第五十話
考えた。クロリアの魔法が俺の命を狙っているように見えるが実際には酒瓶だけを狙っていると気づいてから、逃げ続けながら必死で考えた。
クロリアは姉が好きだ。同じように姉である魔王もまた、クロリアのことを大事に思っている。そんな彼女が、飲んだだけで大事な妹の心乱されるものをひょいっと渡すか。
答えは否。断じて否だ。
しかしクロリアの取り乱しようをみるに、悪魔の薬酒の威力はたんなるふかしとも思えない。
だとしたら、どんな可能性があり得る?
一、悪魔の薬酒に使われたのはクロリアのよだれじゃない。
魔王は手軽に渡すだろう。身内のものでないのなら、出し惜しみをする必要もあるまい。
けれど、ならクロリアはここまで取り乱すだろうか?
やはり疑わしい。一は違う。
ならば、二。
クロリアのよだれだが、飲んでも効果がない。
これならどうだ?
事実、魔王は言っていたじゃないか。試しに飲んでみた、と。最初に飲んだら後は問題ないそうだ。ならば魔王が飲んだ時点で、この薬酒にクロリアのよだれが使われていたならもはや効果はない。
だとして、こんな簡単な事実で俺より知恵者のクロリアが取り乱すか? 気づかないはずがあるのか?
怪しい。可能性がないとは言わないが、さりとて採用するほど信憑性があるわけでもない。
仮に、もし。もし魔王が女性だから効果がなくて、次に男性が飲んだら効果が出るとしたら?クロリアが取り乱すのは理解できる。
だとしたら現状、思いつく解法は一つ。
「クロリア! 俺は飲まないから!」
「他の誰かが飲まない保証はない! いいから渡せ! 蒸発させてやる!」
怒鳴るクロリアの怒りは本物だ。焦りも。
それゆえに攻め手が直線すぎる。闇の炎は線となって俺の酒瓶を狙うだけだ。
範囲で狙わないあたり、俺を殺すという発言はふかしだ。姉よりもわかりやすくてほっとする。
「それはだめだ! 破壊神に飲ませたい!」
「たとえ破壊神が女だとしても万が一、私のよだれだとしたら看過することはできない!」
いいからそれをよこせえええ、と怒鳴る元魔王の言葉に思わず全力で飛んだ。
今までよりも巨大な炎がビルの屋上を焼き払う。
けれどそれすら線でしかない。
ほっとしながらクロリアを見たら、両手を俺に突きつけていた。その目が洒落じゃ済まないレベルで血走っている。
あかんこれ。
やばい。下手に飛んじゃったもんだから、軌道修正ができない。
クロリアが自棄になった者特有のタガの外れた笑みを浮かべる。
「消え去れ――……!」
いやいやいや! ちょっとした冗談で揺らがされていきなり瀕死の状況って、そんな!
待って! 迫る極大の炎に叫ぼうとした俺の眼前で光が弾けた。
「バリエイレ!」
見慣れた背中がすぐそばにある。前にかざした手から放つ光の障壁で黒炎を完全に防ぎきった。その頼もしさに震えながら叫ぶ。
「クルル!」
「帰りが遅いから様子みにきたよ」
落ちる俺の手を掴み、完全にクロリアの魔法を防ぎきったクルルがビルに降り立つ。
割と全力だったのか、クロリアは息が上がった状態でその場に屈んだ。
「く、そ……また、またお前が邪魔するのか」
「いやいや。最初の旅のことをいまさら言われても。っていうか二人とも、なにやってんの?」
あきれた顔をするクルルにクロリアは説明を放棄してか大の字に寝転がった。
しょうがないので俺が説明すると、クルルは本当に不思議そうな顔をして言うのだ。
「あのさ。魔王かクラリスさまに効果があるのかどうか聞くか、調べてもらえば済むんじゃん?」
「「 あ 」」
あっけに取られた俺たちを見て、クルルはふっと笑った。
「まったく。なにやってるのかな。ばかなタカユキだよ」
おでこをつんと人差し指でつついてから、俺にだけ聞こえるような小声で囁いた。
そこが大好きなんだけど、と。
◆
俺たちのケンカを見送った魔王の元にまずは戻る。
涼しい顔をして老執事が出すお茶を楽しんでいた魔王は、戻ってきた俺たちを見て「なんだ、もう終わったのか」と言うんだからたまらない。
やっぱりこの人どこまでいっても魔王だ。
「真偽を聞きに来たのか? それとも効果の有無を尋ねに来たか? ……ああ、両方か」
「姉上……」
「クロリア、たるんでいるぞ。一国の舵取りを担う者としてはまだまだ未熟だな。少しは頭が冷えたか?」
「……あなたはずっと私に厳しい」
「そうでもないぞ? 家庭の中では私がお前に一番優しい」
クロリアのなじりにさえ優雅に微笑む魔王は、まるで揺さぶられる気配なし。
「真偽からいこう。クロリアの唾液だよ。証拠の写真を見せようか?」
ソファに身体を預ける魔王の余裕っぷりを見て、俺はその必要はないと感じたのだが。
「出して」
クロリアの言葉に魔王は襟元から服の中に手を入れ、豊かな胸の谷間から一枚の写真を取り出した。テーブルに投げられた写真には確かに映っていた。
ぬいぐるみだらけのベッドで幸せそうに眠るクロリアの唾液を採取する魔王が。片手には俺の持っている酒瓶が握られている。
「……他にも写真、あるんだろ?」
「いいだろう」
またしても胸の谷間から写真が出てくる。
魔王が酒瓶に悪魔の薬とおぼしき液体を注ぐところ。それにグラスに液体を注ぐところ。そしてそれを飲み干すところもだ。
……なんていうか。残念な光景だ。姉よ、妹になにしてん。
「……」
ほら。クロリア黙っちゃったでしょ。ちょっと涙目でぷるぷる震えてるよ!
賢いけど、魔王にまで上り詰めたけど、この子はペロリとほとんど同い年なんだから!
「いろいろ言いたいことはあるけど、魔界じゃこれが普通なのか?」
なんともいえない顔をしているクルルに背中の布地を摘ままれて、俺は思わず言ったさ。
すると魔王は涼しい顔で答えたよ。
「その通りだ。強くなければ生きていけない。寝首を掻かれて殺される。悪魔の薬酒なんて厄介なものを発明したご先祖に文句の一つも言いたい」
普通なら怒鳴るだろう。なじるだろう。頭に血を上らせて、俺の仲間に何をすると。
実際、薬を渡す流れはクロリアの背筋を正すためだとしても、俺はどうかと思うから。
でも、だからこそ冷静になれ。深呼吸をして、整理しろ。
きっとそれこそがクロリアが普段していることだから。彼女がきつくて心が折れそうなら、俺が代わりにやるんだ。
頭を冷やしてから尋ねる。
「アンタが飲んで効果が消えれば、今後クロリアのよだれで悪魔の薬酒を作ってももう妹に危害はないと?」
俺の問い掛けに魔王の表情から笑みが消えた。代わりに老執事が愉快そうに笑う。
「ほほ。これはお嬢さま、一本取られましたな」
「……勇者。なぜそう思う? 私はそんなことを言った覚えはないが」
俯くクロリアの頭に手を置いて、俺は魔王を見つめた。
「先祖に文句を言いたいんだろ? そして薬酒は最初に飲んだ者に効果を発揮する。そして誰よりあんたが最初に飲んだ。身内を守りたかったからだと……妹想いのアンタならそうするだろうと素直に感じただけだ」
クロリアが顔を上げた。
「……姉上?」
魔王は足を組み、膝上に手を置いて言ったよ。
「効果はもはやない。まあ、力はつくかもしれないがね。今の薬酒には、魔王の心を奪う効果があるかについては――……正直、わからない」
「え……」
クロリアが不安げな顔をした。
「たぶんないと思う。母に飲ませ、次に乳母に試した。効果は出なかった」
深呼吸をする魔王のたわわが上下する。思わず見つめた俺の尻がクルルにめいっぱいつねられました。
「よだれで男女に効果の差が出るとは思えない。愛情の差など関係ない。過去の文献を漁る限りはな。結論、恐らく男が飲んでもクロリアが惚れることはないだろう」
「ただし、試したことはない」
クルルの言葉に魔王が初めて深いため息を吐いた。
「……その通り。クロリアが気を許せる相手でしか試せない。とはいえ……不定期にあらわれる破壊神が好むとあれば、下手に処分もできなくてな」
むしろピンポイントで作って置いてくれて助かった。
「勇者なら勝手に飲んだりせず、奪われる下手もうたないと信じた。さて、クロリア。お前はどうしたい?」
「……、」
「破壊神が出た、とはピジョウで噂を聞いている。情報の管理が行き届いていないぞ」
しょげそうになるクロリアを見ていられなくて、手を握った。
どうも魔王は強くて厳しい。
クロリアの聡明さなどは、それに抗うために得たものなのかと考えるほどに。
「おおかた、怒りを感じながらも私にぶつけることさえお前に配慮して控えるお優しい勇者のことだ。和解を考えているのだろう? ならば……その酒の有用性は確かだ。ただし、不安なのは」
「……私への、影響」
「破壊神に惚れる可能性。それとも勇者で試して惚れる可能性。二者択一、答えは一つだ。どうする?」
葛藤させるなあ。俺限定にしてきたのも意図的だ。
クロリアの顔が厳しく強ばる。言い返せるはずだ。俺たちの知るクロリアなら。
なのに彼女は拳を握りしめて黙っている。
「なあ、クロリア……人間世界でいやというほど迷ったのだろう? お前の弱点は一つ。優しさ故に決断できないことだ。決めろ。決断こそが未来へ進む一歩になる」
「……姉上」
「誰に何を遠慮する? 勇者が嫌いか?」
息を詰まらせるクロリアを、容赦のない姉が追い詰める。
口を開こうとした魔王にクロリアが耐えきれずに言葉を発した。
「遠慮、してなどは……嫌いでも、ないし」
「そうだろうとも」
重々しく頷くから、いまだクロリアは魔王の手のひらの上にいる。
クルルが後ろで床を叩く。つまさきが刻むリズムが何を意味しているのか、今更考えるまでもない。仲間がいいようにやられてるのになにをだまっているの、とお怒りなのだ。
「待ってくれ、魔王。惚れるかどうかなんて、クロリアにはまだ早いだろ」
「黙っていろ、人間世界の幼女に手を出したお前に出る幕はない」
「うぐう」
瞬殺でした。
「……考えさせてくれ」
「そうするといい。ただしピジョウに戻ってな。あとは好きにしろ……そこのウサギがいれば一瞬で戻れるのだろう?」
訂正。
俺たちすら手のひらの上かもしれない。
「何か要求があれば伝えてこい。改良が必要なら相談に乗る。だが味は保証しないからな」
言うだけ言う魔王との話し合いで感じた圧力に立ち向かうには、俺たちにはまだまだ訓練が必要なのかもしれない。
耐えきれないとばかりにクルルが俺とクロリアの背中に触れた。すぐに転移する。
消える間際、一瞬だけ魔王が浮かべた痛みを堪える顔こそが、彼女の本心なのかもしれなかった。そう思った時にはもはや、俺は彼女に尋ねる機会を失っていたのだが。
つづく。




