これから死ぬ者
フィクションですが、未来がこうならないことを願います。
明るい店内には陽気な音楽が流れている。都内のハンバーガーのチェーン店。その店のなかでひとりの男の前で書類を確認している。
こんなところで堂々とテロの話をしてると知る者はいない。
これで全て揃ったはずだ。
必要な書類は全て。
もはや何も感情は動かない。怒りも悲しみも、全てが通りすぎた後。
ただ、虚ろな疲労感だけがある。
目の前の男は整った顔立ちの若い人物。鼻が高く、日本人では無いという。アジアのとある国の出身だと言っていた。
それが本当かどうかは解らない。私にはそれを調べる方法は無い。私にはそれを信じるしかできない。
そう、私にはなにもできない。
私には何もできなかった。
ビジネススーツを着た男は涼しい顔に人の良さそうな笑顔を浮かべて、テーブルの上の書類を確認している。
アイスコーヒーを一口飲み、口を開く。
「はい、これで全て揃いました。あとはあなたが結果を出すだけです」
「ようやく、終わりましたか」
「はい、これで準備は整いました」
テーブルの上の書類を見る。これが、こんなものが私の価値か。これが私よりも価値があるのか。
私もアイスコーヒーに口をつける。乾いた唇を潤して、声を出す。
「妻と、娘は」
「ご安心下さい。あなたの生命保険、これだけの金額があれば、あなたのご家族は私の国で裕福に暮らせます。私の国の生活は日本より不便でしょうが、日本より物価は安いので」
「あとは私が死ぬだけですね」
「成功をお祈りします」
彼の宗教は解らない。彼がどの神に祈ったのかも知らない。
私が何に祈ればいいのかも解らない。
それはどうでもいいことなのだろう。
私の命や人生もまた、どうでもいいことのように。
会社をリストラされて次の就職先が見つからない。同じ悩みを持つ日本人はいることだろう。
私が運が良かったのか、運が悪かったのか。もはや選択肢の無いところまで来た今では、それもどうでもいいことなのだろう。
ただ、疲れた。
疲れはてた。
40を過ぎれば何処にも私を雇ってくれるところは無かった。日本にはそんな会社は無いのか、有っても仕事運の無い私には見つけられないのか。
無職の人間に働けと言う人は多いが。
派遣会社をいくつも登録しても、募集している仕事にいくつも応募しても、私を雇ってくれるところは無い。
牛丼屋、ハンバーガー店、ラーメン店、アルバイト募集の張り紙のあるところに行っても、面接で落とされた。
妻と娘に会わせる顔が無い。
そんなときにこの男に会った。
会って良かったのか、会って悪かったのか。
「簡単にお金が稼げる方法がありますよ」
できてしまえば簡単なのだろう。
私がこの先、働いて稼ぐよりも、生命保険をかけて死んだほうが稼げるのだから。
そのほうが妻と娘に財産を残せるのだから。
「そのついでに私を手伝っていただければいいのです」
とある会社のビルで自爆テロを起こす。それでこの男は利益になるのだという。
「これであなたの復讐心が満足できれば、なお良いのではないですか?」
自爆テロの標的、その会社は私をリストラした会社の親会社だった。
問題は私がテロを起こした後、家族の世間体のことだ。
「アメリカの同盟国の日本は、これからテロが増えます。税金も上がり物価も地価も高いまま。子供の教育に熱心な日本人はグリーンカードを購入し、海外で子育てをしています。日本の教育は時代遅れ、日本の学校に通っていては世界に通用する人物になれませんよ」
仕事一筋で生きてきた。娘は今、小学生だ。娘から学校の話を聞いたことは無い。
日本の学校はそんなことになっているのか。
「あなたが自爆テロを起こす前に引っ越しをしましょう。私の国で働き口が見つかった、ということにして」
「よろしくお願いします」
妻と娘だけでも、金に困らない生活を。
「あと、これをどうぞ」
「これは?」
「コピーですけど、ガスボンベを使った爆発物の作り方です。中東のテロリストがメールマガジンで配信しているものですが、日本向けのものです」
「日本向けの爆発物の作り方、ですか」
「日本ではボンベの管理が甘くて年間で何本も行方不明になってますから、それを利用するものですね」
「そんなに無くなってるんですか?」
「増水した川に流されることが多いそうですよ」
テロなど自分の人生には縁の無いものだと思っていた。それが自分が自爆テロをすることになるとは。
「あなたは何も悪くはありません。悪いのはあなたが生きていけないこの社会の方なのです。人が生きていくために本当はなにが必要なのか、あなたの行動がそれを考える切っ掛けになるでしょう。あなたのすることが未来の日本を救うことに繋がるのです」
「私は日本の未来なんて、どうでもいいですよ。妻と娘がこれから暮らすのも日本では無いのですから」
「ご家族のことは私が責任持って段取りをつけます。ご安心下さい」
私にはこの男の他に頼るものは無い。
信じるとか信じないとかは関係無い。
騙されていても、他にすがるものは無い。
だから、
「いろいろとありがとうございました。どうか妻と娘を、よろしくお願いします」
爆発物の作り方をプリントした用紙をバッグに入れる。
これから爆弾を作って自爆テロ、か。
だがこれで妻と娘が幸せに生きられるなら。妻と娘が金に困らない生活ができるなら。
今はそれを信じよう。
それしか信じるものが無い。
もう疲れた。
生きるのに疲れた。
歩くことにも、息をすることにも、
疲れはてた。
解放されたい。
地獄も天国もあるのだろう。
ただこの世界は地獄の更にひとつ下にあるから。
地獄へ行くための準備をする世界だから。
ここで罪を犯して業を重ねることで、
ここよりマシな地獄へと行くことができるのだろう。
こんな思いで行き続けるよりは、
地獄で暮らす方がいい。