灰色硝子に映る
うだるような暑さの中で、ふと顔を上げる。
一匹の獣と目が合った。
金色の毛皮に、灰色の瞳が、ただ静かにこちらの姿をとらえている。
私はぼんやりとした頭で、美しいなと、それだけを思った。
密林の地面は湿っぽく、あちらこちらを虫が這っている。地面についた尻と足と手のそれぞれを、小さな蟻達が登ったり降りたりと忙しくしている。私にはもう、それらを払う体力はなく、噛まれたところで、痛痒に眉をしかめる程の気力さえもなかった。
右足には崖から落ちた際に負った傷から、まだじんわりと血が沁み出している。この数十時間、血液と一緒に命を構成している何か別のものまで、身体から流れ出てしまっているような気がする。
崖に寄りかかる私に、美しい獣はゆっくりと近づいてくる。
血の臭いに惹かれているのだろうか。だが、どうしようもない。もう、石を拾って追い払うことさえできやしない。する気も起きない。それくらいにもう、ただどうしようもないのだ。
獣は、腕を伸ばせば届きそうな距離にまで近づいてきた。獣臭い鼻息が、顔に生暖かく吹きかかる。その灰色の目に、半死人が映り込む。なんて酷い顔だろうと、心の中だけで笑った。
この獣は、私を食らうのだろう。痛みは感じるだろうか。一思いに食ってくれるのだろうか。
背筋にふと、ぞわりとした感触を覚える。それが何だか理解する前に、獣はふいと、私から顔をそらした。そして、何事もなかったかのようにそのまま静静と歩き出す。
急にそっぽを向かれた私は、ぼんやりとその背を見つめ、そしてふと、鳩尾に熱いものが込み上げてきた。数時間ぶりに喉から出た声は掠れ、意味のない嗚咽となる。もしかしたら、枯れ果てたはずの涙さえ溢れるのではないかと思う程に、私は自分を律することもできない感情の乱れを覚えた。乱れる程の感情が、まだ残っていたとも思っていなかったが。
兎に角、生まれたての赤子のように、ひたすら泣きわめきたい気持ちではあった。
苦しく、喘ぐように息をし、だがそれは決して足の傷のせいでも、脱水症状からくるものでもなく。
訳の分からないまま、やがて私の視界はぼんやりと白く霧がかっていった。
次に目が覚めたときは、真っ白な天井があった。死後の世界は存在したのかとぼんやり思ったが、すぐにそれは思い違いだったと知った。
密林に入った私の帰りが遅いため、研究室の職員らが地元の人々に協力を依頼し、探しだしてくれたとのことだった。足の傷は感染症を引き起こしていたが、投薬治療でなんとか症状は良くなるそうだ。他にもあちこちに、虫に噛まれたり刺されたりした傷が酷いらしく、確かにあちこちが痛くて仕方がない。しばらくは入院生活を余儀なくされるようだが、これもまた仕方がないことだろう。
美しい獣に出会ったことは、特に誰かに話す気にもならなかった。後から思い返す程に、あの獣が現実の生き物ではなかったかのように思われたからだ。
数日後、知らせを受け取った妻が見舞いに駆け付けた。長い距離を、急いでやって来たのだろう。病室の扉を開けるなり駆け込んできた妻は、入院してしばらく経つ私よりも酷い顔をしていた。
私は妻にだけは、例の獣の話をした。妻はベッドの傍らに座りながら、茶々をいれることもなく、一つ一つ頷きながら聞いていた。それからじっと、こちらの顔を見つめ、「その獣のおかげで、貴方は帰ってくることができたのですね」と、ぽつりと呟いた。
私が見返すと、妻はにこりと微笑んだ。その灰色の瞳に映った私の顔は、密林で見たときよりも、随分とましなものに思えた。