六.
人をあだ名で呼ぶだとか、名前を文字って茶化すだとかいうのは、いつどの時代でも少なからずはあるものだと思う。本当は悪いことかもしれない。やっちゃいけないことかもしれない。でもみんなやってるんだし、どうせ「やめろ」ったって、なくならないよね。
けれど僕らの学校ではそうはいかなかった。茶化した側も茶化された側も、実はそれがいじめや誹謗中傷だなんて全く考えてもいなかったけど、周りがそれを問題視したんだ。しかも周りってのはPTAや保護者なんかじゃない。それを目にした他の生徒が、だ。
事の発端は、クラスメイトの上野優香という女子だった。取り立てて目立っているだとか、変わっているということもない、良くも悪くも平々凡々な女子で、状況が違ったなら何もあれほど問題視されることもなかったはずだった。
大人しい性格の彼女だが、一つ癖があった。一人称が自分の名前なのだ。ある程度歳を取った女性が特定個人を籠絡するために意図的にやる、ということはあるかもしれないが、彼女の場合、ほぼ間違いなく素でそれをやっていた。あの頃、他の女子たちは大抵「わたし」「あたし」あるいは少し気が強ければ「ウチ」とかの一人称を使っていた。思い返してみれば、会話で自分を指すのに自分の名前を使っていたのは、僕の学年では上野ただ一人だったかもしれない。
しかしそれも大した問題ではなかった。周りは聞き慣れていただろうし、僕だって意識しなけりゃ気付かなかった。そうではなく、彼女のその一癖を取ったような「茶化し文句」が流行ってしまったのが事の発端だった。
優香ってゆうかさぁ――
くっだらない。最初はそう思っていた。元々は上野が何かを切り出すときに口にした言葉らしいが、厳密には「ゆう」ではなく「いう」だし、そもそも自分の名前に「ていうか」を付けるのは日本語として間違っているんじゃないだろうか。
だがそれが当時小五のクラス中では人気だった。特に深い意味はなく、単に語呂がよかったから。男子なんかは何かにつけて「優香ってゆうかさー」などと言っては笑っていた。生徒の流行りはある程度教師陣にも伝播していたのか、担任の科田も何度か面白おかしくそれを口にしていた。
そうこうしているうちに僕のクラスの中では「あだ名を付けたり名前を文字って遊んではいけない」という規律が瓦解しつつあった。そんな時に科田はクラスのとある男子の名前を、地元を流れる河川の分水嶺に喩えて口走ってしまった。
これがクラス内で相当な問題になった。最初はそれこそ些細な出来事だったにせよ、それが生徒の口癖になっていくにつれ、文字られた本人が嫌がっていたのだ。
そのタイミングで言い出しっぺである科田が「人の名前で遊ぶのはやめよう」と取り上げたのだから、これが剽軽者の伊藤を皮切りに男子という男子の形容しがたい怒りを買ってしまった。客観的に考えればそれは教師、生徒の双方とも典型的なダブルスタンダードだったといえるのだが、そんな言葉を知る由もない小学生では、「はっきりとは言えないけど絶対に何かがおかしい」としか思えなかった。
この事件、発生した四時間目の総合の時間から、終会が終わって夜七時まで徹底的に長引く議論となった。
言い出した教師が悪い。その風潮を作った僕たちにも非がある。けどそれを問題にしなかったのはおかしい。そもそも論として科田は上野の頃から半ば「あだ名肯定派」のような言動をしていた――。
あれやこれやと行ったり来たりの論議を繰り返して、最終的に「あだ名、名前いじりはやっちゃいけない」というクラス全体の意識低下が問題だったのではないか、という、他のクラスが割って入っていれば間違いなく僕たちの費やした半分の時間で終結していただろうというレベルのごくシンプルな、単純過ぎる結論を出すに至ったのだった。
このローカルな不文律で、もう一つ話題になったことがある。「名前いじり」がいじめの温床になるので禁止、というのはある程度誰もが納得する理屈だった。だがその後で「あだ名」までもがその標的になったとき、それはやりすぎなんじゃないのかという例もあった。僕らの二つほど年上で、「ゆうちゃん」というあだ名で呼ばれている先輩がいた。本当は雄貴という名前だったが、呼びやすいからそう呼んでいたそうだ。
そのあだ名がついてしばらくして、親しき中にも礼儀ありだから「さん」付けして呼び合おう、ということになった。上級生から率先してやらされていた。それからしばらく、その先輩は「ゆうちゃんさん」と呼ばれるようになった。
そして更に時が経ち、あだ名そのものが問題視されるようになると、「名前を略すのがよくない」という風潮が何故か生まれ始め、呼び名から個人の名前由来の文字列を取り除いた結果、「ゆうちゃんさん」は「ちゃんさん」と呼ばれることになる。
最終的にその「あだ名」が中学に上がっても三年間続くことになるのだが、果たして「個」を失ってなお形骸化しつつ存在する「あだ名」を規制することが本当にいじめ抑制に効果的なのか、ということが大きな問題として取り上げられた。「呼び方なんて何でもいいじゃん」と思う人がいるかもしれないが、これまた不思議なことに僕らの学校ではそうはいかず、クラス・委員会の代表者会議で議題になったことすらあったのだから、事態の大きさは知れるだろう。
結局、多感なこの時期に付いたあだ名というのは、そう簡単に変わらないし、変えることができない。世代が変わっても学校が変わっても住む土地が変わったとしても、どうしても呼び名だけは変わらない、そんなことが往々にしてある。
となると他人にとってはどうでもいいような文字の羅列であっても、ある人にとっては良くも悪くも、多かれ少なかれ、それが自分が自分たる証明になるのかもしれない。それがアイデンティティになることさえあるのかもしれない。
それほど人生に大きな影響を及ぼしかねないあだ名を、きまりだからと制限していっていいものなのだろうか。
僕にその答えは分からなかった。