第三章 轟教官 2
「気をつけ!」
教場当番である沢ちゃんが号令をかける(教場当番とは学校でいうところの日直だ)。
俺達五組の生徒たちは緊張感から全員背筋を伸ばしグラウンドの入口を注視する。
ついに……来る伝説の教官が……。
どんなごつい奴が来るのか。俺の心臓の鼓動が早くなる。
沢ちゃんが頭を下げ……ついに轟教官がグラウンドから姿を現した。
「!」
九月を除く全員が一瞬固まった。
うっ……美しい。
グラウンドの入口から現れたのは女性だった。
凛々しく歩くその姿は長身であることを最大限いかしていてモデルのように美しい。
しかしただ美しいのではなく、その立ち姿からは一辺の隙もみいだせない。そして遠目にも分かるようなその美貌。
何だか高嶺の花過ぎて、逆に声をかけるのを躊躇させるような雰囲気を放つこの女性に男性陣の視線はくぎづけになっていた。
女性が俺達の隊に正対する。俺達が轟教官の事も忘れてぼーっとしていると。
「何をぼけっとしている!」
『キーーーン……』
鼓膜が破れるかと思うほどの怒声が校庭に響いた。
そしてその瞬間ほうけていた俺達は理解する。
あ、この人が轟教官だ……。
何か色々とショックだ。
「教官にぃ~注目!」
そんな俺達に気をつかってか沢ちゃんが授業開始の合図をした。俺を含めた皆が慌ててそれに追随する。
「初任科第二百三十三期五組、総員三十一名事故無し、現在三十一名、番号!」
『イチ! ニィ! サン! シィ!ゴウ! ロク!シチ! ハチ! キュウ! ジュウ! 満!』
「列外一! 異常無し!」
沢ちゃんがビシ! っと敬礼する。
それに轟教官が答礼した。
「おはよう!」
再び轟教官の凛とした声が響く。
『おはようございます!』
俺達は全力で挨拶を返す。
しかしそれは轟教官を納得させるものではなかったらしい。
「何だ貴様ら、その腑抜けた挨拶は! 貴様らはこれから犯人の前に立つ時もそんな気合いで立ち向かうのか!」
轟教官はそう言って俺達を睨み付け
「おはよう」
『おはようございます!』
「おはよう」
『おはようございます』
……………………そして。
『オハヨウゴザイマス! ……げほぉ、ゲホォ……』
俺達の声が枯れるまでオハヨウゴザイマスの大合唱は続いた。
「いいか貴様ら! 私の授業を受ける上での注意事項を伝える!」
全身にだらだらと汗を垂らした俺達を見回し、轟教官が人差し指を立てる。
「一つ、団結しろ、二つ、活発にしろ、三つ、返事をしろ、四つ、確実にしろ、そして最後だが……」
轟教官はにやぁと笑い
「私の前で笑顔を見せるな」
ぞっとするようなトーンでそう言った。
『バァイ!』
一瞬笑顔を見せようとした面々が直ぐに顔を引き締め返事をした。
「よーし、では部隊を展開する。一列目八歩、二列目四歩前にー進めぃ!」
号令の元並んでいた俺達は縦に広がる。
「これから服装点検を行う!」
轟教官はそういうと一列目一番員の学校一の長身大塚の前に立ち服装を点検する。
「ネクタイ、帯革、正帽、以上三点、スクワット百五十回!」
「はい!」
スクワットを始める大塚。
オイオイオ~イ! ペナルティーあんのか~い。
やばいよ~嫌な予感しかしないよ~今までの体験から冷や汗しか出ない。
そ~と服装の乱れを直そうと帽子に手を伸ばした時だった。
「そこ!」
びく! と俺の手が止まる。
轟教官は点検していた生徒から離れズンズン俺に向かって来る。
ヤベーやっちまった~俺が絶望した時だった。
「貴様! 何故動いた!」
轟教官は目の前に止まった……俺の隣の吉田くんの前に。
「は、はい……」
吉田くんは顔面蒼白だった。
ラッキーぃ! 俺じゃなかったぁ~
心の中で渾身のガッツポーズを取る俺! 最低な人間の誕生の瞬間だった。
「貴様何故動いた? 私の気をつけという指示が聞こえなかったのか?」
「いえ……聞こえてました……」
「では何故動く? 規律違反だぞ貴様~」
轟教官が睨み付ける。その姿は美しいが故に圧迫感があり隣の俺ですら息が詰まる。
「ふ、服装を直そうとしました」
ぽたぽたと汗を零しながら吉田が答える。
「馬鹿者! 直すような服装で授業に来るんじゃない!」
『パァン!』
轟教官が吉田の頬をビンタした音が鳴り響いた……。
体罰もあるのかよ……俺、冷や汗物である……。
「貴様のような奴は授業に参加する必要は無い! 終わるまで校庭を走っていろ!」
「はぃ!」
吉田は涙目になりながらも全力で轟教官から走り去る。
すまん吉田……君の事は忘れない。
その後も轟教官の服装チェックは続き――ついに俺の番が来た。
お、おう、やっぱり綺麗だ……だがやはりこえぇ……
こちらを睨みつけて来る目は吸い込まれるように透き通っている。ヤバイちょっとにやけてないか俺?
「坂本!」
「あ、はい!」
思考が別の方向に行っていて返事が若干遅れた。
轟教官は俺の服装をズボンから徐々にチェックしていく。
おお屈んでると凄いボリュームだぁ……。
ピッチリと着込まれた制服が逆にその大きい胸を強調していていやらしい。下半身に血が集まっているのが実感でき、今、大きくなるのは完全にまずいと必死に静まれ~と念じ続ける。
「坂本ぉ!」
「ヒャイ!」
「靴紐、ズボンシワ、帯革がきちんとしまってない、ネクタイが曲がってる、正帽もあみだ被り、ヒゲ、階級章のつけ忘れ! 姿勢も悪い!」
俺フルコンプリートである。
「貴様ぁ、私を嘗めてるのかぁ? 今まで警察官をやってきたが貴様が一番最低だ! ここまでくると採用係が無能だなぁ! あん?」
ヤンキーの様にガンをつけてくる轟教官。採用係の人には申し訳ない限りである。
「しかも貴様さっき私に隠れて服装を直していたなぁ、吉田が隣で叱責されていたにも関わらず。自分だけ助かろうとする嫌らしさが透けて見えたわ」
ば、ばれてる~。俺大ピ~ンチ!
直立不動で汗をだらだら垂らす俺に轟教官はにたぁと残酷な笑みを浮かべ……。
「貴様だけは特別メニューを施してやろう。吉田みたいにただ走らすのでは。吉田に申し訳ないからなぁ~今まで誰も耐えられなかったメニューだが頑張れよ」
いやぁ! 誰も耐えられないなら俺も耐えられない!
「坂本! 腕立て伏せ二百回、腹筋二百回、スクワット三百回だ!」
「はい!」
はい! と元気な声で挨拶した物の、そんなに出来るわけねえ、つまりあれか? これは事実上の死刑宣告か?
とにかくまぁやるだけやって後はさぼろう……。
俺が暗い考えを胸に腕立て伏せを開始した時だった。
フォオオオオオオ!
パラダイスがそこにあった。
轟教官の美脚から始まり、そして……紫色の下着が見えた。
奇跡だった……。
さぼろうとしていた体はポジティブな感情から躍動する事を望んだ。
「フシィ! フシィ! フシィ!」
猛然とただ轟教官の下着のみに注目して腕立て伏せを行う。
その鬼気迫る様子にクラスの男子たちが戦く。
「あ、馬鹿……坂さんそんなんで持つわけないだろ……」
「いや、したっけあの様子……確実にパンツ見てるな」
「うん。僕も見たいな。フフ」
同室の皆の声が聞こえる。相変わらずの奴らだった。
その後、全員の服装点検が終わり、全員のペナルティーが終わった後でも俺のペナルティーは続き……。
「しっ! しっ! ぜぇ。はぁ……ぬぁ!」
皆が見る中、俺は最後にペナルティーを終えた。
や、やり切ったぜ……。
しかし、もう一ミリも動けない。俺は地面に抱きつくように突っ伏した。
「やり切ったか。中々根性があるな」
轟教官の声が頭に降り注ぐ。
その言葉を聞いて、俺は終了を確信した。
ちょっと休憩出来るかなぁ? 俺が甘い期待を持った時だった。
「うむ、貴様らもいい汗もかいたようだし、準備運動はこれくらいでいいだろう」
ん? 準備運動? 何やら不穏な言葉に皆がぴくりと反応する。
「じゅ、準備運動ってなんですか?」
正直聞き違いだと信じたい一心から俺は首だけを回し轟教官に尋ねる。
すると轟教官は愉快そうに笑い。
「はははっ! 面白い事を言うな~坂本は、今まで自分がやって来た事も分からないのか? 冗談を言って無いで早く立て」
その華奢な体のどこにそんな腕力があるのか、猫の様に俺の首根っこを掴みぞっとするような力で轟教官は俺の事を持ちあげる。
「まさか坂本はさっきやった程度が私の授業だとは思ってないよなぁ? 馬鹿を言ってはいけない。あれは単なるペナルティー、遊びだよ。これからするのが本当の――訓練だ」
エェエエエエエ~!
ヤバイ叫びながら逃げ出したいけど、体が全く動かない……。
その後轟教官の言う訓練が実施され、俺達は本当の地獄を味わう事になるのだった……。