二.
「今日塾ないから俺ン家で遊ばね?」
それから数ヵ月経った初秋の話だ。
父は会社員、母は自宅の隣で小さな喫茶店を切り盛りしていたが、じきに二番目が生まれるということで店を閉め、父もほとんど夜まで帰ってこないので僕は母方の実家に帰る日が続いていた。
「ごめん、今日は堀団に帰らなきゃなんだ」
「そっか、じゃあまた今度な」
達哉が自席に戻り、六区方面の友達と教室を出るのを見送って、僕は帽子のタグを桃色に付け替える。六区の自宅に帰るときは緑色のタグで、堀団の実家のときは桃色という学校の決まりだった。クラスメイトは大体一人っ子か、いても年子、二歳差くらいなので、こんなことをしている人は他にいなかった。
身支度をして一人教室を出る。堀団はやんちゃな奴が多く、あまり関わりのある人はいなかった。それについてどうのこうのと心配したことはないが、弟か妹が生まれてまた普段通り自宅に帰るようになったら六区の友達は遊んでくれるだろうかと不安になることは時々あった。
「暇だなぁ……」
そんな状況なので、実家にいても特にすることがない。テレビゲームが幾つか用意されていたが、ほとんど対戦ゲームで、一人でやってもつまらない。女みたいな恰好した男がオカリナを吹いて旅をするというRPGもあるけど、平原に出たところで時間軸が夜になり怖くなってやめてしまった。
「敬介」
仕方なく国語の教科書の、まだ習っていない物語をパラパラと眺めながらボーっとしていると、祖母から声がかかった。
「さっきお父さんから電話がきてね、今日遅くなるっけ病院には行かねって」
父が会社から帰ってくるのが大体七時過ぎくらい、実家まで迎えにきて、車で隣町の病院に母を見舞いに行く、というのが日課になっていたが、ただたまにそれより遅くなる日があるようで、そうなると病院には行かずそのまま家に帰っていた。
迎えが遅いとなるといよいよやることがなくなった。僕は友達がいるわけでもないのにふと外で遊びたくなった。
実家を出て右に曲がってすぐのところに寂れた公園があった。勝手に団地公園と名付けていたが、錆びた黄緑色の柵で囲われていることから地元の子供たちからは緑公園と呼ばれているということを後で誰かから聞いた。名前なんて分かれば何でもいいけど、正式名称は遂に判明しなかった。
そこのブランコで一人、ただ考え事をしていた。一人でいるのも考え事をするのも、僕は嫌いじゃなかった。ヒーローごっこの真似事のようにゲームの世界の主人公になりきってみたり、もう一つの世界があったらそこにいる自分はどんな人間なんだろうとか、今月のゴロゴロを頭で思い返したり、とか。
ぼんやりして十分くらい経っただろうか。僕は目の前に人が立っているのに気付かなかった。
「こんなところで一人で何してるの」
知らない女の子だった。
自分よりは年上だというのは間違いなく分かる。ただそんなに離れているわけでもなさそう。こんな時間に私服でここにいる、ということは中学生や高校生ではない。見た目は、ややふっくらしていて短い髪。どちらかと言えば綺麗な女の子だなと思った。
「いや、別に……やることがなくて、ここにいるだけ」
「そっか。あたしもちょうど暇してたの。一緒に遊ぼうよ」
「うん」
名前も名乗らない見知らぬ年上の女性に、これくらいの子供は本来多少なりとも危機感を抱くべきなのだろうが、およそ人見知りを知らない僕はその人が悪い人だとは考えなかった。
僕とその女の子は公園を出て土手の方に向かった。昔から馴染んでいたのか僕はこの場所に土地勘がある。団地はその土手で半分くらい囲われていて、その正面にある坂を下りると自宅のある市街地へ出る。もう半分は田んぼ一色だったから、知らない場所へ連れて行かれるとしたらまず向かうのはその坂一つしかないと僕は踏んだ。
けど、その取るに足らない僕の危機意識も歩き始めてすぐに薄れた。女の子の方からあっさり名乗ってきたからだ。
「あたしは沙紀って言うの。渡邊沙紀。君は?」
「大塚敬介」
「敬介君、ね。この辺で見掛けないけど、南小?」
「そう。二年」
「そうなんだ。初めて見る顔だな」
「沙紀……さんは?」
「別に呼び捨てでもいいよ。あたしも南小なんだけどな、この名札、見えない?」
彼女の左胸元をよく見れば、確かにそこには僕が数時間前まで付けていたのと同じ名札が律儀にも付けられていた。名前の上部には、マーカーの滲んだ文字で「5年2組」と書かれている。
「沙紀さんも、この辺の人なの」
「本当は違うんだけどね、今日たまたま堀団に用事があって、帰りに散策してただけ」
「散策して、何か見付かったの」
「暇そうな男の子」
「う、うるさいな!」
よく考えて三つ上の先輩に対してタメ口を使っている僕が言うのもおかしいが、何かちょっと失礼な女の子だな、と思った。
「ところで、どこに行こっか?」
「決めてないの……」
「だって君の方が詳しいでしょ、この辺」
確かに様子を見る限りこの――沙紀さんよりは僕の方が団地を知ってはいると思う。けど、かと言ってここに住んでいるわけじゃないんだ。
「なぁんだ。じゃあどうしてあんなところにいたの?」
僕はかいつまんで事情を説明した。沙紀さんは、そうなんだ、とだけ答えた。
結局行先は曖昧なまま土手まで辿り着いた。進路は三つある。真っ直ぐ行けば下り坂で市街地に出る。左右は行ったことがないから分からないが、左は通学路に合流するはず。右は、少し進めばクラスメイトの家があるが、その先は知らない。
沙紀さんは迷いなく右を選んだ。
「左は一区に出るの。車の通りが多くて危ないから、堀団で遊ぼう」
ということだった。失礼だけど、優しい人だなと思った。
僕は沙紀さんに続いた。後ろからシルエットだけを眺めると、そう言えば誰かに似ている気がする。割と近しい、誰か。でもそれが誰なのかまでは分からない。
「この辺の子とは遊ぶの?」
「顔見知りは何人かいるけど、あんまり遊んだことはない」
「君とは合わないかもねぇ。ガキ大将みたいなの、多いもん。知ってる? 堀団って、学区球技凄い強いの、野球もドッヂも」
知ってる。特に野球は六年連続優勝らしい。六区の球技チームに入っている人から聞いた。
「まぁ、野球なんて毎年三チームしか出てないんだけどね」
「えっ、そうなの」
「そうだよ。ドッヂなんて低学年からでも戦力になるけど、野球はグラウンドでやるし、ルール知らないとできないからね、そもそも人が集まらないの」
「……そうなんだ」
確かに昼休み、中庭でドッヂボールをすることはあっても、野球をやってるのは見たこともない。
「敬介君は運動する? 昼休みとか放課後、何してるの?」
「運動は嫌い。でもドッヂはできるから昼休みに誘われたらやってる。放課後は、スイミングか友達と遊ぶかどっちか」
「意外。スイミング通ってるんだ?」
「そう」
正直、あまり上手く泳げないし、行きたくもないけど、母親が海で溺れた時のために泳ぎだけは覚えておけとうるさいから。
「沙紀さんは、普段何してるの」
「ん、あたし? 放課後は……特に何も。部活に入ってるわけでもないし」
「けど、四年生以上って確かみんなクラブに入るんじゃなかったっけ」
「一応入ってるよ、バド部にね。でも、行ってない。どうせ週一だし。ねぇ、次どっち行くの?」
あれこれと話しているうちに知らない場所まで来てしまっていた。基本的にはずっと一本道だけど、たまに右に下りる坂がある。大体団地のどこかに繋がっていると思うけど、来たことがない所まで進んでしまったので保証はできない。
僕は土手の最後を見たかった。
「このまままっすぐ行こう」
そう遠くはなかったはずだが僕が望んでいた場所に辿り着いたのは夕日も暮れようという時間だった。
「ここから先は無理そうだね……」
正確に言うと土手は終わりではなく、隣町方面へ出そうな細いあぜ道が続いてた。だが時間も時間だったし、これ以上進んでも何もなさそうだった。
左手には住宅が何軒か並んでいて、その先に手の加えられていない、殺伐とした木々が生い茂っていた。
「ねぇ、これ見て」
沙紀さんが離れた場所で僕を呼んだ。近寄って手元を見ると、そこにはよく熟した柿が一つ乗せられていた。
「ちょっ、これ、どこから?」
「ほら、そこに山ほど」
何の躊躇いもなく皮ごと食べ出した彼女が指さした木には、確かに幾つか柿が生っているのが見えた。
「この辺の人が育ててるやつじゃ……」
「大丈夫だって。君も食べな、ほら」
軽い身のこなしで塀を上った沙紀さんは柿をもう一つもぎ取り、僕に投げた。
「…………いただきます」
柿はあまり好きじゃないけど、もらって捨てるのも柿に申し訳ない気がしたので、僕も塀に腰を下ろして沈む夕日を眺めながら食べることにした。取れたての柿は、甘みがなくてただただ渋いだけだった。
帰る頃にはすっかり日も暮れていた。実家に戻ると予定より早く迎えに来た父にどこに行っていたんだと叱られた。