Lump of ice【十五夜(突発)企画】 @the other
「アフターも頼むよ」
ソファから立ち上がるなり向けられた台詞。突然の誘いの驚きよりも、職業病ともいえよう猜疑心が勝って思わず眉を寄せる。
「……なにそれ、どういうこと?」
「なにって言葉通りだけど」
しれっと返しながら、彼はコートを手にし通路に出て。
「外で待ってるから」
言い置いて、歩き出す。
その背中を送るあたし――雪菜の手の中で、グラスの氷がからんと鳴った。
「よ、遅かったね」
爽やかな嫌味と共に出迎えられる。店から一歩出たあたしは、遠慮なく彼――田崎眞に向かって鼻を鳴らした。ついでに、予定変更を余儀なくされた腹いせに、文句の一言でも言ってやろうと思っていたのに。
「来ないかと思ってた」
ほんの少しだけ安堵したような表情に、抱いていたはずの怒りが急速に遠のいていく。
「なんでそう思うの」
「いや……」
行こうか、と場を濁すようにつぶやき、勝手に歩き出したその背中を慌てて追う。そうして頬に触れた夜風の冷たさに、季節の様相を感じ取って今更ながら暦に気づいた。
ああ、そういえば。
歩きながらすぐさま空を見上げるが、煌々とした灯りに満ちた都会の夜空は小さくて。それにどうやら雲が広がっているらしく、予想していた淡くやさしげな光などどこにも見えなかった。
ムリだよね、多分。
「見に行こうよ」
諦めを心の中でだけ落とした瞬間、被せられた彼の言葉に「え」と思わず声が漏れる。
「満月をさ。今日は十五夜だろ?」
「見に行くって……一体どこへ行こうって言うのよ」
「まぁいいから」
会話はそれっきり。有無を言わせぬ勢いと、意外と広い歩幅に、後ろをついていくので精一杯になってしまった。
それから10分ほども歩いただろうか。大通りから一歩入った路地の中ほど、とあるバーの年季の入った扉を彼のエスコートでくぐるや、暖かな空気とジャズのリズムに全身を包まれた。
「いらっしゃい」
白髪をひとつに結った男性が声をかけてくる。笑顔の出迎えに片手を上げて応えた彼は、コートを脱ぐなり慣れた様子でカウンターの前に陣取った。
「ほら、雪菜ちゃんも突っ立ってないでこっちにおいでよ」
まったく、自分勝手な上に説明不足も甚だしい。怒りがふつふつと湧いてきたが、店内に満ちる穏やかな雰囲気に、しぶしぶながらも一旦引き下がっておくことにした。
「珍しいねェ、まこっちゃんが彼女を連れてくるなんて」
「まぁね。可愛いこだろ?」
「うんうん。お似合いだねぇ」
にこにこと、まるで親戚のおじいさんのような笑みを向けられて、ばつが悪くなると同時に答えに窮する。肯定も否定も、それすらも言えずにもじもじしていると、彼がちらっとこちらを向いて、小さくそして悪戯っぽく笑った。
「ところでさぁマスター、今夜は十五夜だし、愛しの彼女に『満月』を見せてあげたいんだけど」
「ああ、そういうことかい」
少し待っておいでと言いながら、おもむろにこちらに背を向けて何事かを準備し始める。時折鳴る氷とガラスの音を聞きながら、そっと彼に身を寄せて小声で聞いた。
「『満月』ってなんなの?」
「まぁまぁ。百聞は一見にしかずって言うだろ。見ればわかるから」
「……さぁどうぞ。とっときのを召し上がれ」
体よくはぐらかされたその直後、カウンターに置かれたそれを覗き込んで、あたしは思わず息をのんだ。
「これ……」
ウイスキーのオン・ザ・ロック。けれど真に透き通ったその丸氷は、酒と灯りの琥珀を纏って、まるで本物の満月のように光輝いている。
グラスも、酒も、氷も、すべてが見慣れているものであるはずなのに、なぜか感動が押し寄せて。ゆるゆると溶け出す氷の艶や、アルコールに滲んでいく水紋が、圧倒的な美しさで目に迫ってくる。
「綺麗だろ」
「うん。すごく綺麗」
彼に問われて、素直に答えるしかなかった。容易に触れることのできない美の到達点。間近に見るその世界に思わず手が震える。
「ま、そう恐縮しないで。酒は愉しむためにあるんだから。まずはひとくちどうぞ」
流石というべきか、熟練の合いの手、助け舟にやっと我に返る。意を決してグラスを手に取り、そうして、透明なその向こうに、彼の姿を見つめた。
「乾杯」
ちん、と軽く重ねあわせてから、揺れる琥珀色をこくんと含む。芳醇な香り、深い秋の空気に似た涼感。清々しいそれが喉を潤し、身体に沁みていく。
なんて、贅沢。
思うままに感動し、味わい、満たされる、宵の酔い。
だから、気づけなかった。
「『月』が、綺麗だよね」
彼が放ったそのひとこと。
その表情。
その意味。
そして、漏れ出た本当の――。
【小望月】※20210920掲載
かしかしかし。
午前零時を過ぎた人気のない店内で、なんとも不思議だと雪菜は思った。年代物のスピーカーがジャズを奏でる中だというのに、こんなにも鮮明に、それは耳に届く。
かし、かしかし。かし。
ピックが氷を削ぐリズムが、ただ自分のためだけに刻み続けられていると思えば、こんなに贅沢なこともない。早上がりの足そのままにやってきた行きつけのバー。いつものカウンター席に座り、目を閉じて味わっていたそれが止んだのに合わせ、今度は期待感がじわじわと胸に打ち寄せてきた。
「はい、お待ちどうさま」
目の前に差し出されたロックグラス。きれいに磨かれたその内を覗き見て自然頬が緩む。
「綺麗」
まるで芸術のような匠の一杯。間接照明の効果もあるだろうか。ウイスキーの飴色だけではない、絶妙な陰影をまとった丸氷を前に、否が応にも鼓動が高まって。
「いただきます」
店主の熟練の技に敬意を表し、返される穏やかな笑みを受け取ってからグラスを手に取る。
けれど、気づいた。
「今日も」
かすかな失望と憤懣をやつした目を向けると、店主がふふと笑った。
「ああ、やっぱり気づかれちゃったか」
いたずらめいた表情。同時にその声色からもからかいを覚ってぶっすり膨れた。
「もう! またまんまるじゃない氷だなんて!」
「簡単に見抜かれないようにと、毎回意識してひと欠けさせているつもりなんだが。雪菜ちゃんは目がいいねぇ」
「意識してって、それなおさらタチ悪いですからッ! なんだってわざわざそんな手間をかけた真似を」
ブーッと口を尖らせて抗議すると、店主が苦く笑ってからゆっくりとこちらに背を向けた。おもむろにケースから新たな氷を取り出して、ピックを手に取る。
「写し取っているつもりだよ」
かし、かしかし。
そうして背中の向こうで再び始まった作業。
「写し取るって、何を」
聞いてしまってから数呼吸の後、まさかと考え至り、途端恥ずかしくなる。
「女性の繊細な心理は、僕には到底考えも及ばないものだけれど……それでも、ね」
語末が氷を削ぐ音に成り代わる。規則的に続けられるそれを聞きながら、雪菜は唇を引き結んで手元に視線を落とし、グラスを少し傾けた。
からん、と中で鳴った小望月。
これが『写し取られた自分の姿』なのだとしたら、とゆるゆる溶け出してゆく波紋を見つめながら、己の内をひとときかえりみる。
わざわざ日を選んでここへ来るのも。
最近なかなか減らなくなったキープボトルから、一晩のうちに何度も注ぎ続けてもらっているのも。
そのすべては。
次ぐ結論がほろりと出てしまいそうになり、慌ててグラスを持ち上げて一口飲む。味などさっぱりわからず勿体なかったが、ともかく『封じた』という気持ちが勝ってほっとした。
これでいい、きっと。そう心の中で重ねてから、続けざまにもう一口含んで、今度こそ風味を意識する。
「美味しい」
本心からつぶやくと、そうかい、と返してきた店主が棚からグラスを取り出しているのが目に入った。三口目を含みつつ、何気なくその動きを追いながらやがて気づく。いつの間にか止んでいた削る音。グラスに落とされたその形にはっとして目を見開いた。
「満月」
どうしてと思わず口にすると、店主がゆったりとこちらを向き、カウンターの内側に置いていた瓶を手に取って見せてきた。
「これで最後だからね」
先程自分のグラスに注いだそれを軽く振るなり、新しく用意したグラスにゆっくりと口を近づけて、中空から琥珀の糸を引く。滑らかに成形された氷の表面を滑ってゆくウイスキーが、ことのほか美しく光を引いて見え、瓶の中身が減るごとになぜか鼓動が高まっていった。
「お待ちどうさま」
やがて完成した一杯が差し出される。今はまだ空のままの、自分の隣の席に。
「雪菜ちゃん」
ふたつのグラスの間、空になったボトルが静かに置かれる。
「次、どうする?」
初めてこの店に連れて来られた時、彼と『共同名義』で入れたそれを見つめながら、答えを返せず口をつぐんだ。
「本当は、わかっているんじゃないのかい?」
それとは言わずも、促し背を押すような声色。やはりお見通しかと半ば観念して目線を上げた直後。
からん。
突如店の入り口でベルの音が響き、思わずそちらを振り返る。
「いらっしゃい」
開かれた扉と、そこから入ってきた人物。久しぶりに見えた姿に驚き、言葉を失うばかりの背後から、待っていたと言わんばかりの陽気な声が放たれた。
「素知らぬフリなんて、せいぜい一本分が限度なんだよ」