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短編

落雨の女

作者: 荻雅 康一

 突き抜けるほど青い空が、遠くに見えた猛り立った巨大な昏い雲に飲み込まれた。地鳴りのような雷鳴が遠く走ってくるようだった。

 雨が降るな、と佐久間の隣を通り掛かった犬の散歩をしていた老人が空を見上げながら呟いた。リードの先の犬も老人と同じように空を見つめていた。空から視線を下ろすと佐久間の気持ちも急かすような足取りで、その場を去っていった。

 もの寂しさも感じる住宅街の狭い通りだった。先程までの爛々と降り注いでいた太陽の熱にうんざりしているのか、夏の昼間だというのにさっきの老人しか人は見当たらなかった。佐久間はキョロキョロと辺りを確認した。雨宿りができる場所を見つけたかったのだ。背丈の高い偉丈夫な男の佐久間には、小さな庇では通り雨をやり過ごせないからだ。手にあるのは、財布と携帯電話、そしてこれから逢いに行く人の家の場所が記された地図だけ。初めての土地で、似たような家が並ぶので何だか不安を感じた。

 少し行ったところに、何かの古い商店があるようだった。看板を兼ねている大きな庇があった。そこに行こうと思い、少し駆け足で進もうとした時だった。

 ポツリ、と手に持っている地図に大きな雫が落ちてきた。じわりと地図の文字が滲む。急いで服で拭いたが、掠れて読みにくくなっただけだった。だが、残念に思う暇はなかった。一瞬にして辺りに雨の湿った匂いが充満する。駆け足は、大きく速度を上げ、商店へと急いだ。稲妻が空を駆けた。


 庇に入る時には、もう雨がだいぶ強くなっていた。

 だいぶ服を濡らしてしまったと悲嘆に暮れながら、毒付くように空を見上げる。鳥をも落としそうな雨だった。閑静な住宅街に大きな雨音に包まれていた。ビニール製の庇では、ドラムを鳴らすかのようにでたらめな打音が響いている。吐いた息のようだった熱気が、雨に落とされ湿り気のある気持ちいいと感じる空気へと変わっていた。暗くなった空に瞬くような光が雲を照らし、轟音を響かせた。

「ヒドイ雨だ」と、内に溜まっていた様々な感情を吐き出すように独りごちる。


「――そうですね」


「え――?」

 突然、冷たい美しい声がした。

 声の方へ振り向くと、そこには石膏で芸術家によって造られたような美しさを持つ女性がそこにいた。女性の肩や長い腰まである髪は、だいぶ濡れていて、佐久間の後からこの庇に入ってきたのだろう。しかし、そんな人が入ってくるような気配は微塵も感じることはなかった。この大雨の音で足音が消えていたのだろうか、などと思案に耽って訝しんでいるのがわかったのだろう。女性は、神妙な表情を崩し、嫌味のない苦笑いを浮かべた。

「すみません……」

 思わず、謝ってしまった。彼女の姿はふんわりとした乳白色の長いワンピース。肩に背中の部分が羽のように長い、首の辺りに紐でとめるように出来ている薄い黄色のポンチョを着ているだけの簡素なもの姿は、あまりにも神秘的なものを感じた。体の前で伸ばした両手を握っている立ち姿は、この嵐のような雨の中で、別世界のようで儚げな現実感のない清楚さだった。彼女の後ろにある古びて錆びている箇所もある降りたシャッターとの恐ろしいほどのギャップがあった。

「いえ。……いきなり声かけたのが悪かったですから」

「い、いや……」

 言葉に詰まった。柔らかな表情でそれでいて申し訳なさそうに、こちらを見つめてくる黒き双眸に吸い込まれそうになる。真っ黒な瞳だった。純粋な黒が、胸の中に染みこむようなそんな気持ちであった。だが、その黒はただ綺麗なものではなく、どこか空にかかる積乱雲のような何か隠れているのではないかと思わす、そんな印象であった。ふいに、驚いたように彼女は笑う。それに気づいて、初対面の相手、しかも女性に対し瞳を覗きこむように見つめるなどと、なんとも恐れ多いことしたものだと、バツが悪くなり目を空へ逸らす。顔に熱がこもる。

「雨、すぐ止みますでしょうか」

 それは独り言のようにも聞こえたが、肩身の狭い思いをするのもまた、恥ずかしいものであると思い、

「どうでしょう。三十分ぐらいじゃないですかね」と彼女へは振り返らずに答えた。

「そうですか」

「何か、用事があるのですか?」

 あの冷たさを感じる美しい声が残念そうに聞こえた。つい、用事など聞いてしまったが、聞いてもよかったのだろうかと佐久間は一入の後悔が募った。だけれど、彼女は気を悪くした印象を背中には受けずに返答がきた。

「ええ、大事な用なのですが。ですが、この雨では、……はムリですね」

 強い風が突然吹き、それと一緒に雨粒が左半身を中心にかかった。そのタイミングで言われた彼女の言葉を聞くことができはしなかった。頬についた水滴をシャツの袖で軽く拭きながら、佐久間はもう一度彼女の方へと向き直った。

「大丈夫ですか?」

 まず、彼女が佐久間の様子を見て聞いてきた。とても驚いた様子らしく、くるり、と瞳を丸くしている。その様子は、二十代前半に見えた彼女を幼く学生のような雰囲気を出していた。もう一度見て、改めて佐久間は、絶世の美女という存在を肯定してしまった。浮世離れした表情に口ぶり、どこかのご令嬢を思わすが、それではどこか説明を付けられないような雰囲気も醸し出し、それがまた彼女の魅力的な部分でもあった。

「大丈夫です。あなたには、よかった。かからなかったみたいですね」

「あなたの陰になる位置でしたので……。すみません」

「そんな、謝ることではないでしょう。この雨が悪いんですし」

「そうですか……。ところで、あなたはどんなご用事で?」

「俺、ですか? 俺は……」

 言葉に迷った。佐久間は恋人(ヽヽ)に逢いに来ている。だけれど、なぜかそれを言うのは(はばか)られた。言葉を濁すように、友だちに会いに、と答えただけだった。彼女は佐久間の戸惑った様子にも気にもしていないようであった。

「実は、私の用事もある人に会いに行くんでしたけど、この雨ではムリかもしれないですね」

 初めは、嬉しそうにして話しだしたが、すぐにどこかさみしげに聞こえた。それがまた、佐久間の胸を踊らせる。どうしてこんなにも彼女に対し、惹かれるのか理由は定かではなかったが、佐久間はこの初恋のような胸のときめきを楽しんだ。それと同時に、彼女の言った言葉に引っかかりを覚えた。まるで雨が降ったから会えなくなるかのような言い回しにだった。

「どうしてですか?」

「え? あ、少し、事情があるので……」

 彼女は、佐久間の問に自分で発した言葉を思い出したらしい。そして口に手を当てて驚き、恥ずかしそうに具体的な部分を隠した。



 雨はその勢力が衰えず、降り続けている。佐久間は、激しくなった雨を避けるようにシャッター際まで下がった。

「結構、止みませんね」

「そうですね。……えっと」

「さ、佐久間です。何ですか?」

「あ、すみません。佐久間さんは、お時間、大丈夫なんですか?」

「この雨ですから、相手もわかってくれると思いますし、大丈夫だと思いますよ。あんまり長く続くようであったらメールしますし」

「メール……ですか」

 メールという言葉に、彼女は初めて聞いた言葉かのような反応を示した。佐久間は内心驚いていたが、お嬢様というのは世間に疎いものな、と勝手な推測を建て納得した。

「佐久間さんは、雲の中に何かがいると思ったことはありませんか?」

 突然の話題に、戸惑いながらも佐久間は答えた。

「雲の中に……って、ガリバーのですか? アニメの方ですか? 子供の頃は、あのアニメ見てからそういう妄想は良くしていましたね。入道雲の中には、古城があって世界中を旅しているんだ、とかSF噛ったときは宇宙人の監視船の擬態かもとか」

「そうですか。何だか嬉しいですね」

 何が嬉しいのだと佐久間は思ったが、朗らかに笑う彼女の顔を見るとそれは、些末なことであると思い直した。

「雨に降られるのは勘弁してほしいですけど、この雲が空にあるのを見るのは、夏を感じるので好きですよ。わくわくしますしね」

「そうですね。雨に降られるのは勘弁ですね」

 それからは、無言が続き降りしきる雨音と、時折吹き付ける風に包まれながら佐久間は、童心に帰ったような自分の気持ちの整理をした。彼女は一体何者なのかについては、考えても仕方ないことであると認識し、だけれど、あまりにも浮世離れしたその様子は佐久間を戸惑わせた。己の名は言ったけれど、相手の名はまだ聞いていないことに気がついた。なんという名前なのだろうと、ふと彼女の顔を見た。タイミングがまずかったのだろう、ちょうど彼女もこちらの様子を伺うように顔を向けていた。目があった瞬間に気まずい空気が流れ、どちらかともなく小さな笑いが生まれた。

「そろそろ止みますね」

 空を見上げる彼女の視線を追うように張り出した庇の向こう側の空を見つめる。先程まで垂れ込めていた暗い雲は、だいぶ薄くなり空全体が白んでいた。太鼓のように打っていた雨も静かになり、雨がもうすぐ止むことを暗示していた。

「そうですね」

 一言。佐久間が返すと彼女はまた綺麗な微笑を湛え、ほっと肩の荷が下りたかのような空気を出した。それから五分と立たない内に雲の切れ間から、あの強い日差しが差し込み、光線が雲の影に映しだされ何かの祝福のような空模様になった。わずかに残る霧のような小さな雨粒が、拭きあげるような風に飛ばされ綺麗に反射し、空を舞った。

 もう雨は降ることはないだろうと、佐久間が一歩。雨宿りをしていた古びた商店の庇を出て夏のうだるような日差しが佐久間の目に入り、思わず目を伏せた。

「佐久間さん、ありがとうございました。また会えることを祈りましょう……」

 あの美しく冷たい声が耳に染みこむ。庇の方へ振り向き、彼女を見る。目に入った光で世界が白んで見えた。何回か瞬くとそこには、妖精が存在していた。佐久間はそう直感しただけで、事実とは違うかも知れなかったが、佐久間にはそう感じた。彼女の周りに燐光が生まれ、半透明な羽のようなものが見えたのだ。そして、次の瞬間には、風とともに消滅した。何が起きたのか理解ができなかった。だけれど、こみ上げてくるのは、笑いだった。驟雨のあと誰もいない何の変哲もない住宅街で彼は笑った。

 空には大きなアーチを描いた虹があった。


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