七.
卒業年次になると、それに向けての準備やら部活動、委員会の締めくくりで何かと忙しい時期が続いた。
卒業とは言っても所詮は小学校のことなので、年が明けたところで何が変わるというわけでもない。ただ学び舎が今よりずっと近くなるだけだと思っていた。勉強内容は難しくなるかもしれない。ちゃんと授業についていけるだろうか。そんな杞憂さえ、夏休み前の学校訪問で数学の授業風景を目の当たりにした時点で消え失せてしまった。見たのは中一の一次方程式の問題だった。算数は正直全然得意ではなかったし、実は「くもわ」「みはじ」の問題で落第点を取ったこともあるのだけど、そんな僕でさえ数秒眺めれば解答にアタリが付く、そんな問題が黒板には書かれていたのだった。
基本的に僕は通年習い事をしていたので、部活などの学校内での活動にはほとんど参加していなかった。三年から週一での参加が強制されるクラブだけは毎週水曜、サッカーをやっていたが、それもほとんどお遊びのようなものだった。
そんなわけで帰りは早いものの夕方からは英語かそろばん塾通いの毎日を送っていた僕は、近所の友達、部活に精を出している友達とはほとんど遊ぶ時間が得られなかった。そっちはそっちでかなり本腰で放課後の活動をしていたようなので、僕が暇でもどっちみちそんな時間はなかったんだと思う。
ただ、まったくない、と言われるとそういうわけでもなく、休日は大体いつものメンバーで集まってゲームをしていたし、平日も二ヶ月に一度くらいは塾も部活も休み、という日もあった。これはそんな数回の平日放課後の話になる。
塾通いである僕と部活通いであるその他諸々で決定的に違うことがある。フィジカルの強さもそうだけど、外に出る機会だった。
平日の放課後、学校の体育館なりグラウンドで部活なんていうのは至って普通だろうけど、僕らの学校では土日に部活をやることも多かった。とりわけバスケットボールは地区でも群を抜いて強かったらしく、度々全国津々浦々へ遠征に行っていたようだ。
そこまでではなくても、休日は学校が開いてない、ということがよくある。施錠されている、というのではなくて、敷地を他の団体が使う日があったからだ。そういう時に運動部はどうするかというと、近くに公共施設なんかないので、隣の小学校ないしは付近の高校を間借りしているのだった。
僕がそれを聞いたのは、溶けそうなほど暑い夏の放課後のことだった。
「なぁお前、この町を探検してみねぇか?」
そそくさと荷物をまとめて帰ろうとした僕の足を引き止めたのは、坊主頭で野球部というテンプレートにも程がある近所の知り合い、拓也だった。
「探検してどうすんだよ」
「こないだ練習試合で牧高校行ったんだけどさ、何かあそこ、怪しいんだよな」
「怪しいって……」
あんなとこ、周りにあるの、パン屋と花屋と、あと住宅街だけじゃないか。
「あそこのグラウンドの隣にさ、お菓子の工場があるの、知ってるか?」
それは知らない。そもそも僕の家からじゃ遠いし、行く用事もない。そんな奥まで覗いたことがない。
「その工場が、何だってんだよ」
「夕暮れにそこに行くとな、その近くにある掘立小屋みたいな家が、何か光ってんだよ。気になって近くで眺めようと思ったけど、工場に関係者以外立ち入り禁止って書いてあってさ。それも怪しくねぇ?」
掘立小屋どうのというのは置いといて、工場が立ち入り禁止なのはそりゃそうだろうよ。普通の会社が運営してるんだろうし。
「とにかくそこにさ、もう一回行ってみたいんだよ。できれば日が暮れた後にちゃんと確認してみたい。なぁ、お前も今日暇だろ? 付き合ってくれよ」
「……別にいいけどさ」
本当はあまり乗り気じゃなかった。もっと言えば久々に平日暇なんだから、いつも通り誰かの家に集まってゲームでもして遊びたかった。けど、結果として否定しなかったということは、嫌々ながらもそんな非日常を僕も心のどこかで探し求めていたのかもしれない。
かくして牧町探検計画が幕を開けた。
話に乗ったのは全部で四人。僕と言い出しっぺの拓也と、あと二人も同じ野球部の六年だった。
僕は方向音痴なのであまり自信がないが、南小から牧高方面に出るとなると、恐らく通学路の途中で堀団を迂回しなければならないはずだ。
帰り道の途中、市街地と堀団とに分かれる丁字路がある。拓也はそこに突き当たる前に左折しあぜ道を抜けてしまった。
そこを出るとまた丁字路。ここも左折した。見渡せば確かに学校通りの商店街っぽい感じがする。これで商店街を名乗るのはあまりにもお粗末だと思うのだけど、街灯に白字で刻まれた地番がそう言っているのだから仕方がない。
こんなところまで歩いて来たことがないから分からなかったが、そこから高校まで、だいぶ歩くことになった。
そして、だいぶ歩いているうちにちょうどいい頃合いで日が暮れ始めた。
「ここだ。ここを右」
拓也が指さしたのは、ちょうど高校に入る一歩手前の細道だった。その一本奥になると葬儀屋があるし、その先はもう山に向かう質素な車道しかない。不謹慎かもしれないけど、隣が斎場の高校というのも、それはそれでちょっと不気味ではある。
僕たちは言われた通り右折して細道に入った。道の左手はグラウンド。商店街が一本道でそれほど便が良くない割には意外にも右手には古びた民家が結構な数、軒を連ねていた。
「こんなとこ、どうやって車止めるんだろ」
変な緊張感があった割には、出てきた疑問はそんな些細なことだった。
その先の道は、少し複雑なつくりになっていた。ちょっと左に曲がったかと思えば大きく右に逸れていたり、差し詰め校舎の形状に沿って道を作っていったような印象を受けた。
本格的に陽が落ちていくと、数メートル先も見えなくなってきた。
「あれがお菓子の工場だな」
目を凝らして見ると、五十メートルくらい先だろうか、平らで大きな倉庫みたいな建物と、その入り口の真ん中にスーパーやコンビニで見慣れたお菓子メーカーのロゴがうっすらと窺えた。
「なんだ、普通の工場じゃん」
「期待させといて何だよ、拓也」
僕は心底安心したと思ったが、連れてこられた残り二人がそれはそれは不満そうな顔をして後ろからついてきていた。
「でも平日にしては静かすぎねぇ? この時間ならまだ工場やってそうだけど」
拓也はことさらに僕の不安と二人の期待を煽っている。工場は閉まっている。常識的な判断をすれば、平日の七時過ぎでまっとうな会社ならそれは静かであって当然だ。
僕が気になったのはむしろ高校の方だった。この時間、まだバリバリ部活をやっていることはないだろうけど、部活帰りとか何やかんやで居残りしていた生徒が帰ろうかという頃合いのはず。それなのに、明かり一つついていないのはどういうことなのか。きっと今日は休みなのだろうと僕は無理くり自分に合理的な説明を付けることにした。
話にあった通り、工場の入り口には立ち入り禁止の看板が立てられていたので僕たちはその脇道を更に進んでいった。
僕は予定調和のようにびっしりと建てられた右手側の古民家だけを眺めていた。人の気配が更に薄れたせいか、次第にそんな民家も廃墟なんじゃないかと思えるようなものが増えてきた。
「何か、明るくなってきた」
誰かが言った。
僕は一度顔を俯かせて、前を見ようとした。確かに明るい。でもこれは太陽の明かりじゃない。自然の光じゃない。誰がどう見てもそれは分かるほどだった。
正面に目を向けると、突き当りの一軒の家が、青白い光を発していた。
「何だあれ!」
光もさることながら、家がとんでもなく気持ち悪かった。人が住むにしてはあまりにも小さすぎる幅と高さ、日本式の民家ではまずあり得ない、サッシも網戸もレールもない、正方形の窓。そして極め付きは、
「玄関の扉が、ねぇ……」
玄関が開け放たれている。普通、玄関の扉は外開きだろうから、こっちから目で見える範囲に扉がないということは、そもそも「それ」自体が存在しない、ということになる。
「マジ、ありえねぇ」
二人のうちの一人が呟いた。いや、まったく、本当に、その通りだよ。
もう一度民家をよく覗いてみる。眩しくて断言まではいかないが、中には誰もいないようだ。
僕らはもう少し近づく。まだ分からない。ひとまず青白く発光している物質の正体を暴かないことには、この家は今後一生オカルト染みた化け物の棲み処として実態が迷宮入りになってしまう。
また一歩近づく。今度はしっかりと窓を覗く。そこまできて光を放つ物質が、動いてないもので、かつ直径二、三十センチ前後の球体である、ということが分かった。
妖怪その他の類でないことが分かると今度は開放された扉から入って見てみようということになった、その時だった。
入り口の右手、薄汚れた民家と民家の間に、人間が挟まっていた。
「うわぁっ!」
本能が「ヤバい」と言っていた。僕らはもと来た道を一目散に逃げ出した。
「いきなり何だよ!」
後ろからついてきた拓也が走りながらそう聞いてきた。
「玄関の横に……人がいた……」
「そんな、馬鹿な」
「いたって!」
僕と拓也の後を追う二人も間もなく話に入ってきた。
「……どんな奴だった?」
「暗くてよく見えなかった……けど、背が低くて、たぶん年寄りの女の人だった」
「マジかよ……でもそんな、そんなところに人がいたら、近づく前に気付くはずだろ」
「それが分からないんだ……」
何せ民家と民家の間だ。夜ということもあったし、どのみちこちらからでは死角だ。僕らの騒ぎ声がうるさくて出てきたのか、それとも元々あそこにいたのか。
けど、前者なら「静かにしろ」とか、少なくとも何か言うはずだ。逃げ出した時点では何も喋っていなかった。強いて言うなら、不敵な笑みを浮かべていた、ように見えたことくらいだろうか。
僕らは逃げた。ただひたすらに逃げた。夏の夜の、蒸し暑さも忘れて。
あの老婆は誰だろうか。
青く光る民家の主だろうか。
あの老婆は、魔女なのだろうか。
そんなことを考えながら僕らは逃げ続けた。
その先にあるはずの、国道116号線を目指して――。