第十話
見る見るうちにハルブが機能を取り戻していく。
クラリスの手腕は見事だし、ジャックとリコ、何よりアメリアの求心力は凄い。
三日が過ぎた頃には復興と漁が開始されていた。
海に出る船を見送る。アメリアに頼んだのだ。海を挟んで北にある島国ルーミリア帝国の手前に巨大な海蛇が出るかどうか確認してもらいたかった。
前回の旅ではかなり巨大な敵だったからな。どう倒したのかは最初の物語を見てもらうとして。
宿に戻りながら考えた。
俺たちにとって問題は二つある。
一つはクルルだ。発情の呪いをどうにかして魔法を自由に扱えるようになり、天使の力を引き出す術を手に入れないと、クロリアとの対決で俺たちに勝利はない。
もう一つはコハナだ。言うまでもないが、彼女の存在がクルルの天使化に大きく関わっている。
じゃあ今すぐ記憶を戻せばいいのか。
眠りについたコハナの寝室の扉をみて、ため息を吐く。
元のコハナに戻ってもらうことは即ち、今の異世界から召喚されたばかりの彼女が体験したつらく苦しく長い経験を取り戻してもらうことになる。
それはコハナにとって幸せなことなのだろうか。俺のエゴでしかないのか。
これまでも考えられることだったけれど、でもこれまでと明らかに違うことがある。
思い出す内容は幸せなモノばかりではあり得ない、ということだ。
◆
食堂で正直にすべてを相談した時、クルルは言った。
「選んでもらったら? どっちがいいか……全部話してさ。どうしたってこの世界で生きていくしかないなら、どうありたいのかって話でしかないもん」
「……わたくしは、今のままでもいいかと思います。わたくしたちの知るコハナから昔の話を聞いたことがない、ということは……彼女は秘密にしておきたかったことではないかと、思います」
俺に配慮したいけど、でも言わずにはいられなかったのだろう。クラリスは沈痛な面持ちだった。
「……わふ。ルカルーは触れてしまった方がいいと思う。今の状態は敵の思うつぼだ。コハナの弱いところをさらけ出させて、ルカルーたちの群れを揺さぶってきている。放置するのはまずい。未来の……みなが知るコハナに委ねるべきだ」
ルカルーの言葉もわかる。コハナを心から案じるクラリスの言葉は優しい。けれどルカルーの言葉は現実的だ。未来のコハナを信じてもいる。
「ペロリは……ペロリも、ルカおねえちゃんにさんせい。コハナおねえちゃん、たしかにおにいちゃんをせつなそうにみてるとき、あった。だれにもみられないように、ほんとうにごくたまに」
ペロリの言葉にみんなの視線が集まる。
「……おにいちゃんが、コハナおねえちゃんみたいにされたら。ペロリはまよわずさわる。みんなは?」
その問い掛けに誰もが俯いた。彼女の言うとおり、なるほど……俺は記憶を取り戻すだろう。誰かに触れられて。それはなぜか。俺はもう、元いた世界の男ではない。
タカユキ・ペイ・ピジョウ。共和国の領主になった勇者なのだから。
「きっと、たぶん、それがこたえだとおもう」
「わかった」
ペロリに、みんなに頷いて立ち上がる。
怪談をあがって、扉を抜けてベッドに腰掛けた。
眠っているコハナが目を開けて、不安げに周囲を探し――……俺を見つけて、手を繋いでくる。何気ない仕草でたやすく繋がるくらい、元いた世界で俺たちの絆は深かったのか。
瞬間的にコハナへと記憶が戻っていく――……のだろう。
彼女の目が見開かれ、金色に輝き、漆黒に染まり、それが割れて真紅に燃え上がる。
髪もまた動揺の色の変化をして――……燃え上がる炎の様に美しく染め上げられた。
頭頂部からぴょこんと生えた獣耳は角へと変わり、起き上がった彼女の背にはコウモリの羽根が、お尻からは悪魔の尻尾が生えてきた。
彼女は俯き、俺の手を離して自分の身体を抱き締める。深呼吸するだけで真紅は黒へと戻り、翼は消え去り角は獣耳へ、悪魔の尻尾は獣のそれへと姿を変えた。
変遷。
それは彼女がこの世界で辿った旅の道のりの証の一つなのだろうか? ……そうなのだろう。
「コハナ」
呼びかけただけで彼女が身震いをした。
露骨に怯えている反応なんて、初めて目にした。
怖がっているのか。俺たちを手玉に取り、時には破滅する手順を踏ませた上で強大な力を与えてくれた策士が。なぜ。
触れようとしたら「触らないで!」と悲鳴を上げられる。
理由がわからなくて戸惑った。
「触らないで、ください……コハナの身体は、汚れていますから」
「……そんなこと、」
「あるんです! ……あるの」
絞り出された声に満ちた後悔と懺悔、自分への失望の強さは俺が触れたことのないものか。
本当に? よく、よく思い出してみろ。
出会えばコハナは俺の気を引き続けてきた。ハルブで出会いキスをして、再会して誰にも許さなかった夜の逢瀬を俺と迎えた。二回目の旅では俺の前に現われて、色町で働くと言って刺激し、俺にヤキモチを抱かせて……抱き合い願ってきた。なんて?
『だから離さないで……もっと愛してくれなきゃ、だめですよ?』
あの言葉の真意さえ変わってくる。あの後、彼女は彼女らしからぬささやかなキスをしてきた。
はにかみ笑って立ち去っていった。まるで目的を達成して満足したかのように。
けれど……ああ。俺は知っている。
コハナのキスも、繋がる時の腰つきも……何も知らない少女のそれとは明らかに異なる。
もし長い時をずっと俺を待ち続けて過ごしてきたら、じゃあ……どうやってその経験を獲得したのか。
考えるまでもない。考えたくもない。
つまり彼女のいま、俺を拒絶する理由もそこにあるのか。
深呼吸をする。
「コハナ」
呼びかけて、身体を小さく丸めて自分を守ることに必死な少女の肩に触れる。
はね除けられるかと思ったけど、コハナは大きく震えただけで逃げようとはしなかった。
ならば。
「話してくれ。全部。ちゃんと……今のお前の口から聞きたい」
「――……ですが」
「みんなに、が無理なら……俺だけにでいい。義務とか、そういうんじゃなくて……俺はお前のことが知りたいんだ」
顔をあげた彼女の目は涙に濡れていた。
「……お好きな話では、ないと思いますよ?」
「いいから」
ベッドに乗っかり、彼女の隣に腰掛けてコハナの身体を腕に抱く。
逃げないように。逃がさないように。
「……あなたと車に轢かれた私は、同じタイミングで召喚されました。女神は雑ですから……私には記憶がたまたまあり、あなたはたまたまなかった」
女神ぃ……。
「それに呼び出した勇者をこの世界に送り出せる人数は一人と決まっています。コハナが先に来た以上、タカく……勇者さまが来てくれるようにするためには越えなければいけないハードルがたくさんありました」
「世界を救ったり、死神になったりか?」
「勇者に与えられた獣の力を使ったり、もです。あなたが引き出すそれは、使い続ければやがて耳と尻尾が生える類いのもの。元いた世界の人間よりも強靱な肉体を獲得するための術です」
先輩勇者でもある彼女の言葉に納得した。
「長い長い時間を経て……気の遠くなる時間を過ごしました。勇者が現われる度に会いに行きました。けど……あなたじゃなかった。旅を終えた彼らの魂を狩り、墓に祭りながら……ずっと待っていた」
コハナは俺に触れようとしなかった。代わりに自分の身体を抱く手に力がこもる。
「強烈な孤独に耐えて、あなたへの思いを燃えるように抱くことが、コハナの生きる術でした。どちらかに耐えきれなくなった時、世界から消えるんです。だって……あなたに会うために、待つためだけにコハナは永遠を手に入れたから」
どれほど長い戦いだろう。
俺にはできない、と思った。クルルと即時に繋がり、クラリスと、ナコと――……コハナと繋がった俺には耐えられる類いの戦いではない。
孤独を癒やすのは熱だと体感的に知っているから。他の誰が非難しても、俺だけはコハナを非難できない。またしてはいけない。
「……最初はロートルパの色町の女の子でした。死神として魂を狩ることにすら疲れたコハナを拾い上げ、面倒をみてくれたんです。優しくて気高くて……強くて。気がついたら洗いざらいすべてを話していました。慰めてもらったんです……」
ルーミリアのロートルパの街か。俺も娼婦の女の子にケンカしたペロリの機嫌を取り戻す方法を教えてもらって世話になったっけな。
「女一人で生きる術を彼女に教わりました。変な話ですよね。世界を一度救った勇者が、死神になるくらい血迷った私が……色町の術を教わってる、なんて」
相づちさえまともに打てない。壮絶な状況だ。生きるため、というよりは……生きる目的を持つために必要なことだと思ったから。
「でも、どんなに彼女と練習しても……男の人とするのは無理でした。彼女や、彼女の紹介してくれた女の子とするのは平気だったんですけど。最初に客を取る段階になって、怖くて逃げちゃったんです」
意外だったし、当然だとも思った。一途な思いが力になり世界を救えた彼女に、生きるためとはいえその力を汚せるのか。汚せるわけ、ないじゃないか。
「それから何日か過ぎた時です。彼女に言われました。別に無理ならそれでもいい。ただ……選んで欲しい。私のそばで色町の女の子を支える仕事をするか、もっと綺麗な世界を探すのか」
なかなかに厳しい選択だ。
「……色町にいました。長いこと。いろんな女の子としたし、いろんな女の子の面倒をみました。カウンター越しに男の人と一緒にお酒を呑んで話すくらいはできましたし。お客さんの子を孕んじゃった子の出産に立ち会ったことも、一度や二度じゃありません」
だから……だから、レオとルナの出産の時に働いてくれたのか。見事だった。おかげで無事にクルルとクラリスは出産できたんだ。
赤ん坊の世話も妙に手慣れていたが、つまりは……そういう経験からなのだろう。
「あなた以外の人を愛せないなら……考え方を変えたんです。たくさん愛してもらおうと思いました。誰かの強い愛情を注がれて気が変わって死ぬのなら……それも悪くないとさえ、思いました」
自分には資格がないとでも思っているのか。
コハナは俺に触れようとしてこなかった。
「クロリアさまが地上に出てきて、交換条件を出して悪魔にしてもらって……ハルブに来ました。アメリアの力強さに惹かれ、海賊たちの陽気に触れながら酒場で働いて……公衆浴場でみんなの欲望を肌に感じていると、難しく考えていた自分がばかみたいに思えて」
だから。
「この街は……ハルブは、コハナの第三の故郷なのかもしれません」
第二は、じゃあ……ロートルパかな。
「女の子と擬似的なそれでしたことも何度もあるから……コハナは男の人とするの、あなたがはじめてでしたけど……でも。私はあなたが期待するほどまともな女の子じゃありません」
納得した。クルルとクラリスを相手にえっちして翻弄させていたから、なるほど。コハナの真骨頂、その技術の粋は少女と繋がり続けたために手に入れたものなのか。
深く息を吸いこむ。
コハナが俺を落としに来るときに纏う香りはきっと、ロートルパの色町で娼婦に教わった術なのか。それはつまり、俺だけに向けて使われた方法で。
長い苦痛に耐えかねて自分を殺す場所へと身をさらして……それでも、ハルブの陽気に救われて。コハナは待った。待ち続けた。
ただ、俺と出会うために。
……なるほど。じゃあ、怒るな。怒ってしょうがないな。その時にはもう、俺にはクルルがいたから。
「すまん。酒場でみた時に殺されても文句は言えなかったな」
「……力がパンツだから、仕方ないなと思いました。覚えてないでしょうけれど、元々あなたは気が多い男の子でしたよ?」
「……マジですみません」
「タカユキさまは否定しようがないでしょうから、元の世界の話はやめましょう……もう、それはいいんです」
窓の外から海を眺めるコハナの表情から俺は何を読み取れるだろうか。
「ここにいるのは勇者タカユキと、元勇者だけどあくまで死神のコハナです」
「……なら、もういいんじゃないか?」
何が? と問わずにはいられない大きな瞳をコハナが俺に向けてきた。
みればみるほど胸の奥で郷愁が刺激される理由はもう明らかだ。彼女に元いた世界の感情が、記憶が刺激されるのだ。失い欠けた部分が叫んでいる。彼女を知っていると。
でも……それ以上に。
「俺がなぜコハナを意識せざるを得ないかわかったし。多くの野郎にとっちゃ嫌かもしれないが……少なくとも、お前が過去に男と恋をしてそういうことをしていたんだとしても……しょうがないと思うくらい、コハナは長すぎる間、俺を待っていてくれたんだと思う」
「他の男の人と愛し合ったら死んじゃうから、絶対にないです」
わかってるさ。
「なら……もう、気にしない。気にするのはただ……お前の今の気持ちを知りたくて、俺はそれに応えたくてしょうがないってことだけだ」
「――……いいの?」
縋る様な声だった。当然、頷く。
「コハナはブーケを受け取れなかったのに?」
「ああ……」
そんなこと気にしていたのか、と思わず笑いそうになった。
けど、たしかに二回目の旅を終えて共和国で執り行った結婚式でのブーケトスで、彼女は何も受け取っていなかった。なら、言い方を変えよう。
「俺が誓う。それが一番確実だろ?」
「――……クルルさまと同じで、コハナもただ一人を愛して欲しいたちですけど」
放たれたボディーブローの威力は甚大ですが。
「あなたがどうしてもっていうなら……」
素直じゃないな。俺にもそれがはっきりわかるくらい、コハナの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「おいで」
腕を広げてすぐにコハナがしがみついてきた。
震え、嗚咽をこぼして縋り付いてくるその背を撫でる。
「……どうしても。俺のそばで、俺と一緒に生きて欲しい」
夢中で頷いてくる。
「待たせてごめん……これからはずっと一緒だ」
返事すらまともにできない彼女を抱き締める。
心の底からせり上がってくる愛しさの正体を知った。
「正直に言えば、記憶を失った俺でも……ハルブでみたお前の姿に一目惚れ状態だった」
「……ばか、」
遅いですよ、と囁いて彼女が求めてくるままに口づけをかわす。
今までコハナとしたどれよりも余裕がなくて、必死なそれを受け止めるだけでなく、求めて返す。
つたなささえ目立つほどに余裕なく。
愛情を求めてくるのだ。
そんなコハナが愛しくないわけがなかった。
明け方、浅い眠りに落ちたコハナの髪を撫でて、窓の外を眺める。
スフレに普及した魔法による街灯に照らされたハルブの街並みと港の夜景を眺めながら、深呼吸をする。
破壊神は脅威だ。コハナの過去すら知っている。俺たちの絆が破壊されかねないほどの揺さぶりを行ってきた。仲間でいえば残すところはナコとクロリアの二人。
厳密に言えばルカルーの兄ちゃんであるクリフォードがいて、魔界にはクロリアの姉をはじめ魔界の重鎮たちが控えている。
まずはルーミリアから。
何が待ち受けているのか知らないが……今回の旅はなるべく早く片付けたい。
レオとルナを取り戻し、新世界も共和国もすべて元に戻して……日常を掴み取るために。
俺は旅を続けよう。仲間と一緒に。嫁二人と一緒に。俺を待ち続けてくれた女の子と一緒に。
世界を救うために――……いいや、世界に生きるみんなを救うために。
勇者だから、まずは魔王の元を目指すのだ。
つづく。




