語りえないことについては沈黙するしかない。言葉の限界性について 試論
本日はいささか
お堅いお話?になります。
我々の思考というのは「言葉」によるしかないのです。
言語によって概念化して、物事を思考思惟する。
改めてこういわれると、へーそうなんだ、ということですが
言語を取り去って、じゃあ、ほかの何かで
思考推理できるか?と言われれば
、、、、、、、、、、できませんね?
言語によって物事を概念化する。
その概念を並べたり?
置き換えたり?
して、人は思考するのですから。
つまりということは?
言語の限界が人の、思考の限界でもある。
ということになりますね。
言語化出来ない物事、事象、について
人は思考できないのです。
つまり、
「語りえない事象については、人は沈黙するしかない」
「論理哲学論考」より、ヴィットゲンシュタイン
ということなのです。
これが合理科学の限界です。
ただし、
語りえない事象が無い、、存在しない、、とは言ってませんね?
言葉でとらえられないような事象は、、実は
この世に、、いっぱいあるのです。
ですが、、、そういう言語の限界外のことを
合理的に論じることは、、言語で考えるしかできない人間というものには
出来ませんよ、、、と言ってるんですね。
ここまでが科学の限界なのです。
それ以上は「オカルト」の世界だということです。
オカルト(神秘学とか宗教)では
言葉なんて邪魔なだけです。
それらの教えとは、、
グル(師匠)から、、の
一子相伝、であり言語外の、ひらめきであり、サトリの世界だからです。
不立文字であり
拈華微笑であり
直指人心であり
月を指す、ひとさし指であり
扉を叩く瓦片であり、、
教外別伝であるからです。
まあ言語で書かれた「経典」とかはありますが
でもそれらはあくまでも
表向き?であって
ほんとのサトリは、、そこにはなくって
言語以外で師から、、弟子へと
一子相伝で伝えられるものなのです。
経典は表看板であるだけで、
奥義は、、あくまでそこには、無い、、ということです。
ですからいくら経典を読んでみても深いところはわからないという世界。
それがオカルトであり
宗教の世界ですね。
ところで、、お話はは変わりますが、
言語によってしか考えられない人間というものにとっては
、言語の自己撞着というか、
無意味な問い?というのものがあります。
「人はなぜ生きるのか?」とか
「愛するって何?」とか
これらの問いは、、そもそも、
答えることが最初からムリ?なのです。
なぜなら?
この問いには
答えが無いからです。
「人はなぜ生きるのか?」
「生きてるから生きる」、、、とでも答えるしかない、問いだからです。
その人にとっての、期待した答えが、
たとえば
「人は愛と献身に生きる」という答えだったとしましょうか。
でもそれはその人だけの答えでしかなく
あなたの、、
私の答えではないのかもしれませんよね?
万人向けの答えが無い問いなのですね。
ということは
あなたがそうだと思う答えがあなたの答えですよ。
そうとしか言えない問いだからです。
つまり合理的な、通有的な、、普遍的な 科学的な
答えはない「問い」なのですね。
こういう問いは、、そもそも問いかけること自体が無意味です。