第9話 アーロン=ナイトレイ
アーロン=ナイトレイ。
そこに立っていたのは、イディア軍の同じ部隊に所属していた、かつての仲間の姿だった。漆黒の髪に、同じく漆黒の瞳。年の頃はちょうどクロードと同じくらいだ。何よりも任務を優先させる、理知的で意志の強さを宿した顔立ち。二十年前、終戦を迎えて別れた時のままの姿だった。変わったのは、その黒髪が前より少し伸びたという事くらいか。
やや神経質そうな目元は、その名を呼ばれてもピクリとも表情を変えない。
「……まさか、ここでお前に会うとはな」
無機質な声でそう淡々と喋るアーロンに、クロードはニヤリと笑って見せる。
「ああ、俺も意外だったぜ。お前に女装の趣味があったとはな。……答えろ」
そして、眠たげな眼に鋭利な光を灯す。
「ここで何をしている? 領主を殺ったのはお前か。……この遺跡の周辺では行方不明者が続出している。それとお前は何か関係があるのか?」
「………」
クロードはアーロンに向かって、疑問を一気に叩き付けた。本来ならば、感動の再会といきたいところだが、この状況を考えても、とても再会を喜ぶ気にはなれない。ところが、やはりアーロンの反応は無かった。相変らず、暗闇に沈んだような無感動な目でこちらを見据えている。代わりに、アリスの身体が催眠術から解き放たれたかのように、ぴょこんと跳ねた。
「クロくん、もしかしてあの人と知り合い?」
アリスは小声で尋ねてくる。クロードはアーロンと睨み合ったまま答えた。
「あいつも屍兵だ。かつての戦友だった」
え、とアリスが小さく息を呑むのが分かった。アリスはアーロンとクロードを交互に見やって、激しく瞬きをする。クロードは敢えてアリスの方は見ずに、続けた。
「……ただ、俺と奴には違いがある。奴は俺の後継機だ。つまり……《マルドゥ―ク=システム》のスペックは奴の方が上だという事だ」
アリスは何と答えていいのか分からないようで、戸惑った表情を浮かべている。ただ、今までになく緊迫したクロードの様子から、アーロンが決して生易しい相手ではないということは悟ったようだった。不安そうな表情で、すがりつく様に聖霊杖を握りしめた。
(まずい事になったな……)
クロードは、僅かに表情を歪めた。ムシュフシュ遺跡で戦闘になる可能性は考えていたが、この展開は想定外だった。自分たちの今回の任務は、あくまで遺跡の調査であり、安全確認だ。魔術師連合から回される仕事の中でも、比較的、危険度の低い任務であり、だからこそ新人で経験の浅いアリスと組まされたのだ。また、彼女が常に腰から提げている水筒の中の補給油――《ダムキナ》も最低限しか用意されていない。その為、自分と同じ正規の屍兵と事を構えるにはいろいろと準備不足と言わざるを得なかった。ましてや、アーロンはクロードより高性能機なのだ。
だが、だからと言ってアーロンをこのまま放っておくわけにもいかない。もしかつての仲間が、オースティン家の領主やその私兵の殺害、或いは魔術師連合に所属している他の死霊魔術師や屍兵の失踪事件に関与しているとしたら、尚更放置しておくわけにはいかなかった。
退くわけにはいかない。しかしそれは、自ら戦闘を選ぶという事でもある。
頭を抱えたくなるレベルの問題が、あまりにも頻発するので、クロードはだんだん頭痛がしてきた。つくづく最近の自分は、何かに祟られてるんじゃないかと疑いたくなる。もはや笑うしかない――そう思うが、笑いは微塵も出て来ず、その意に反して嫌な汗が頬を伝い、滴り落ちた。
ミューラーの街にいる時は、馬鹿馬鹿しい任務だと思った。新人の死霊魔術師のお守りを押し付けられ、殆ど放棄された状態にある遺跡の様子を確認しに行く。正直なところクロードでなくても務まる仕事だし、実際問題として魔術師連合内での優先度も決して高いとは言えない案件だ。
魔術師連合も、おそらくクロードをどう扱ったものかと持て余しているのだろう。今や大戦は終結し、《黄昏の喰霊鬼》は必要の無い存在なのだから。
だからこそ、自暴自棄になって思った。やめてやろうか、と。――しかし。
(んな呑気な事を、言ってる場合じゃなくなったな……)
クロードは眠たげな橙の両眼を、すっと細める。
一方のアーロンは、クロードの後ろに隠れるようにして立つアリスを見つめている。そして突如としてその薄い唇を開いた。
「そいつは死霊魔術師か」
しかし、クロードが返事をする前に、アーロンは言葉を畳みかける。
「魔術師連合、だったな。クロード、お前は相変わらずだ。相変らず、犬のように人間たちへと従う生き方しか選ぼうとしない」
「屍兵ってのはそういうもんだろ。俺たちが自由を得たからって、何になる? 道具は、使われてなんぼだ」
クロードは頬に皮肉を浮かべて笑い、そう答えた。すると、それまで微塵も表情を変えなかったアーロンが、初めて微かに笑った。
「……そうだな。その点はお前に賛同するよ」
それは諦念と退廃が濃く入り混じった、虚ろな笑いだった。この世の全てに対し、これっぽっちも期待などしていないし、そもそも何か期待する要素も見出せない。そうういった、絶望と虚無を煮詰めて何倍にも濃くしたような、背筋の寒くなる笑みだ。
クロードは戦慄した。こいつはこんな笑い方をする奴だったろうか。こんな、疲れた投げやりな笑い方をする奴だっただろうか。
確かにアーロンはどちらかというと冷静沈着なタイプで、感情の起伏も乏しかった。しかし中身はとても純粋で、真っ直ぐであることをクロードはよく知っていた。共に00部隊に所属していた頃は、アーロンがこんな風に自暴自棄な態度を取ることなど、決してなかった。
目の前の戦友は、記憶の中のそれと外見は殆ど変わらない。しかし。
(アーロンの奴……何か、雰囲気が変わった……?)
頭の中で警告音が鳴り響く。こいつは何かがおかしい。目の前に立つ屍兵は、自分のよく知る戦友とどこか違う。クロードは声を低くして叫んだ。
「……答えろ、アーロン! ここで何をしている⁉ 領主をやったのはお前なのか!」
しかし、アーロンはそれでも身じろぎ一つしない。
「らしくないな、クロード」
「何……?」
「分かりきっていることを二度も尋ねるなど、お前らしくない……そう言ったんだ」
アーロンは事も無げにそう答えた。つまり、かつての戦友は、オースティン家の領主やその私兵の殺害を認めたのだ。バルトロメオが部下を引き連れて遺跡の中に突入し、クロードとアリスがそれを追ってこの部屋に到達するまでの僅かな時間に、アーロンは彼らを殺害したのだろう。聖霊魔術があれば――《マルドゥ―ク=システム》があれば、赤子の手をひねるより簡単な事だ。
バルトロメオは、妙にこの遺跡に執着していた。おそらく、アーロンに何事か唆されたのだ。一方のアーロンは、おそらくここで領主たちご一行を殺害するために、何かうまい餌を撒いて、彼らをおびき寄せたのだろう。
クロードはゆっくりと腰を落として、戦闘態勢を取った。張り詰めた緊張が、広大な部屋を瞬く間に覆っていく。
「何の為だ? 一体、何のためにそんな事を……!」
そうだ。何故、アーロンがわざわざこの遺跡の中で、オースティン家の領主やその私兵を殺害したのか。その理由が分からない。アーロンは無駄なことはしないし、快楽のために人を殺したりもしない。だから、なにがしかの目的がある筈なのだが。
しかしそのクロードの問いを、アーロンは静かな声で一蹴する。
「クロード、お前はこの二十年、何をしていた?」
「何だと?」
「俺は考えたよ。この二十年、考え続けた。俺たちは何なのか、何の為に存在しているのかを」
突然、何を言い出すのか。クロードは一瞬、きょとんとするが、やがて苦笑を洩らした。
「まるで、遅れてきた思春期だな。……それで? 答えは出たのか?」
「いいや。でも、ひとつだけ分かった事がある」
そう言うや否や、アーロンは聖霊魔術を発動させた。肉体強化と身体防御、二種類の魔術の膜が、アーロンの体を順に覆っていく。
「――俺は結局、俺でしか生きられない……という事だ」
「………!」
アーロンの奴、本気でやる気か――かつての戦友が、聖霊魔術を躊躇なく発動させるのを目にし、クロードもすぐさま同様の魔術を自らの体に展開させる。
「クロくん……!」
クロードとアーロンのやり取りを見つめていたアリスが、不安げな表情でクロードを見上げた。クロードが戦闘態勢に入ったことは理解しているようだが、相手が相手であるだけに戸惑いを隠せないようだ。死霊魔術師としてどう動きどう判断すべきか、迷っているのだろう。もっともクロードは、アリスが何を指図したとしても、アーロンと戦うつもりでいたが。
「巻き込まれたくなかったら、離れてろよ」
「でも……!」
「おい、アーロン。このチビには手を出すなよ。どうせ何も出来やしないんだ。こいつは関係ない」
クロードは親指でアリスを指し示し、アーロンにそう告げた。すると、アーロンは薄く笑う。
「本当に相変わらずだな、クロード。いいだろう……行くぞ」
刹那、アーロンの姿が消えた。
「えっ……」
アリスが驚きの声を発するのと、クロードの右側頭部に衝撃が走るのとが同時だった。
「ぐっ……!」
空気が圧縮し、凄まじい熱量で爆発した。重々しい破裂音と共に、クロードは後方に吹き飛ばされる。アーロンが一瞬の間に間合いを詰め、回し蹴りを放ってきたのだ。肉体強化の魔術で動体視力を上昇させているため、クロードには辛うじてその動きが追えた。回し蹴りは右腕でガードすることができたものの、追撃の掌底がかわせなかった。
そして、アリスにはアーロンの動きさえ見極める事ができなかった。
「あ……あわ……」
突如目の前に現れた敵の屍兵に、アリスは激しく狼狽える。しかし、アーロンはアリスには目もくれなかった。
黒髪黒目の屍兵は、再び地を蹴ると、次の瞬間にはクロードの懐の中に飛び込んだ。クロードは思わず内心で舌打ちをする。
「……ッ!」
アーロンは下から拳を放つ。クロードは半歩後退してそれを左手で受け流すと、右手をアーロンの腹に叩き込み、それと同時に魔術を発動させた。寸暇の後、巨大な爆炎が炸裂した。直撃を受けたアーロンは一瞬大きく仰け反るが、すぐさま防御系魔術を発動して、爆炎の衝撃を吸収する。
次の瞬間アーロンはクロードの喉元を掴むと、そのまま床へと叩きつけた。
「クロくん!」
アリスの悲鳴のような叫び声が、広い空間の中に響き渡った。
薄暗い闇がどこまでも広がっていた。
全ての境界が曖昧であり、それがどこなのか、どれくらいの広さの空間なのかも判然としない。どこからどこまでが床で、壁や天井がどこにあるのか。全てがおぼろげな闇に溶かされてしまっている。
ただ、青白い光球が一つ、まるで夜闇を照らす月のように浮かんでいた。ちょうど、一抱えほどある大きさだろうか。だがその光球の光も弱々しく、空間の全てを照らし出すには到底及ばない。
だから照明はあるものの、その空間には、やはり茫漠とした闇がどこまでも広がっているばかりだった。
その中で、不意に闇がそろりと動いた。誰か、そこにいる。ややあって、真っ黒いローブを着た女が一人、闇の向こうからその姿を徐々に浮かび上がらせる。そしてゆっくりと、青白い光を放つ光球の真下に歩み寄って来ると、上空を振り仰いだ。
「……来たのね、クロード」
そして、女の形の良い唇が優美に弧を描き、笑みを形作った。
「うれしい……!」
光球の温度を感じさせない青白い光が、女の顔を照らし出す。一点の歪みも狂いもなく、まるで稀代の芸術家が作り出した彫刻のように、全てが完全なる均衡を保っている。美しい女だった。中でもその眼差しは、ぞっと寒気がするほど艶美であった。彼女は、まるでそれを隠すかのように、黒いローブのフードを目深に被っている。
その黒いローブの間から、豊かな髪が一房、零れ落ちる。それは玲瓏たる月のような光球の光を受け、燃え上がるような真紅に輝いた。