第四章 深夜研修
「ふぁ~眠い」
日直室で俺は大きな欠伸をしながら防刃衣を羽織る。
「ていうかクサッ! この防刃衣クサッ!」
前の奴の汗をふんだんに吸った防刃衣は溢れんばかりの男臭がした。
「うるさい坂本」
不機嫌そうな声。隣を見ると同じ様に防刃衣を羽織る九月の姿があった。
「お前はいいよ。女性用なんだからさぁでもよ、お前ちょっとこれ嗅いでみ?」
「やだ近付かないでよ!」
マジで拒否するように顔面を叩かれる。そう言われると余計に近づきたくなる。
「ほ~れ、ほ~れ」
セクハラ親父の様に強引に迫る。九月の嫌がっている顔が珍しくて楽しい。
「きもい! きもい! きもい!」
『ビシィ! ビシィ! ビシィ!』
ビンタの嵐である。
「ちょ、ちょ、ちょ……!」
生半可なビンタじゃなかった。全国一の女のビンタだ、もうビンタというか張り手?
い、意識が……飛ぶ……。
「ちょ、ちょっと君達、あんまりいちゃいちゃしないでくれるかな?」
するとそんな俺達を見兼ねたのか、先輩期生が俺達に声をかける。
「誰がいちゃいちゃしてるの?」
「ひぃ!」
氷の様な目でみられ、先輩が硬直する。今や俺は慣れたが初対面の時の衝撃は今でも覚えてる。お気の毒に。
「気をつけ!」
そんなやりとりをしていると時間が来たのか、教官が来た事を知らせる合図が響いた。
それに従い全員が廊下に一列に並ぶ。
「お願いします」
深夜なので小さな声で先輩が頭を下げる。
頭を下げた先、当直教官が敬礼を返すって……エェー!
俺は心の中で絶叫した。
「うむ」
不遜な態度で応じたのはあの轟教官だった。
つ、ついてない……。俺のトラウマが現れるとは。
「深夜研修だがもちろん。貴様らに深夜手当は出ないタダ働きだ。貴様らはいつも深夜研修に選ばれた際ついてない等と嘆いているようだが、貴重な経験を積む機会だラッキーだと思え」
ラッキーって、とりあえず眠いです。
「坂本ぉ!」
「ひゃい!」
お、おう、完全に油断してた。
「今日のリーダーはお前だ」
「何でぇ!」
思わず本音がぽろりと出た。ヤバイ……シバかれる。
「仮にだ、もしリーダーだった人間が任務の途中で死んだら、どうする? 貴様らは一々会議をしてリーダーを決め直すのか? こんなクズにも従わなければならない時がある」
「クズって……」
勝手に殺された先輩も複雑そうな表情だよ。
「まあ、そんな事はさておき、だ。貴様は私の命令にただ従えばいい。分かるな」
「……分かります」
分からなかったら大変な事になる。
「目茶苦茶言いよるなこの人」
せめてもの抵抗に小さく呟く。
するとスタスタと轟教官はこちらに歩いて来た。そして。
「聞こえてるぞ~坂本」
アイアンクローで俺の体を持ち上げた。
「イダダダダあ!」
信じられない。片腕で俺の体を持ち上げている。
全員が俺から目を逸らしていた。それでも警察官か! お前ら! 助けろ!
「では貴様らの働きに期待する。責任は全て坂本がとる」
それから五分後、轟教官は教官室に消えた。
「それでは皆さんいつも通りで……私は当直室で駐留警戒していますので警電と無線で連絡してください」
俺は顔面を抑えながら全員に指示した。さっきの轟教官が効いたのか、皆、静かに散開した。
「ふぅ……まだ痛い」
ヤバイ泣きたい。
「馬鹿ね相変わらず」
その姿に冷静に、九月が突っ込む。
今は当直室に二人きりだ。誰とも九月とコンビを組みたがらなかった為だ。
「うるせえ」
「貧相な語彙」
ああ言えばこう言う九月さんだった。
「九月、今俺はリーダーだぞ。つまり俺の方が立場は上、だから俺が指示を出せばお前は従う。オーケー?」
「従うわよ。何でも」
九月は頷く。何だ? 今の九月さん。素直で可愛い!
元々アイドルみたいに可愛い顔立ちだからな。二人でいるとムラムラするぜ。
「よし、では九月巡査。胸を揉ませろ」
「はい」
九月は返事をして、強烈な右ストレートを俺の鼻に叩き込んだ。
『ゴスゥ!』
「他に指示は有りますかリーダー?」
「あ、ありばせん」
く。クレイジー。
九月に要求する愚を悟った俺は、リーダーとして書類の作成を急ぐ。
「九月……書類作るの……手伝って」
だがやはり初めてで、意味が分からず九月に頼ると。
「ええ、良いわよ」
すんなりと九月は答えて、自分も初めてだというのに、もの凄いスピードで書類を処理していく。
「すげえ~九月、お前まじ、すげえなぁ~」
「貴方に褒められても嬉しくないわ……そこ間違えてる」
「え、あマジだ」
俺は九月に言われたところを訂正する。すげえなぁこいつ、俺の仕事まで見てるのか。
しばらく無言で二人作業していた。だが俺の集中力はそんなに長く続かない。
「ねえ、九月、お前休日は何してるの?」
「主にトレーニングと読書をしているわ」
無駄話はしないと言われるかもしれないと思ったが、九月は意外に普通に答えてくれた。
「ねえ、九月、お前好きな歌手とかいる?」
「モンパチが比較的好きね」
い、意外とソウルフル。
「九月お前、兄弟とかいるの?」
「いるわよ。妹が一人、高校生のね」
「へえ~仲良いの?」
「悪く無いわね。休日は一緒に出掛けたりしてるわ」
「へぇ~意外九月もそういうことするんだ」
九月が妹と一緒にお出掛けしている姿なんて想像が出来なかった。
というか……入校して二ヶ月になるが、俺は九月の事をあまり知らない。
今までどんな生活をしてきたのか、どんな物を好むのかとか……彼氏は居るのかとか。
「彼氏とかいるの?」
特に考えず俺はそう聞いた。
「………………」
俺の質問に九月は無言だった。俺はまずいこと聞いたかなぁ~と思い話題を変えようとすると。
「貴方はいるの彼女?」
何故か九月から質問が返ってきた。
「いや、いないよ」
「どうして? 欲しいとは思わないの?」
「いや欲しいけど出来ないんですよ」
悲しい事に。
「そう……」
「ていうかよ、九月はどうなの? 居るの彼氏?」
「いないわよ。居た事もないわ」
「え? まじで?」
意外だ。こんなに可愛い顔なら男は放ってはおかないだろうに。
「ええ、男は私を避けているようだったわね」
「何かしたのか?」
「別に普通にしてたわよ。運動も勉強も、たまに他の人が出来ないと言っていたのが少し理解出来なかったけど」
「それじゃね?」
理由が分かった気がする。確かにこんな完璧超人と一緒にいたら男のプライドはズタズタになるだろう。
「俺が思うにお前は隙が無さ過ぎるんだと思う」
「隙? 何言ってるの? 隙がないのに越した事はないじゃない」
本当に分からないといったように首を傾げる九月。
「それは違うなぁ九月、男は女の子のチラっと見せる隙が堪らなく好きなんだ。その為なら命も賭ける。そんな感情をコントロールしてこそ、お前のいう完璧なんじゃないか?」
「……確かにそうかもね。で、具体的にどんなの?」
「そうだな……」
俺はおもむろに自分の鞄から箸を取り出すと。
「この箸重くて持てな~い」
「そんなわけないでしょ」
「いや、冷静に突っ込むなよ。例だよ例。とりあえずやってみろよ」
九月は完全に俺の言葉に疑念を持っていたが、やがて箸に触れると。
「は、箸が持てな~い」
ぎこちなく、引き攣った顔でそう言った。か、可愛い……。
「ちょっと何よ、変な顔して……やっぱり可笑しかった?」
俺が何も言わない事に自分のやり方が間違っていたと感じたのか九月が自信なさ気に俺に視線を向ける。
「いや、か、可愛かったよ」
だはぁー何言ってんだよ俺!
「そ、そう……」
九月は顔をほんの微かに赤らめるその姿をみて俺は初めて気付いた。
九月という女の子はいつも一生懸命なだけなのだ。どうしてこんなにも一生懸命なのか、理由は分からないが。彼女は性格が悪いのではなく、不器用なだけなのではないか?
まあ、これも俺の勝手な思い込みに過ぎないのかもしれないけどな。
なんとなく。気まずい空気が流れる。
「ぷ、くふふふ」
「何よ急に笑い出して」
「い、いやすまん。俺こういう空気耐えられなくて。テスト中もくそ笑っちまうし」
「何その迷惑な性癖」
呆れたように微かに九月が笑う。
ほんの僅かだったが九月が見せた笑顔は、あぁ何ていうか俺には芸術的センスが無いから表現出来ないが、花のような? 天使のような?
あ~もうわかんねえがとにかく。可愛いじゃねえか!
「貴方は何か他の男とは違うわね。なんというか……馬鹿?」
「ツンデレじゃない……?」
おふう、さすが九月、流れを読まないぜ。
こういったやり取りをしながらまあ俺は楽しい深夜研修をしていたのだが。
『ザーザーザ、学校一から学校』
突然の無線。何だまだ無線入れる時間じゃねえけど。
「学校ですどうぞ」
とりあえず返信する。
『ザーザー先程校門前にて塾帰りの女の子が来て怪しい車に後ろからつけられたと言っていたのですが……』
怪しい車不穏な単語に俺は身構える。
「どうしたんですか? どうぞ!」
歯切れの悪い無線にいらつき、荒々しく返信を促すと。
『は、はい。特に不信車両も居なかったので家に帰るように促しましたどうぞ』
「分かりました。引き続き立番をお願いしますどうぞ」
『以上学校一』
無線を終えた俺は立ち上がり九月に視線を向ける。
「さっきの無線聞いた?」
「ええ、聞いたわ」
「そっか」
俺はほっとして満面の笑みをこぼす……こいつがいれば大丈夫だろ。後始末も。
「じゃあ九月、お前教官室に今の事、報告しておいて、俺ちょっと行ってくるわ」
さあて、急がなきゃな……俺が駆け出そうとした時だった。
「ちょっと待ちなさいよ! どこに行く気!」
九月がいつになく感情を出し俺を引き止める
。それに俺は驚きを感じながらも答える。
「え? さっきの子供の所だけど……」
当たり前の事を言ったはずだが、何が気に入らないのか、九月は食いかかる。
「何を言ってるの? 彼女はもう警察学校から離れているわ。それを追いかけるという事はこの学校から出るということよ! 職務中である私達が持ち場を離れることが重大な規律違反だという事が分からないの!」
確かに組織に属する以上、規律は絶対だ。特に警察という組織においては。
「いや、まあ分かるけど……ほっとけないじゃん」
「ほっとけなんて言ってない! 教官に連絡して対応してもらうべきよ! まだ事件かどうかも分からないのよ! それが正しい選択だわ!」
九月が何故、興奮しているのかは分からない。けど彼女のいう事は正しい……でも。
「女の子はどういう気持ちだったのかな……」
「はい?」
苛立ったように九月が俺を睨む。
「きっと怖かったんじゃねえかな。知らねえ車に追われて。暗い夜道で心細くて……でも警察までやって来て安心したはずだ。練習用の交番の明かり見てもう大丈夫だって」
静かに語る俺の言葉を九月は黙って聞いてくれた。まだその表情は険しいけど。
「なのに今その子はまた暗闇で一人だ、さっきまで恐怖していた場所に一人……例え怪しい奴が居なくたって不安だ。当たり前だ」
俺は九月に自分の馬鹿さを照れる様に笑う。
「確かに全部お前が正しいよ。だからこれは俺の勝手な規律違反だわ。俺は俺自身が、その子をほっとけない。その子が安心する顔がみたい。その子から不安を消してあげたい。だから今行く。俺が行く。ゴメンなさい。九月さん後は頼んだすみません」
俺は深く頭を下げると当直室を飛び出した。
「ばかぁ!」
九月の声シンプルな言葉に笑ってしまいながらも駆ける。
「お疲れ様で~す。さっきの女の子どっち行った?」
「あ、あっち」
「サンキュー」
正門に立っていた同僚に軽く挨拶をし、閉ざされた門から飛び出して指示された方向に駆け出して行く。
呆然と見送る同僚を背中に、俺は職務を放棄して女の子を追った。