五.
科田とは三年間の長い付き合いになった。
体育会系だから、というわけではないんだろうけど、学校のこと、生徒のことなら何でも、熱意を持って真面目に向き合っていた。長い年月かかってようやっと叶えた夢だと考えていたからなのかもしれない。
学校教師なんてのはとかくお寺のお坊さんが言ってました、みたいなありきたりな訓えが大好きな性分なんだろうし、実際科田も幾分かはそうだった。でも彼の説明には感情がこもっていた。「七転び八起き」ということわざを特に好んで口にしていたが、それに特別な思いがあったのもきっと自身の「苦節七年」と通じるものがあったからなんだと思う。
また真面目である一方で朗らかさやユーモラスもあり、ある国語の授業で「手で食べる、箸で食べる」という題名の随筆を取り上げた時に、僕がそれをうっかり「手で走る」と誤読してしまったのを聞いた科田が匍匐前進をしてみせたこともあった。
さて、そんな科田のもとで三年間授業を受けてきて、合わせて二度、とあるアニメーション映画を見せられた。最初に見たのは四年の時、道徳の授業だった。次に見たのは六年の暮れの方で、学校行事の方が色々と忙しくまとまった時間が取れないということも手伝って、色んな授業の隙を見てはそのビデオを流す、という形だった。
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宇宙大学の受験生である主人公が、卒業を懸けた最終試験として十人一組のメンバーで外部との連絡手段を絶たれた宇宙船の乗組員として五十日余りもの間、船内に留まるよう言い渡される。
だがそこにいたのは一人多い十一人。この事態を大学に知らせるには非常ボタンを押すしかないが、押せばチーム全員不合格となってしまう。彼らは一人多い事実に疑心暗鬼になりながらも試験期間を生き延びようとする。
試験は順調に進んでいるかのように思われたが、船は次第に公転軌道から外れ、太陽へ近づいていく。それと共に屋内の温度が急速に上昇し、発症患者の九割が死に至る伝染病が発生する可能性も浮上し始めた。
それでも十一人は協力し、船の軌道修正とワクチンの抽出に成功する。だが試験が残り十日を切ったというところで乗組員の一人が伝染病にかかってしまう。
一人でも多く生還するためには発症した彼を殺すしかない。そうすればちょうど十人になり、治まりもつくだろう、というところまですったもんだした挙げ句、主人公の活躍によって遂に棄権を申し出ることになった。
最終的には「一人多い」というのは大学側が非常ボタンを押させるため意図的に仕組んだ罠で、それに加え命に関わるアクシデントがあったにも関わらず全チーム中で最長の期間を耐えた主人公らのチームには首席合格が通知され、それぞれの未来へ旅立っていった。
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僕は元々SF映画が好きだったから、二回とも食い入るように見ていた。考えてみれば色々と前提知識も求められそうなシナリオではあったけど、勉強しなくていいということもあってか、クラスのみんなも大体は面白がって見ていた様子だった。僕みたいに二度とも見ることになった人も幾らかいて、二度目を見ることになったとき、初見の人もいるからネタバレしないようにと科田が散々言っているのに剽軽者の伊藤なんか、
「ヒント、ケチャップ」
とか言い出す始末だった。劇中、十一人が諍いを起こしてケチャップを飛ばし合う描写があるのだ。もちろん物語の核心なんかではないが、間違いなく印象に残る場面だったからそれは完全なネタバレだった。
二度目を見た後になって僕は考えてみた。科田はなぜ僕らにこれを見せたのだろう、と。
道徳の一環で最初はやってたから、もちろん何かの意図はあるんだと思う。けど彼は「この作品で重要なのは――」なんて無粋な言い方はしなかった。というより率直に言うと、ビデオを見せる以外は何もしなかったし言われなかった。
だからこれはあくまで推測になってしまうけど、科田はこれを通して「問題にすべきことを履き違えるな」と言いたかったのではないだろうか。
登場人物の気持ちになってみれば、長期間の宇宙生活、しかも連絡手段を絶たれている。そんな極限状態で何かイレギュラーが起こってしまったら、どんな些細なことにも角が立ってしまうかもしれない。けど、十人か十一人かは関係なくて、何人であろうと全員手を取り合って五十余日を過ごさなければならない。じゃあどうやるか。それが今回問題にすべきことじゃないのか――それが一番大きな、この作品を通して訴えかけたいことなんじゃないだろうか。
もっと言うと、あらすじの他にも各登場人物の人種、人間性だったり、あるいは主人公の幼少期の背景が伏線として散りばめられているので、そういうのも含めると作品の道徳的意義は増えるのだろう。
けどこれは道徳の授業であって国語の授業ではないので、一番伝えたいことは一番分かりやすくなくちゃいけないだろう。穿った見方をするならば、それが科田なりの情熱というヤツだったのかもしれない。