ユー・ニード・サム・プラクティス(You need some practice) #1
コール・フロム・ビヨンド#2から続いてます。
邦題『アナタにはもっと練習が必要』
ケネルコフ王国の文化レベルは中世程度で低めである。更に国民の娯楽が少なく避妊の知識に疎いので、女性の出産数は多い。しかし多産傾向であっても医学が未発達なので妊産婦死亡率も乳幼児死亡率も高い。
平民なら3、4人子供を儲けても成人したら1人しか残らなかった、というような事例を探せば枚挙に暇がない。なので王侯貴族や豪商などの絶対に跡取りが必要な立場の当主は、第2夫人、第3夫人辺りまで娶り、子の夭逝を用心して子沢山になることは珍しくない。
宮廷魔術士見習いであるエリエルの実家は、父親が男爵位を賜っているので一応は下流の貴族だが、家筋としてはもう完全に零落していて酷く貧乏である。領地を持たず、当主は公務を与えられてないので、収入は国から支給される年300万ファンの俸禄だけである。
要するにエリエルの父親は無能なのである。魔術の才能がない。更に練習する努力を厭う人間なので剣術の腕も水準よりかなり下。勉強も苦手だったので文官としての能力も皆無。だから国の要職どころか末端の役職すらも与えられていない。
その割に気位だけは高い。自分は高貴な血統であり平民どもとは違うという選民意識に強く毒されている。収入が少ないのに、貴族としての見栄だけの為に無駄金を浪費することも多い。全く救いようのない、どうしようもない腐れ貴族の典型である。
兄弟姉妹は女男女の順で3人、エリエルが末娘になる。母親はエリエルを産んだ後、産後の肥立ちが悪くて他界した。一番上の姉は、14歳になると結納金目当ての父親に豪商の3男坊へと嫁がされた。嫡男である兄は今現在14歳で、来年に成人する。
兄が成人するまでは、エリエルも嫡男に万が一があった場合に備えての予備の嫡出子という立場で扱われているが、兄が成人後は何かしらの見返り目当てで、現時点では顔も知らない中流程度の貴族の側室に出されたり、豪商の下へと嫁がされるのは目に見えていた。
当主である父親の思考原理には、貴族としての家筋を絶やさないことが大前提にあった。子は親が好きに動かせるコマ程度の認識である。嫡男である兄は跡取りとして大事にするが、末娘であるエリエルなどは実際、売却用の資産程度にしか考えられていなかった。
エリエルは自分が大切であり、家門の──父親の手駒に扱われる気は毛頭なかった。正直、落魄れ果てた現状で男爵位の後継に腐心する意味が全く持って不明であり、恋愛感情もない相手と縁故の為に婚姻を結ばれ、滅私の強要で人生を犠牲になど真平ゴメンである。
自分の人生くらい自分の自由に生きたい。エリエルは8歳の頃には茫漠とだが、早く独り立ちして家筋とは縁を切らねば、と将来に向けての志が概ね固まっていた。幸運なことに、買えば高価な入門用の魔術テキストが、家には一冊だけだが最初からあった。
魔術士としての才がある子が産まれたら、と父親に嫁ぐ時に母親が実家から嫁入り道具の一つとして持ってきたものらしい。母は一番上の姉が4歳の時に鬼籍に入ったので、それが役立ったか否かの結果を知り得ないのだが、実際母の愛は報われていた。
エリエルにとってこの書は至上の救いとなった。エリエルはこれを頼りに独学で魔術の基礎をマスターし、放出系魔術を使い熟せる業前にまで到達した。これがエリエルが立身するのを大いに助ける武器になった。
そのお陰で12歳の時、見習いとしてだが宮廷魔術士の採用試験を受けて見事合格を勝ち取る。その後、実家からの通いにしろという父親の要求を跳ね除けて寄宿舎に入舎し、独立の足掛かりを作ることに成功する。
見習いの宮廷魔術士の給料は月8万ファン。僅かな金額だが、寄宿舎の部屋代は無料であり、朝晩の食事もついているので、取り敢えずの生活には困らない。質素倹約を心掛けて生活すれば、将来自分の住家を入手する時に備えての資金は充分に貯蓄可能である。
父親は、給金は可能な限り実家に入れろと要求したが、エリエルは無視した。いずれ正規の宮廷魔術士となって高給を得るようになったら、育てて貰った分の恩返しに幾らか纏まった額を手切れ金代わりに父親に渡すことは考えているが、それは未だ先の話だった。
兎に角、これで自分は人生の自由を勝ち取ったとエリエルはほっ、と安堵の一息を吐いた。頑張って修練して一流の魔術の達人になるんだ、と意気込んだ。しかし突然、魔術士長のイカーリアから「異世界からのお客人の面倒を頼む」と世話係に任命されてしまう。
「異世界から御座らっしゃったヒラサカ殿は、女色好みの性豪らしく、殊に幼い女児とのお戯れがお望みのようだ。エリエルよ、御仁の身の廻りの世話は全てお前に委ねる。勿論、望まれれば下の世話も頼む。旨く持て成すのだ。くれぐれも機嫌を損ねぬようにな」
人身御供めいた任務をイカーリアに命じられて、エリエルは折角家門の因習から逃れられたのに、これでは豪商に嫁がされるのが接客婦の立場に変更されただけで状況は全く好転でないと落胆した。薄幸な自分に不運から逃れる術はないのだろうか? と落ち込む。
若干救いがあるとすれば、件の異世界人は魔術の大達人らしいので、運良く気に入られればインストラクションを授けて貰えるかも知れないという期待だった。当人に会ってないので何ともいえないが。招集直後に騎士を2人殺害したという話には不安を感じたが。
「……アッ、ドーモ、魔術士見習いのエリエルです」そうしてエリエルは黒尽くめの魔術士・比良坂千迅と初顔合わせをすることになった。貌立ちは整っているが何処か得体の知れない薄気味悪さを感じる不吉な存在。それがエリエルが千迅に抱いた第一印象だった。
エリエルはイカーリアに指定された宿屋へと千迅を導いた。これから千迅と一緒に、この宿屋に暫くの長逗留となる予定である。宿の部屋は4人部屋を押さえたらしく、2人で利用する分には充分に広かった。なのに手持ちの荷物はエリエルのカバンが一つだけだった。
「呼び捨てで悪いが……エリエルだったね?」「アッ、ハイ!」唐突に千迅から名前を確認されてエリエルは喫驚する。「ん? 緊張してるのか。そう固くなるな。変事の時、咄嗟に反応できないぞ。もうちょいと気楽に構えて欲しいな」「ハ、ハイ。努力します」
「努力する程のものでも無いと思うがな。……で。君は、魔術はどの程度使える?」「えっ魔術ですか。……その、基本的な身体強化と簡単な放出系……火球の撃ち出しくらいですか」「ふむ。とすると、この部屋のノミ・ダニ駆除を君に任せるのは……無理かな?」
「……ヘ? ノミ・ダニ駆除……を魔術でですか?」エリエルは唖然とした。正直どういう距離感で接すればいいのか未だ掴めていない魔術士に行き成り、生活系魔術の一種なのか、害虫退治を出来るか問われて、こんな場合にどういう反応を返すべきか戸惑ったのだ。
「こういう不特定多数の人間が入れ代わり立ち代わり利用する宿屋の部屋ってのは、一見掃除が行き届いているように見えてもその実はかなり汚れてるし、ノミ・ダニも沢山棲息してるものなんだ。私は利用する前には念の為に自主的に駆除を行う主義なんだよ」
「ハ……ハァ。ノミは、わたしの寄宿舎の部屋にも出ますね。この部屋にも出ると思いますし、駆除……そうですね、刺されると嫌ですから出来たらいいのですが、ごめんなさい。殺虫魔術……ですか、その系統の魔術は憶えてなくて使えません。まだまだ未熟なので」
「殺虫系? ああ民間呪術にあったなそういうの。別にノミ・ダニ駆除なんて温度操作で充分なんだが。取り敢えず、私が処理しよう。君も部屋は清潔な方がいいだろう」薄く笑みを浮かべながら千迅はエリエルに「一先ず部屋の外へ」と促した。
両人が廊下に出た後、部屋を閉め切った状態にする。「室内の空調を、温度は70度、湿度は……無調整で、と。……設定はこんなものか。序にオゾンも発生させるか、濃度は10ppm程度にしとこう。今誰か迂闊に中に入ったら昏睡か、不運だと死ぬ危険性があるな」
不法侵入=死か、千迅がブツブツ呟いて程なく、ドアの隙間から少しツンとなる刺激のある臭気がエリエルの鼻をついた。「よし、準備完了。これで3時間も放置しとけば、害虫だけでなく部屋に染み付いた汚臭もすっきりだ」千迅が一仕事終えたという表情を作る。
「あ……あの、無詠唱で魔術を施行なさったのですか?」エリエルは唖然とした表情で千迅に尋ねた。魔術発動体媒体の杖を持たず呪文詠唱すら行わずに魔術を実践する魔術士など見たことがなかった。魔術士長の無詠唱魔術を見たことはあるが、使う時に杖は構えた。
「ああ、処理は終了したよ。イメージさえ固まるなら、呪文や祈祷文の補助無しでも魔術は使える。というか、でなければ術の発動が遅くて実戦で全く役に立たんだろ。殊に、私はソロで動くことが多いからな。そういう魔術士は、無詠唱が出来ないと死活問題だ」
「す、凄いです」千迅の説明にエリエルは目を丸くした。「まあ物心ついた頃から父親に魔術の基本を叩き込まれて、私自体が魔道に興味を持って追究に手を染めてからもう長いからな」千迅はよもやま話のように語った。表情に、やや自嘲めいた色を浮かべながら。
エリエルの表情が憧憬を浮かべつつも、眼差だけが真剣なものに変化する。そして怖々とではあるが意を決したように千迅に訊いた。「あ、あの……。図々しいと思うんですが、その……暇な時間があれば、未熟なわたしに魔術の指導をして貰えませんでしょうか?」
「ん? それは私に弟子入りしたい、みたいな意味なのか?」千迅が興味を示したのをこれ幸いと、エリエルは大きく頷いた。「はい!」千迅は少し考えて返答した。「別に構わんよ。元の世界で弟子をとったことないからな。育成ゲーム気分で、中々気を唆られる」
「じゃあ、弟子にして頂けるんですね! 嬉しい。有難う御座います」エリエルは感謝の気持ちを込めて勢い良くオジギした。娼婦扱いされる可能性は未だ残るが、少なくとも魔術を個人指導で教えてくれる優秀な師匠に巡り逢えたのは、非常に僥倖であった。
「魔術講義か、悪くないな。この部屋が使えるようになったら、早速始めるか。……が、室内のオゾンが分解して人体に無害な濃度になるまで3時間は掛かる設定にしたから、それまでの時間潰しがてら観光気分で市街を見学したいのだが、案内を頼めるかい?」
千迅が俗っぽい希望を口にすると、エリエルは上機嫌で元気な声を上げた。「はい! 悦んで案内させて貰います!」エリエルが、千迅に対して最初に持っていた心の距離感は一気にかなり縮まったようである。
----------
近場で名所と呼ばれるような場所を余り知らないエリエルは、取り敢えず千迅を、沢山の露店が立ち並ぶ市場通りに案内した。ここならば様々な物品が販売されているので、見て廻るだけでもそれなりに愉しめるのでは、と考えてのことだ。
大通りに沿った露店市場には、串焼きの店、清涼飲料の店、果物の店、乾物の店……等の飲食物を扱う露店が多かった。その他には、アクセサリーや工芸品を売る店、古着屋、古道具屋、中古品らしい武器や防具を売る店等が並んでいる。
道具系では値段の安い中古品を扱う店が多いのは、客層の殆どを庶民が占めるからなのだろう。冷やかしも含めて、日用品の買い出しをする者、掘り出し物を目当てに探し歩いている者。大勢の客たちが、何かを求めて通りをあちこちへと彷徨し、犇めいていた。
「ほう、結構な人混みだな。日曜日の秋葉原みたいだ」雑踏を眺めた千迅がエリエルの知る由のない地名を呟いた。「? ここに来れば、欲しいものは大体何でも手に入るっていわれてます。……お金があれば、の話ですけど」エリエルが市場通りの風評を説明する。
「ふうん。珍しい酒かタバコでも目に付けば、買って帰るか。……そうだ。エリエル、何か欲しい物が在ったら君にも買ってやるぞ」「えっ! わたしにも何か買って貰えるんですか?」真逆の予想外の提言に、エリエルは唖然となった。
「私の世界では今となっては文庫本でも手に入る魔術書を、魔術士長殿に高く買って貰ったからな。懐は温かい。欲しい物があればいいなさい。取り敢えず、ローブとかどうだい? その宮廷魔術士見習いのお仕着せは、街頭歩くとどうにも目立って宜しくない」
市場通りを歩く両名は、群衆の好奇の眼差しに晒されていた。それはエリエルが宮廷魔術士見習いのお仕着せを着て歩いているのもあるが、イギリス仕立の高級な作りの黒背広に黒コートという、上物で異質な衣服を身に纏って歩く千迅の方により原因は在った。
人外めいた東洋系の美貌に屍人の如き白皙。黒髪黒目というのもこの辺りでは珍しいが、更に平均的身長がそう高くないこの世界の住人の中で175センチという千迅の長身は、群衆の中で頭一つ分は軽く突き抜けており、どうしても他人の興味を唆る。
「えっ、ローブ買って貰えるんですか!」「弟子へのプレゼントだ」「わたし貧乏なので凄く嬉しいですけど。……でも、人の視線が集中する原因は、わたしのローブだけではない気もしますけど……」目立つ元凶は師匠です、といいたいのをエリエルは我慢した。
「これは中々の出物だな。これでどうだ?」中古の武器防具を売っている露店で、千迅がデザート迷彩の軍用めいたローブを見つける。それは魔術的付与が掛かり実戦向きな作りをしている。頑強で破れ難く、防御力も貧相な布の見習いのお仕着せよりかなり高い。
「あの……30万フォン(日本円¥30万相当)って値札ついてますけど。わたしの給金の4ヶ月分近いお値段しますけど」千迅が推奨したローブの値段を見て固まるエリエル。幾ら弟子になったとはいえ、入門の初日に師匠に買い与えて貰う額の品物ではない気がする。
「安物なんか買っても役に立たん。最低でもこのクラスは必要だろう。殊に私の付き人やるのなら、この先物騒なトラブルに巻き込まれる可能性は高い。これくらいの防具くらいは装備しておかないとな。……よし、これを貰おう」千迅はそれを即購入した。
金貨3枚を惜しげもなく店主に支払うと、品物を受取り、それをエリエルに直ぐに着替えろと手渡した。別にローブの交換くらい何処でも大丈夫だが、露店の店主がテントの裏でどうぞと、着替え場所を貸してくれた。30万フォンを使った客へのサービスらしい。
促されるままに早速着替えたエリエルは、少し大きめの迷彩ローブを身に纏い、駱駝騎兵か馬賊めいた風体になっていた。市場通りでは非常に浮いている服装である。宮廷魔術士見習いのローブを着ていた時より悪い意味で更に目立っている気がする。
「いいじゃないか。前より見た目が強そうになった。特殊部隊っぽくて」エリエルの迷彩ローブ姿を見た千迅は嬉々としている。何処かの特務機関に所属する女性兵士めいたコスプレに見えて、千迅の趣味に嵌っている。この手の格好の女の娘を見るのは好きだった。
その後、迷彩ローブ姿で以前より衆目を惹くようになったエリエルと一緒に、千迅は市場通りをブラブラと歩いて、酒や葉巻を販売する露店を見つける度に次々と何種類も買い込んだ。買った側から自分の固有空間に放り込んでいくので、手荷物は増えなかったが。
酒瓶を100本程度、葉巻を少なくとも1000本は購入し、千迅は150万フォンほどその2種類の買い物で散財した。充分に嗜好品の買い溜めを済ませ、時間も頃合いだしそろそろ宿屋に戻ろうか、ということになる。
しかし、帰路に着く千迅とエリエルの後を、こっそりと尾行する4人組の男たちの姿が在った。それは、市場通りでの千迅の湯水のような浪費を見て、かなりの金持ちのようだし、女2人なら奪うのは簡単だろうとアタリをつけた物取り集団であった。
ユー・ニード・サム・プラクティス#2へ続きます。