下
半開きになった格納庫の扉から差し込む日差しを背に、影絵のように立つポニーテールの小柄な女。逆光でもわかるほどの鋭い瞳はエースパイロットの証拠。そして――俺が巻き込まれているゴシップのもう一人の当事者、スポッター。
噂をすれば影、という事か。思わず身構えた俺たちに対して、スポッターはあくまでもにこやかだった。
「お、まだ整備終わらないのか? 手伝おうか?」
「ええ。ありがとう」
付き合っているなどという事実無根の風評の当事者二人が並んで整備をすれば、またおかしな噂が立ちそうな気がして俺は嫌だったが、機体整備の最高責任者である機付長が許可を出してしまったので、階級が上でパイロットとはいえ、この場ではただの手伝いにしかすぎない俺は何も言えない。
スポッターも加わって、機体整備が再開される。人手が増えて楽になったので、俺はスポッターに質問してみることにした。
「そういえば、スポッターさんはどうしてパイロットをめざしたんですか?」
「アタシ? 近所に住んでいた東扶桑出身のエースパイロットに憧れて、アタシも空の覇者になろうと思ったんだ」
「東扶桑の?」
「出身地はね。60年前に天津独立軍として植民地支配と戦っていて、結局、大国間の争いのせいで分割独立になってしまったから故郷に帰れなくなってしまったんだってさ。知らないか? 『蒼天の騎士』っていう映画の主人公のモデルになった人なんだ。知ってるだろ、天津カケル」
『蒼天の騎士』なら俺も知っている。数年前に大ヒットした映画だ。大国と大国の思惑と争いによって東西に分断されかけた国をつなぐ主人公、亡国の王子天津カケルが戦闘機に乗って戦う物語だ。主人公を演じる人気俳優の顔の良さと、引き離された姫とのラブロマンスの切なさによって、荒事を敬遠する乙女たちまで映画館に押しかけた超大作。もちろん、空軍の協力もバッチリだ。エンドロールに流れる人員募集広告に俺は思わず笑ってしまった。現実では西瑞穂と東扶桑は分断されてしまったが、映画は主人公が国を分かとうとする諸勢力を快刀乱麻の勢いで倒し、引き離された姫と再会して、天津王国の国王として即位するというハッピーエンドだった。現実は無残に引き離され、暴力と憎悪をぶつけ合う二つの国が楽園のような南国の海の上で熾烈な命の奪い合いを繰り広げているのだが。
「王子様がいたの?」
氷川にスポッターは首を振る。
「いや、普通の人。赤井カケル。シワシワになっても天津カケル役の役者に良く似てたんだろうなって分かるくらいの爺さんだったぞ。本当に、ある日ぽっくり逝ってしまったよ。普段通りに遊びに行って、爺さん寝てるのかと思ってしばらくは置いといたんだけど、棚の上のお菓子が食べたくなってさ。爺さんを起こそうとしたらもう冷たくなっていた、ってわけさ」
「あの、大英雄赤井カケルとお知り合いだったんですか?」
赤井カケルは天津カケルのモデルとなった実在の人物だ。天津独立軍の一人として西瑞穂を植民地支配から解放した、と歴史の教科書に載っていた。俺からすると雲の上の人で、伝説の登場人物だ。スポッターは軽くうなずく。
「家が近かったんだ。親切な地域のお爺さんだったよ。爺さんには故郷にはアタシより若い実の孫がいるっていうんで、実の孫同然に可愛がってもらえたよ。会えたらトモエの方がお姉さんなんだから優しくしてやれ、と言われたよ」
「そうなんですか」
「きっと、寂しかったんだろうな。周りは自分のことを英雄として囃し立てるから、密かに東扶桑に帰ることもできない。爺さんの赤井一族は、代々東扶桑の鉱山を治めてきた関係で、鉱山の近くにしか親戚がいない。名字だって、鉱石で汚染された赤い水が出る井戸から来てる、と言っていた。爺さんは筆まめでさ、東扶桑からちょくちょく手紙が来てたし、爺さんもそれを大切にしまっていた。家族に会いたかったんだろうな、爺さんは。考え方も古風だった」
「古風?」
「ガキの頃のアタシはとんだガキ大将で、平気で男子を殴り飛ばして泣かしててね。そこらの大人には逃げられてた。爺さんにも、女の子なんだから大人しくしろ、と言われたよ。爺さんにとって、女子供は守られるもので、戦うべき存在ではないと考えていたからな」
「どうやってそこからエースパイロットを目指そうって発想につながるんですか」
俺の問いかけに、スポッターは我が意を得たりとばかりに口角を上げた。
「でも爺さんは、強いものは弱いもののために戦わなければならない、と言っていたからな。アタシが男より強かったら喧嘩してもいいの? と聞いたら、そうだ。と爺さんは言った。強い女なら弱いもののために戦ってもいいってわけだ。だから、アタシは戦場に飛び込んで、敵を落として生還し、強さを常に証明し続けなきゃいけないのさ。女でも、国家のために武勲を立てられると」
「だからトモエ、わざわざ戦地に……」
氷川の呟きを最後に会話が絶えた。重い過去に、俺も氷川も言葉を失った。スポッターが強いのは背負っている物が違うせいなのかもしれないと俺は痛感した。空を飛びたいだけの俺と、大英雄に憧れ、戦士として在ろうと行動するスポッター。空を飛ぶための道具として戦闘機をとらえる俺と、武器として戦闘機を性能限界まで使い倒すスポッター。俺とスポッターが甘い関係になるなどあり得ない、と改めて感じた。
「あ、そうだハンター、エイルってかわいいと思わないか?」
整備が終わったとき、突然スポッターはそう言った。
「え、ええそうですね。氷川さん美人ですもんね」
西瑞穂では珍しい髪と瞳の色に、すっと通った鼻筋にぱっちりとした目。氷川は美人だ。思ったままのことを俺が言うと、なぜかスポッターは面白がっているような、意味深長な笑みを浮かべた。
「恋人いるぞ。おっかない奴だから手を出すのはやめときな」
「あっはい」
どういう事だ。氷川は俺にスポッターをあきらめさせようとしていて、スポッターは俺に氷川をあきらめさせようとしている。前の任地でもここでも、俺は女の子に声をかけて回ったりもしていないのに、彼女たちには俺が女好きに見えるのだろうか。俺が困惑しているのに構わず、スポッターは氷川を誘う。
「エイル、お茶しに行こうか」
「いいわね!」
俺が呆然としているうちに、女二人は肩を並べてすたすたと格納庫をでていった。扉をくぐって滑走路に踏み出した瞬間に二人が手を繋いだのを俺は見逃さなかった。逆光の中、黒い影になった二人が映画のラストシーンのように寄り添って光の中を進んでいく。暗がりに一人取り残された俺は足の力が抜け、へなへなとその場に座り込んでしまった。
「そういうことかよーッ!」
全てに納得がいった。エイル曰く、スポッターには彼氏や婚約者はいない。だが、それだけではスポッターがフリーだということとイコールではない。そして、エイルはおっかない恋人と付き合っている。そして、二人して俺を牽制する。
「女同士で付き合ってるのかよ……」
格納庫に漏れ出した俺の心の声が、うつろに打ちっぱなしのコンクリートと鉄骨の間を反響する。人の趣味をどうこういう気はない。スポッターも氷川も女優に似ているとかびっくりするほどの美人というわけではないが、普通にきれいだしかわいい部類。彼女たちを選ぶのは、普通の感性だ。ついでに言うと俺の守備範囲内だ。先の見えない戦場で明日をも知れぬ日々が続いている今は、女と積極的に付き合う気分ではないが、向こうからそういったアプローチがあれば付き合うのも悪くはないと思っていた。
いや、別に二人と付き合えなくて悔しいというわけでは断じてない。俺は衝撃的なことが相次ぎすぎて頭が追い付かないのだ。俺より優秀に思える無人機も、海軍機を空軍基地に配備するというお偉いさんの考えることも、戦争の行く末も分からない。
そして、肩を並べて戦う仲間たちが誰を愛しているのかさえ、俺には分かっていなかった。
それでも。
「絶対生まれる性別間違えただろスポッター!」
俺の魂の叫びを、バザードだけが無表情に聞き流していた。