上
風に吹かれて、低空でゆるゆると黒雲が流れていく。覆いが取りのけられるように、雲の下から見慣れた飛行場が顔を出す。俺はほっとした。これで帰れる。本土の航空隊から対潜哨戒機の護衛を引き継いだ後、敵機2機に襲われた時はどうなることかと思ったが、護衛対象は被弾したものの飛び続けている。無人機を数機失ったが、対潜哨戒機を基地付近まで連れてこれた。
だが、まだ仕事は終わっていない。飛行機事故が最も多いのは着陸時だ。一度切り離した地上との縁を結び直すわけだから大変だ、別れた彼女とヨリを戻すようなものだと教官は軍隊特有の下品なジョークを飛ばしていた。それを修羅場にせず、常に確実に行うのがパイロットという仕事だ、と教官は付け加えていた。俺は気合を入れなおす。
〈スコールが去った、ハンターキラー1の着陸を許可する〉
管制塔からの指示が飛ぶ。ハンターと呼ばれて自分のことかと思ったが、ハンターキラーは海軍の対潜哨戒機のコールサインだ。スポッターが護衛していた機体が着陸態勢に入る。海軍機が空軍基地に派遣されるとは珍しい、と俺は思う。陸海空軍は同じ軍隊だが、制服も違えば指揮系統も違う。軍の飛行機といっても、好きに基地の間を飛び回っているわけではないのだ。通常なら空軍は空軍の、海軍は海軍の飛行場を使う。
それなのに海軍の機体が空軍基地に配備されたのは、苦い理由ゆえだ。
俺とスポッターがレーダー基地を破壊したあと、本来なら間髪置かずに上陸作戦が行われるはずだった。
だが、上陸部隊を満載した輸送艦が敵潜水艦に攻撃され、轟沈してしまったのだ。護衛の艦船によって敵潜水艦は返り討ちにされた。同時に、生き残りの艦船によって精一杯の人命救助が行われた。この結果、戦車などの武器の類は少なからぬ犠牲者とともに全て深海に沈み、上陸作戦が遂行不可能になってしまったのだ。
この悲劇を繰り返さない為に、西瑞穂は俺たちのいる基地に海軍の対潜哨戒機を緊急配備することにしたのだ。
対潜哨戒機は薄く煙を引きながらも無事地上に帰還した。トーイングカーが対潜哨戒機を引っ張って滑走路上から取り除く。
日々繰り返す空戦で無人機を消耗し、彼らを受け入れるだけの格納庫の空きがあったのは、きっと上層部には都合のいいことだったのだろう、と俺は思う。仲間を失っても嘆き悲しむ様を見せず、散々殺して殺されて、さらなる血を求めて行動する。いったいどこで終わらせるつもりなのか。国際世論は、この戦争を通じて魚鱗群島自体に築かれた飛行場を実効支配した者が魚鱗群島の所有者だ、と考えているようだ。コックピットでもう二度と陸に足を下すことができないかもしれないとふと考える日々がまだしばらく続きそうだ。
空を飛びたかっただけなのに、どうしてこんな場所に俺はいるのかとげんなりする。呑気に暮らす普通の小市民がうらやましくなってくる。普通人より命の危険がある仕事のおかげで給料は良い。空を飛びたいという願望と高給取りという事実で俺はパイロットになることを決めた。普通の発想だ。だのに仕事内容はほとんど狂人だ。空戦になれば反射的に敵を倒すことなど俺には容易い。敵に情けをかけようなどとも思ったこともないし、その必要性も感じない。そもそもの話、やらなければやられるし、敵だってそう思っているから死にものぐるい自分を殺しにくる。何より空戦はもたつくのが一番まずい。自分と敵の位置を計算し続け、倒すことのみ考えていなければ判断が遅れ、敵弾を食らっておしまいだ。
今は、味方防空圏内で着陸待ちという、ラジオか何かを聞くには微妙な時間だから色々と思いを巡らすことしか暇つぶしができないから今までのことを振り返れているだけだ。
〈ハンターキラー2、着陸を許可する〉
俺はうす青く塗られた眼下の四発機を見下ろす。移動中に敵に強襲され、被弾し、よろめくように飛んでいる。ミサイルの直撃こそ免れたが、フラップの一部を機銃かミサイルの破片に吹き飛ばされたのだ。着陸こそ対潜哨戒機パイロットの腕次第だが、俺が必死に敵機を追い払ったから対潜哨戒機は落とされることなくここまで飛ぶことができたと考えると、先程の全く生きた心地のしなかった空戦もやって良かったと感じられるから不思議なものだ。
櫛の歯が欠けるように無人機がいなくなっても、俺自身にはまだ敵機を撃墜したことも、被撃墜を食らったこともない。だが、今日の任務は本当に命の危険を感じた。海軍による強力なECMのおかげで敵ミサイルが狂ったから生き残れたようなものだ。所属部隊は違えど恩人だ。彼らにはこの戦いを生き延びて欲しいと思う。
よたよたと不安定に機体を揺らしながらも対潜哨戒機がどうにか着陸したのを見届け、おれは胸をなでおろす。管制塔から、スポッターに着陸するように命令が下る。
俺の着陸順は最後だった。僚機の無人機たちに、俺に続いて着陸するように指示を送信し、アプローチに入る。
飛行場を周回して高度を下げながら、俺は滑走路を観察する。スコールのせいで一面びっしょりと濡れ、まだらにできた水たまりが鏡のようにギラギラと南方の太陽光線を跳ね返している。滑走路上の水深は分からないがハイドロプレーニングを警戒しておいた方が良いと俺は判断し、短距離着陸の手順に入る。
ハイドロプレーニングとは、タイヤと滑走路の間に水が入り込み、水の上をタイヤが滑るという状況のことだ。これは深刻な事態で、機体の向かう方向も操作できず、ブレーキも効かなくなる上、戦闘機が低速とはいえ慣性に従って速度を上げつつ動き続けることになってしまう。滑走路が凍結もしくは湿潤状態の時に起き、水深とともに発生傾向も増加する。要するに水が原因のスリップだ。これが起きると、着陸装置が正常に動作せず、したがって車輪の回転を自動調整するアンチスキッド装置も動作しない。
どうしてアンチスキッド装置が動作しないことがまずいのかというと、飛行機が着陸接地後,ブレーキを強く踏みすぎると,車輪の回転が止まってスキッド(滑り)を起こし横滑りしたり、タイヤが片減りするなどして危険となり、制動距離もかえって延びてしまう。アンチスキッドを作動させておけば、仮にブレーキを踏んだまま着陸しても、また急ブレーキをかけたとしても。自動的にブレーキの効きを調整し,滑りを防止するよう車輪の回転速度および減速率を感知して最も効果的なブレーキ圧が加わるようにブレーキ圧調整弁を制御してくれるのだ。
まずは通常通りの手順を行う。俺は300ノットでアプローチング・ブレイクに進入し、滑走路を横目に滑走路端のレベル・ブレイクに到達。スロットルを絞り、スピードブレーキを開く。水平に旋回し、滑走路に沿って引き返し、ダウンウィンド・レグまで移動。対気速度が300ノット未満になったのを確認。主脚と首脚を下ろし、機体が10度の迎え角になるように調整。着陸地点を目指して旋回する。速度ブレーキが開いているかチェックし、最終進入の対気速度と迎え角を維持。高度が下がり、地面効果によって増加した揚力によって、降下率がわずかに減少する。徐々に推力を下げて下降を継続し、沈み込み率を最小限に抑える。
ここからは普段と違う操作だ。俺は集中力を高める。着陸の直前にエンジンをアイドルに切り替え。できる限り滑走路末端付近に着陸する。主脚の接地と同時に水溜りを踏みつけ、水飛沫が上がる。10度の機首上げを保ち、充分に機速を落とす。減速を確認して車輪ブレーキを作動。車輪ブレーキ作動と同時に機首が下がり、軽い衝撃とともに首脚が滑走路上に下りる。スピードブレーキを完全に開き、アンチスキッドをオン。車輪ブレーキを最大に。無事作動したアンチスキッド装置によってブレーキの掛かりが調整される。キャノピ越しに流れる風景が線から点へと日常の姿に戻る。
ここでやっと、再び地上に帰って来れた安心感が俺を包んだ。この後は自動車とほとんど変わらない。地上走行に入り、地上員の指示に従って俺は機体を列線場に停める。俺に続いて、誰に指示されているわけでもないのに無人機が駐機位置に収まる。
図書館の本のように整然と並んでいる彼らの様子が俺には頼もしく、同時にどこかうすら寒くも感じられた。俺よりもあいつらの方が優秀なのではないか、という疑念が頭をよぎる。気のせいだ。いま俺は空を飛べる。少なくとも、この戦争が続いている間は――俺は自分の思考が意味するところに気が付いてぞっとした。戦争なんてさっさと終わってほしいと空の上では考えていたのに、地上に戻った瞬間発想が逆転している。
なにはともあれ、と俺はラダーを下りながら自分に言い聞かせる。戦争は生きるか死ぬかの世界だ。仲間の評価より先に、自分自身が生き残ることを考えるべきだ。
そのためには、|何があったのかの情報共有が必要だ。それが終われば、飛行機を最善の状態にする手助けも。地上に降り立ち、俺は今日割り当てられた機体の格納庫を確認し、デブリーフィング場所として指定された部屋へと向かった。
*
デブリーフィング終了後、俺は格納庫に向かう。いつも通りの機体を通り過ぎ、普段は足を運ばない場所へと向かう。西瑞穂にはパイロット専用機といったものはない。学校のクラス替えの机や椅子のように、飛べる機体が飛べるパイロットに飛行計画ごとに割り当てられる。機体ごとに多少の癖はあるが、ベースは同じものだし、バザード自体も激しい個体差が出るような飛行機ではないので、全く問題ない。
俺は今日の相棒の左サイドシルを見上げる。C/C SMSgt/E.HIKAWA。機付長、曹長、氷川エイル。西瑞穂で唯一「自分の」機体を手に入れられる役職と、階級と、その人物の名前。彼女が整備した機体に乗ったのは初めてだが、変な癖のない素直な反応の機体だった。氷川エイルはバザードとノートパソコン型端末をケーブルで接続し、バザードのセルフチェック機能で損傷箇所を確認しているところだった。彼女は俺が来たことに気付かず、一人で何やらぶつぶつ唱えている。
「ほこり、砂、高温による損傷に対して追加の注意が必要なのはここも砂漠も変わらないわね」
「お疲れ様。氷川さん、追加の注意って何だ?」
「トモエ? やけに他人行儀ね……って誰?!」
勢いよく栗色のおかっぱ頭が振り上げられ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で俺を見上げていた。