑う顔はどこか嬉しそうだった。彼女にとっては、いい意味で――という事なのだろう。
「あんたも変わらないな」
影響されてしまったのか、クロードも思わず呟いていた。
するとレギウスは前屈姿勢になってこちらを覗き込み、微笑んだ。
「それって……褒めてる?」
確かに、レギウスは昔と全く変わらぬ姿でそこにいた。二十年前のままだ。違う事と言えば、今は研究者の象徴であった白衣ではなく、黒いローブを身に纏っているという事くらいか。だが、それでも違和感はない。むしろ、良く似合っている。
ただクロードは、二十年経っているにもかかわらず、レギウスの容姿がそれほど変化していない事を、それほど奇異には思わなかった。彼女はもともと、尋常ではなく長命だったからだ。見かけこそクロードと同じほどだが、実際には百年以上生きているという。実年齢はクロードも知らないくらいだ。だからこそ《魔女》と呼ばれているのだった。
魔術師には時おり、そういった者が存在した。特に、死霊魔術には命をコントロールする術が多数、含まれる。レギウスの事だから、研究を続けるために寿命を操作することくらい、簡単にやってのけるだろう。それくらい、レギウスの屍兵研究に対する執着は激しかった。ただ、死霊魔術師が全員長命と言うわけではないので、おそらく彼女が特別なのだろう。
クロードはレギウスの格好を改めて一瞥した。レギウスが纏っているのは、ローブと言っても体の線がくっきり出るタイプのドレスだった。シンプルなのに、妙に艶めかしい。太腿に入った深いスリットに目がいき、反射的に逸らしてしまった。同じ死霊魔術師だというのに、現在の主人――アリスとえらく違う。
そこまで考え、はっとした。
「あっ……アリス‼」
今まですっかり忘れ去っていたが、あのチビすけがいない。もしや、クロードが気を失っている間にアーロンに何かされたのだろうか。
慌てるクロードに、きょとんとした表情のレギウスが声をかけた。
「アリスって……もしかして、あなたの連れの死霊魔術師の事? だったら寝てるわよ、すぐそこで」
クロードは、レギウスが指差す方向へと視線を向ける。すると確かに、二人から少し離れたところでアリスが寝転がっていた。横になり、丸まった状態で聖霊杖を握りしめ、すうすうと呑気に寝息を立てている。見たところ、外傷はない。ただ、気を失っているだけのようだ。クロードは、ほっと息をつく。
「……彼女が、今のあなたの死霊魔術師なの?」
レギウスはそう尋ねてきた。
クロードは一瞬、妙な気まずさを覚え、返答に詰まる。
「……ああ」
短く答えると、レギウスも「そう」と答える。
「いい死霊魔術師と組んでるのね」
クロードはたっぷり数秒溜めた後、呟いた。
「………。そりゃ、嫌味か?」
「あら、どうして?」
「およそ、この世に存在するありとあらゆる魔術を全てご丁寧に爆発させた挙句、たった一つ使える火炎魔術ですら失敗させるような奴だぞ⁉ 俺は何度もこいつに火あぶりにされかかった! このまま組めば、いつか間違いなく炭にされる‼」
心の底から不思議そうな表情をして答えるレギウスに、クロードは身振り手振りを交えて訴えた。
レギウスは呆れたような表情になって、笑った。
「素質はあるわよ。あなたが育ててあげればいいじゃない」
「冗談だろ……⁉」
クロードは呻く。そんな危険きわまる育成ゲームなど、できるなら御免こうむりたい。命がいくつあっても足りはしない。ただでさえ、死にそうな目に遭っているのだ。
そこで、ふとある事を思いついた。クロードはアーロンとの魔術戦に敗れ、四肢を激しく破損したはずだった。しかし、今は両手両足とも、自由に動く。
何故、先ほど負ったはずの傷が、自分の体からきれいさっぱり無くなっているのだろうか。確かに屍兵は普通の人間よりは頑丈にできているが、さすがにここまでの治癒力は無い。自然現象ではない――クロードはレギウスを見つめ、尋ねた。
「……あんたが治してくれたのか?」
アリスは地獄の業火以外の魔術を使えないし、アーロンが手当てを施したとも考えにくかった。とすれば、残る可能性は一つしかない。
「ええ、そうだけど……もしかして余計な事、したかしら?」
レギウスはじっとクロードを見つめ返す。
「いや、助かった」
クロードは内心でどきりとしつつ、平静を装って答えた。
すると、レギウスはどこか安堵した様に目元をほころばせる。
「そう……良かった」
妙な感じだな、とクロードは思った。
昔はレギウスがクロードの死霊魔術師であることは当たり前のことで、いちいち回復するのに確認など必要なかった。だが、今は違う。昔には無かった何かが、二人の間には横たわっている。それが何だか、妙な違和感として感じられた。もしかして――俺はそれを、淋しく感じているのだろうか。ふとそう思ったが、よく分からない。
「ここで何をしているんだ?」
クロードは気を紛らせようと、レギウスに尋ねた。
「何って?」
「夕飯の買い出しのついでにふらっと立ち寄る、みたいなお手軽な場所じゃねえだろ」
ただでさえ国境付近は危険だし、遺跡の周囲を覆うナベルの森も深い。何か余程の用が無ければ、こんな辺鄙で危険な場所に来る筈がない。
すると、レギウスは微笑んで答えた。
「遺跡調査よ」
「遺跡って……ムシュフシュのか?」
「ええ。ここは地理的にも辺鄙なところにあるせいで、あまり人の手が入っていない。考古学的価値の高い遺跡だから」
そう言えば、アーロンも同じことを言っていた。ムシュフシュ遺跡の真の動力は失われていない、と。レギウスもそれが目的なのだろうか。
生物兵器の生成工場兼、散布基地。不意に、アーロンの言葉が脳裏に甦る。現実に引き戻された様な、重い塊が胸にのしかかってきた。レギウスは知っているのだろうか。彼女もまた、それが目的なのだろうか。彼女は一体何を、どこまで知っているのだろう?
――そこまで考え、急にレギウスに対する警戒心が湧き上がった。そうだ、アーロンと同様、レギウスも無駄なことはしない主義だ。その彼女がここにいるという事は、何らかの目的を帯びているに違いないのだ。その目的とは、いったい何なのだろうか。
「何、してるんだ?」
「………」
「何……してたんだ。今まで」
クロードの言葉の中にある硬質な響きをレギウスも感じ取ったのだろう。暫くは無言で、探るようにじっとこちらを見つめていたが、やがて諦めたように口を開いた。
「安心して。もう屍兵の研究はしてないわ。……戦争が終わって二十年だもの。スポンサーだっていないし、資金不足よ」
そう言って、おどけながら肩を竦める。しかしすぐにこちらへ身を乗り出してくると、弾んだ声で言った。
「今は考古学の研究をしているわ。と言っても、調査が主ね。大陸の各地を調べて回っていたの。そもそも、私の専門は考古学なのよ。……知らなかったでしょ?」
知らなかった。今まで、レギウスは魔術技術の研究者なのだとばかり思っていた。おそらく考古学を研究する過程で、魔術技術にも精通するようになったのだろう。ムシュフシュ遺跡の話をするレギウスの表情は、いつになく輝いている。どうやら、考古学の仕事を存外に楽しんでいるようだ。
屍兵の研究はしていない――それはつまり、新たな屍兵は開発していないという事だ。それを耳にしたクロードは、内心で大いに安堵していた。レギウスを信用していないわけでは、決してない。しかし、彼女には危険な研究に手を染めて欲しくなかった。これ以上、『罪』を増やすような真似はして欲しくなかったのだ。
それに自分で言うのも何だが、兵器としての屍兵の存在は、あまり好ましいとは思えない。ガレリアの大陸侵攻が終わりを告げ、平和になった今の世では尚更だ。必要ないものは作らない。それが一番だ。