四.
進級してクラス替えがあった。たかだか四クラスしかない小さな学校だったけど、それでもこれは単なるくじ引きや抽選、運試しの類ではないんだろうな、とこの頃から薄々勘付き始めていた。
リーダー格が二人、お調子者が一人、問題児が若干名……一クラスの編成はだいたいこんな感じになっている。個々人としてみれば偶然そうなった、とも言えるだろうけど、横の繋がりを考えに入れるとそんなことはないだろうな、と思っていた。有り体に言えば「偶然にしては出来過ぎている」。
その年から僕たちの学年に新しい先生が入ってきた。科田という男教師だった。
長身で体格もしっかりしている。精悍な顔つきはいかにも「運動やってます」の印象で、それに違わず授業は体育を専門に受け持っていた。
着任した日からしばしば「苦節七年」という言葉を口にしていたが、僕にはどういう意味なのか分からなかった。懇談会か授業参観の時に保護者の前でもそれを話していたようで、「七年は凄いね」と度々僕の両親も言っていた。小学校も卒業という頃になって初めて、それが教員採用試験のことを言っているのだと分かった。
ちなみに専門が体育といってもそれだけやっていればいいわけではなくて、厳密には小学校の先生になるには国語算数から図画工作まで全部の授業を受け持たなくてはいけない。けど科田はどうも音楽が大の苦手だったらしく、最後までピアノが弾ける人を助手につけていた。
この頃から僕は本格的に塾に通い始めていた。それ以前もスイミングとか英語とか、色々手は付けていたけど、どれも中途半端ですぐにやめてしまっていた。
塾といってもいわゆる学習塾ではなく、そろばん教室。週に三回程度だった。楽しいとも向いているとも思わなかったけど、それまでやってきた習い事よりかは多少自分に合っているような気もした。
だからというわけではないけど放課後に友達と遊ぶ機会も少なくなり、それが塾のない日まで及ぶようになると暇になっていた。
そんな時、たまに僕の家に遊びに来る子がいた。真耶という女の子だった。
短く切った髪にスラリとした体型が印象的な彼女は実は近所に住んでいて、入学当初から少し顔見知りだった。というより登校班もほぼ同じ。ほぼ、というのは班構成が違うだけで毎朝同じ場所に集まって同じ通学路を歩いていた。
この年、真耶と同じクラスになっていて、少し話す機会が増えた。朝見かける時は無口無表情で大人しい子なのかなとずっと思っていたが、教室で話してみると明るく元気な性格だと思った。単に朝弱いだけなのだろうか。
友達と遊ぶ、といったら僕の日常ではもっぱらテレビゲームやカードゲーム、家の中で遊ぶことがほとんどだったけど、真耶と遊ぶ時だけはいつも家の外だった。隣の空き地に鬱蒼と生い茂っているねこじゃらしをかき集めては束ね冠を作ってみたり、石灰に近い成分の石をチョーク代わりにしてアスファルトに絵を描いてみたり、あるいは公園で缶蹴りをしてみたりと、内向的な僕にしては比較的「子供らしい」遊びをやっていたんじゃないだろうか。どちらから言うでもなく、気が付けば外に出ていた。
雨が降ったある日の翌日。
ちょうど梅雨も真っ盛りという季節で、雨が上がってもどんよりした天気が続くなか、真耶はその日も僕の家の前で遊んでいた。
梅雨というと必ずやってくるのが湿気好きな生き物たちで、具体的に言うとカエルとナメクジが道路という道路を這いつくばっているのがよく目に映る。特にカエルはどういうわけか家の中にも入ってきたがるようで、玄関やベランダ、果てはお湯を張った浴槽にまで侵入していることもある。
そんなのが日常茶飯事なものだから両生類に対する抵抗感も消え失せて、気が付けば「何で僕より先に風呂入ってるんだ」と意味不明な憤りさえ覚えるようになっていた。
玄関の前には何匹かナメクジがいた。僕はナメクジも苦手ではないけど、触りたくはなかった。カエルは可愛げがあるけど、ナメクジにはそれがない。
真耶は大理石の溝に前ならえした数匹のナメクジたちを、ただただジーっと眺めていた。大抵の女の子はこの手の生き物が苦手なんだと思ってたけど、案外そうでもないみたい。
僕はふと考えた。
「ナメクジって塩かけると消えるらしいじゃん」
「そうなの。何で?」
「分かんない。天敵かな。ドラキュラがにんにく食べると死ぬみたいなものじゃない?」
「ふぅん……」
あまりピンときてないみたい。
「ねぇ、こいつらに塩かけてみようぜ」
「うん」
僕は家の台所から小瓶に入った食卓塩を持ってきた。
団体様ナメクジの上からそれを一振り、二振りしてみると、瞬く間にそれらは縮こまっていき、三十秒もしないうちに、まるで手品のように消えていなくなってしまった。
「……消えちゃった」
真耶はちょっと残念そうだった。
結局この日は、なぜナメクジが塩で消えるのかも、なぜ真耶が遊びに来ていたのかも分からず仕舞いだった。が、実はナメクジの方については後になって理科の先生に訊いてみたことがある。
塩が濃いからナメクジの体内にある水が全部外に出て行ってしまうから、正しく言うと「消えた」ではなく「干からびて死んだ」ということだった。ちなみに砂糖をかけても同じことになるし、人間が塩漬けにされても同じことになるらしい。
個人的にはとても勉強になった。けど残酷過ぎて間違っても僕の口からは真耶には言えなかった。
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それからまた二か月ほど先の話になる。あれは暑い初夏のことだった。
「お姉ちゃん連れてきていい?」
うだるような気温のこの日も相変わらず僕と外で遊んでいた真耶は、突然そんなことを言い出した。
「兄弟いたの?」
「昔同じ登校班だったじゃん。今はもう卒業して東中だけど。覚えてないの?」
「全然覚えてねぇ……」
言われてみれば隣の班には真耶にそっくりな人がいたような気がする。双子かなとも思ったけど、気付いたらいなくなっていたので気にしたこともなかった。
――とは言えないよなぁ。
「お姉さん、何て名前だっけ」
「サキ。渡邊サキ」
「……確かにどこかで聞き覚えがあるような」
「お姉ちゃん、敬介くんのこと知ってたよ」
そうなんだ。会ったらごめんなさいしなきゃかな……。
「中学って、今日学校は?」
「試験休みだって。じゃあ連れてくるね」
そう言うと真耶は駆け足で国道に出て行った。
僕と真耶は、家こそ近所だったけれど、今年クラスが一緒になるまではほとんど面識もなかった。当然ながら彼女の家族も分からない。
けどふと思い出すと、お父さんには過去に一度だけ会ったことがある。大雪の冬、真耶の登校班を学校まで送るというついでに、僕らの班も一緒に乗せて行ってもらった。黒のスーツがよく似合う、真面目そうなビジネスマンな印象だった。「君の話は色々聞かせてもらってるよ」って言ってたけど、一体誰から何の話を聞いているというのだろう。
そんなことを考えているうちに真耶が戻ってきた。その後ろには背が高い、彼女に瓜二つの女の子が立っていた。
「久し振りだね、敬介くん」
その声を聞いたとき、僕の脳裏には三年前の出来事が一瞬にして蘇った。
「沙紀さん……そうか、あの時の」
「やっぱり分かってなかったんだね」
「えっ、じゃあ沙紀さんはあの頃から?」
「もちろん知ってたよ、あたしはね。最初は君もあたしのこと知ってるんだと思って、そのつもりで話しかけたの」
でも知ってるのはあたしの方だけみたいだったし、反応が可愛くてついからかっちゃった、と沙紀さんははにかんだ。
それにしてもこの二人、似てるけど全然違うな、と思う。確かに真耶も沙紀さんも、性格的には明るくて元気がいい。けど表面が違う。沙紀さんは臆面もない感じが表情にも声にも出ている。反対に真耶は感情を「言葉」としてはあらわすけど、顔にはほとんど出てこない。抑揚がない、というわけでは決してないんだろうけど、真耶の発する言葉は文字の羅列、そんな気分が、時折あった。
……お姉ちゃん、そういうことだったんだ。
呟かれた彼女の一言はやはり抑揚がなくて、誰の耳に刺さることもなかった。