悲しいおしらせ
朝雛雅人は大学生で、白鳥七生は、彼が通う学校の職員で、ひょんなことから彼らは立場を越えて、友だちになった。
友人同士なので、時間が合えば昼食でも一緒に取ろうという話になり、そして天気が良いのでキャンパス内の森の中で食べようという話になった。大学の中にある生協でサンドウィッチなどを買い込んで、人気のないその若芽の出てきた木々の中にぽつんとある木のイスに座った。
暑くも寒くもなく、風に揺れる葉の間からきらきらと木漏れ日が落ちてきて気持ちがいい。彼らはとりとめのない話をした。
「八ヶ岳って行ったことあるか?」
雅人が訊ねる。
「ええっと……どのあたりでしたっけ」
七生の方が雅人より五つほど年上だが、彼は雅人に丁寧語で話していた。
それが、友だちとはいえども二人の間にある心の距離なのだと思うと、雅人は少しいらだちを覚えるが、彼がそういう性分であることもわかるため、好きにさせている。
「詳しくはしらない。山梨かな」
「行ったことないです。どうかしたんですか?」
「知ってるカフェが、東京にあったんだけど移転して。八ヶ岳の近くだっていうから」
紅茶がおいしくて、そしてその店のスコーンが格別だったと続けた。
「それは、行ってみたかったですねえ」
いったい、どうしてそんな場所に移転してしまったんでしょう、と言う七生に、さあな、と雅人は冷たく答えた。
七生はスマートフォンを取り出すと、検索バーに「八ヶ岳」と入れた。
観光サイトなどを見ているときに、ふいに顔を上げて、
「あ、八ヶ岳って、富士山とけんかした山ですか?」と訊いた。
「知らないけど……」
富士山とけんか? 山が?
七生はブラウザバックで検索結果一覧のページに戻ると、八ヶ岳のウィキペディアを開いた。
「思い出したんですが、八ヶ岳って、富士山とけんかして負けて、八つに裂けてしまったんですって。山梨と、長野の諏訪あたりにまたがっている岳みたいですね。諏訪出身の友人が大学にいて、そういえば教えてもらったことを思い出しました」
そして、ウィキペディアの該当箇所を雅人に見せた。
『「富士山と背比べをして勝利、しかし富士山に蹴り飛ばされて八つの峰になった」という神話がある』
「本当だったんだ」
そう言って七生は屈託なく笑う。
「いや、本当ではないだろ」
雅人は焦ってその考えを止めた。全く、こいつは気にかけてやらないと、こんな伝説でも信じてしまう。本当だったんだって、どういうことだよ。
「そのお店、いつか行きたいですね。僕も紅茶好きです。スコーンも食べてみたいですね」
そう言われて、すぐに「じゃあいつ行く?」と言えなかった自分を雅人は恨む。
そろそろ腹も満たされたころ、少し離れたところから人の声が聞こえた。ただの人なら何の構いも必要ないが、それはどうやら怒号であった。
雅人と七生は顔を見合わせて、そちらの方に首を伸ばした。声を高く上げたのは女性のようだったが、その会話の相手は男性のようだった。
雅人と七生が座っていたベンチの周りには木やツゲが茂っていて、向こう側の道からは二人の姿は見えないようになっている。つまり、彼らから見て右の方にいる、今大声を出した女性の姿も見えない。おそらくは人前では話せないことを話すために、この茂みの中に入ったのだろうけれど、とうとう女性は耐えられなくなって、他人に声が聞こえるという危険をおかしても声を荒げてしまったようだ。
「怒ってるな」
「怒ってますね」
はじめは、そんなふつうのことしかわからなかった。
「どちらも大学生だな」
「どうやら、男のほうが浮気をしたようです」
「しかもはじめてではないようだな」
「しかも、相手は女性の方の友人のようですね」
「男はぶすっとしている」
「浮気ではなく、友だちとして一緒に飲みに行っただけだ、と主張しています」
「だが、そのまま女の友人の家に泊まったということか」
「女性としては、たとえ何もしていなくても、泊まったということ自体が許せないようです」
「男は酔っていたのだから仕方ないと言っている」
「女性が一方的にしゃべっています」
「男は、怒りが過ぎるのを待つ姿勢でいるようだな」
「女性はそんな男性の態度も気に入らないようです」
「黙っていればそのうち黙るだろうと思ってるんだろう? って行動を読まれてるな」
「なんとか言えよ、って、肩のところの服を掴んでいます」
「男は何も言わない」
「女性の目に涙が浮かんでいます」
雅人と七生は可哀想になって言い争う二人から目をそらした。
逆側から抜けようとしたら、先を歩いていた七生が急に立ち止まった。
「どうした」
雅人が七生に顔を寄せると、七生はどうしようかという顔をする。
二人が行こうとしている先から人の声が漏れ聞こえてきたそれは嬌声。
雅人が好奇心から前に出て、七生が立ち止まった場所に立つと、そこに二人だけの世界に入っている男女がいた。
「キスしてるな」
「ひえええ」
「入ってるな、舌」
「ううう」
「胸を揉んでる」
「あああ」
「下着が見える」
「ひえええ」
「スカートもほとんどめくれあがってるな」
「うわあああ」
七生が真っ赤になって両手で目を覆った。雅人よりも五つも年上のくせに、彼はこういうのがダメらしい。
「困りました」
二人はベンチまで戻ってきて肩を落とした。
そろそろ、昼休みが終わる時間である。気楽な学生の雅人は遅れて次の授業の教室に入ったってどうってことはないが、七生はあまり遅れるわけにもいかない。
しかし、片方はけんかをしているカップル、もう片方はいちゃついているカップル。どちらも二人の世界に入っており、これ以上近づくと、相手に気づかれてしまう。一本道の両側を挟まれているので、雅人と七生には他に逃げ場はない。
「どっちの方に行っても気まずいです」
「けんかしてる方に行けば、けんかが止まるからみんな幸せになるんじゃないか」
「問い詰めてる女性の方は幸せにならないと思いますよ……」
仕方ないので、どちらか先に退いた方のところから出ようという話になった。
ふた手に分かれて、二組のカップルを見守ることにする。様子は適宜、LINEで送り合うことにした。
「申し訳ないんですが、僕、どうしてもいちゃついてるカップルの方は……ちょっと……そういうの苦手で……」
「じゃあ俺がそっちに行く。けど、あっちだっていつヨリを戻してそうなるかわからないぜ」
「そのときはそのときです」
そう言って二人は、五メートルほど離れた。
七生「女性の方、まだ怒ってます」
七生は少し離れたところにいて、姿も見えている雅人にLINEを送る。
雅人「こっちも変わらず」
七生「こっちの女性の方、彼氏と、自分の友人が飲みに行ったことをまだ責めているんですが……」
雅人「こっちだって、ずっとキスしてるぞ」
七生「とうとう女性が男性をビンタしました」
雅人「キス」
七生「女性が泣いています」
雅人「キス」
七生「泣きながら男性の胸ぐらを掴んでいます」
雅人「キス」
七生「あれっ、僕が送ってるのbotさんじゃないですよね」
「ああ」
「よかった」
せいぜい五メートルの場所にいるので、普通に声が届く。
しかし七生はフリック入力速度が鍛えられている感覚がした。
七生「男が抵抗をはじめました」
雅人「キスしてる」
七生「女性の攻撃を避けました」
雅人「キス」
七生「殴ろうとした女性の手を取りました」
雅人「キス」
七生「両方の手首を握っています」
七生「女性は泣いています」
七生「ひどい暴言を吐いています」
七生「噛みつこうとしています」
七生「女性の手をとって押さえつけています」
七生「男性が女性を抱きしめています」
しばらく雅人からメッセージが飛んでこなかった。七生は後ろにいるはずの彼を振り返った。
彼の姿はなくなっていた。
雅人「スキ」
手元が震えて、スマートフォンを確認したら、そんなメッセージが入っていた。
予測変換もあるのに、こんな誤字をするかな? と思いながら雅人を探したら、いちゃついていたカップルはもういなくなっていて、七生はそちらを通って、業務に戻った。そのままいつもの通り、昼からの仕事を片付けていたら、ふと雅人が、七生にあのカップルが退いたことを教えてくれなかったことを恨みがましい気持ちになった。彼が教えてくれれば、カップルの件かなんていう心の栄養にならないものを見続けなくて済んだのに。
そんなメッセージを送ると、しばらくして、
「健全な男に、あんなものを見続けさせるな ばか」
と返事が帰ってきた。