5.隣人から知らない香りがします。
『』は英語での会話、「」は日本語での会話になります。
ふわりとローズの香りがした。
「クラーク先生、珍しい香りがしますね。」
「そうかい?」
ちょうど石田さんも感じたらしく、首を傾げながらエリオットに聞いていた。「花…バラの香りのような。」と鼻をヒクヒク動かしながら話す彼女に、彼は自身の体をすん、と嗅ぐ。その華やかな香りにすぐに見当がついたようで、ああと彼は顔を上げた。
「友人の香りだ。昼食を共にしていたから、香りが移ったんだろう。」
「へぇ。だからお昼は外に出ていらっしゃったんですか。」
「まぁね。」
だそうです、とこちらにアイコンタクトをとる石田さんに苦笑する。私が大学にお邪魔する時は、いつも彼からランチの誘いがあったから。今日はそれがなく、昼に姿を消していたから。ちょっと石田さん、アイコンタクトが長い。そもそも毎回約束してないし…。お互い別々に食べていても不思議じゃないでしょう。
「友人は日本の方ですか?」
「いや、向こうだよ。今仕事で来日してるんだ。」
アメリカの友人。そう話す彼の姿はどこか嬉しそうにしていた。やっぱり故郷ほど恋しいものはないよなぁ、と感じる。仕事とはいえ言語や食事、全てが違うここへ来ているのだから。
ローズの香りがエリオットを包んでいる。仲が深まるにつれて知ったことの一つ。それはエリオットに香水をつける習慣がないこと。コーヒーと、ペーパーノート、それに彼が使っているという海外製の少しウッドな香りのボディーソープ。常に身に纏っているその香りたち。そこに、知らないローズの香りが入り込んでいた。
瑞々しく、濃密な香り。
「…クラーク先生。いま平気ですか?」
「問題ないよ。どうした?」
「ここの翻訳が…。」
もやりと心の中でなにかが生まれた。
考えている時ほど、何か手を動かしたくなる。
そんな気質の私はマンションに帰ると、椅子に腰をかけることなくすぐにキッチンへ向かった。部屋中には焼き上がったマフィンの香りが充満している。うん、いい香りだ。料理をすると1LDKの部屋はすぐに料理の匂いに包まれる。それが私は心地よさを感じて、嫌いではない。とはいえ、染み付いてしまったら困るから窓は少し開けた。
ぴゅうと入り込む冷たい風に身を縮ませる。何か温かいものが飲みたい。せっかくならドリンクを入れて、マフィンを楽しもうかな。
「あ、エスプレッソ、もう無かった…。」
買い足すのを忘れていた。少し迷った後、コートを手に取る。紅茶もあるけど今はラテが飲みたい気分。近くのコンビニでカフェラテを買っちゃおう。ついでに夜ご飯もコンビニでいいかな。そんな怠惰な考えと一緒に家を飛び出した。
12月の夜はかなり寒い。
温かいラテを両手で包み込みながら、駆け足でマンションへ向かう。冷たい風が首元に送り込まれて、体が震えだす。面倒くさがってマフラーをつけてこなかった後悔が芽生えた。マンションに近づくごとに早くなる足。はやく部屋で暖まらないと。そんな足もマンションの前で止まってしまった。
重なる影。ブロンドの髪と、淡いブラウンの髪。
「…Well then, see you, Elliot.」
「Yeah. Get home safe, okay?」
タクシーに乗る女性へ手を振り続けるエリオット。その瞳は親愛を含めたような瞳だった。私にむけるものとは違う。そう、私に向けるものとは。あれ?私、今ーーーー。
「…ユイ?」
びくりと揺れる体に沈みかけていた思考が浮上する。クリアになった視界には、こちらを見て目を丸くする彼がいた。どうしてここに、と近づいてくるエリオット。仕事中に見たままのセットされた髪に少しホッとしてしまった。
「夕食を買いに行ってたの。」
「そうだったんだね。でもあたりは暗いから気をつけるんだよ。」
「もちろん。」
隣に並んだエリオットと一緒にマンションへ足を向ける。あ…この香り、ローズだ。瞬間、先ほどの女性の姿が過ぎる。そうか、あの女性が香りの持ち主だったのか。
「…華やかな香りがするね。」
「ああ、ローズだろう?さっきまでチャーリーといたからかな。」
「チャーリー?」
随分親しそうに呼ぶのね、と出そうになる言葉を押し留めた。
「…今日、ランチをした友人?」
「ああ。渡したいものもあったし、家に来てもらったんだ。」
「へぇ。」
渡したいものってなんだろう。知りたくなったけど、口をつぐんだ。なんだか私から聞くのは嫌だったから。悴んだ指を動かしながら、エレベーターを待つ。ふと、手元に影がかかって顔を上げた。
「…ユイ、なんだか甘い香りがするな。」
「ひっっ。」
息がかかるくらいの距離に彼がいて、思わず変な声が出てしまった。なんだ、ひって。恥ずかしくなり顔に熱が集まる。ちょうどきたエレベーターに急いで乗りながら、つむんでいた口を開いた。
「さ、さっきまでマフィン焼いてたから。」
「マフィン!美味しそうだ。」
「…たべる?」
無意識に言っていた言葉にエリオットは一瞬間を開けた後、すぐに「いいのかい?」と声を出した。あれ…強引過ぎたかな。落ち着いた声に何故か心が焦ってしまった。
「たくさん作ったから…。」
「ぜひ食べたいな。ユイの手作り。」
前のめりで笑う彼に焦っていた心が吹き飛んだ。
***
エリオットの手がける研究論文の翻訳も、終盤に近づいてきた。並行して行っていたプレスリリース用の文章も最終確認の段階に入り、ゴールは目前だった。
「…うん、いいね。」
エリオットからの評価を聞いて、体から緊張が抜けていく。ああよかった。彼はノーという時はしっかりと言うから、今回はちゃんとOKだったらしい。
「データを改めて送ってくれるかい?佐久間教授にも確認してもらおう。」
「承知しました。」
「ありがとう。」
その後、次回の予定を決めてオンライン会議から退出した。固まっていた体をほぐし、キッチンへ向かう。冷凍していたマフィンをトースターで温め直している間、頭を休ませる。
マフィンを渡した彼はとても嬉しそうに笑っていた。チョコチップ入りだと知ると、「どうして私がチョコレートを好きだと知っているんだ?」と惚けて、笑いが込み上げてしまった。貴方のデスクには、いつもコーヒーとチョコレートが並んでいるから、なんて言わなかったけど。
「あのお店、フィッシュがとても美味しかった。」
「そうね。最高だった。」
彼は食の好みがはっきりとしている。口に合うものは素直に美味しいと言うし、合わなかったものは少し眉を寄せて「大人な味だ。」と言う。だけど少しずつ日本の味付けにも慣れてきたようで、最近は和食も好んでいるそうだ。箸の使い方も上手く、周囲をよく驚かせていた。
今日は和食の居酒屋で食事を楽しんだ。お刺身にはまだ緊張感があるという彼だったけど、最後には美味しそうに食べていた。何事にもチャレンジする姿勢のエリオットには素直に尊敬する。私にも新しいことに挑戦するような機会は今後、あるのだろうか。
「この前のマフィン、美味しかったよ。」
「本当?良かった。」
「Elliot!」
流暢に呼ぶ彼の名前が聞こえ、振り返る。その瞬間漂った香りに一瞬にして記憶が蘇った。濡れた明るいブラウンの髪を揺らし、こちらに駆け寄ってくる女性。嬉しそうに笑っており、エリオットに軽くハグをした。柔らかなローズの香りが私たちを包み、心がざわりとする。
『チャーリー!』
『まさかここで会うとは思わなかったわ。』
『本当に。ここへはどうして?』
『仕事仲間と夕食を食べに行ってたの。あなたは?』
『私もだよ。』
『そうなの…あら、あなたは?』
私を見るグリーンの瞳にどきりとする。ローズの香りが似合う、とても綺麗な女性だった。
『初めまして。彼の仕事仲間のユイよ。』
手を差し出すとぱちりと大きな目をさらに開いて、花開くような笑顔を魅せた。
『ユイ!会えて嬉しいわ!シャーロット・グレース・ウィットマンよ。気軽にチャーリーって呼んで。』
『チャーリー。よろしくね。』
『ユイは英語が話せるの?』
『少しね。』
『チャーリー、ユイは堪能だよ。翻訳の仕事をしているんだ。』
『まぁ!すごいわ!』
興奮した様子でエリオットの腕を叩くチャーリー。その白く綺麗な手が、逞しい腕に這う様子を見てさらに心がざわつく。遠くからチャーリーを呼ぶ声が聞こえた。どうやら仕事仲間が呼んでいるようである。そちらにチャーリーが言葉を返し、こちらは振り向いた。
『もう行かなくちゃ。ユイ、また今度ゆっくりとお話ししましょうよ。』
『…ええ、ぜひ。』
『楽しみにしてるわ!エリオットもまたね。連絡するわ。』
『ああ、待っているよ。』
手を振って走り去る彼女を見送る。隣に視線を移した。
「(………あ、)」
その時の彼の、瞳は。
***
「あの、落としましたよ。」
振り返るとリュックを背負った男の子が立っていた。右の手のひらには、シルバーのリング。
「…全然気づかなかった。拾ってくれてありがとうございます。」
「いえいえ!合ってて良かったです。」
受け取って指へはめる。ネットで買ったリングだったが、少し緩かったようだ。気をつけないと。改めて目の前の青年を見る。
「あの、最近大学にいますよね。」
「え、ええ。」
「どこの学部なんですか?」
爽やかに笑いながらこちらへ問いかける青年を見て、思わず苦笑する。これはもしや、興味を持たれてる…?その瞳は爛々と輝いていて私を視界に収めていた。どうしようかな、と内心考えながら「ごめんなさい、生徒じゃないの。」と伝えた。
「え、そうなんですか。先生とか?」
「うーん…仕事をしにきてるって感じかな。」
「へぇ!」
あの、と続く声。
「名前ってなんて言うんですーーーーー」
「ああ、探したよ。」
大きくないのに、空間に響いて聞こえる重低音。カツンと響く革靴の音。大きな歩幅で近寄り、熱くて大きな手が私の肩を抱く。ふわりと私を包み込むコーヒーの香り。
「約束の時間なのに、現れないから。今日はディナーへ行く約束をしていただろう。」
「あ、えっと…クラーク先生?」
「Hello.会話中にごめんね。彼女は私のツレなんだ。」
きっとにこやかに笑っているんだろう…意図的に柔らかくしているような声色だった。だけど、瞳はきっと。
「あ、そうだったんですね…。引き止めちゃってすみません!」
「…気にしないで。指輪、拾ってくれてありがとう。」
「大丈夫です!それでは!」
ぺこりと腰を曲げたあと、走り去っていく青年。その後ろ姿を見送り、隣の存在に意識を戻す。少し顎を上に上げて、見上げる彼は。
「…ねぇ、名前を教えようとしてた?」
「…あ、な、名前?」
「そう。今の彼、聞こうとしてた。…聞かれてたら答えてた?」
「…まぁ。名前くらいなら。」
口角が下がり、瞳は私だけを捉えている。すこん、と表情が抜け落ちたような。彫刻のような綺麗な顔を無表情にしていた。
「彼、ユイの名前を知る必要ある?」
ぞくりと背筋に何かが走った。それに気がついた時、思わず息を呑む。私のことをじとりと見つめ続けた後、エリオットは「さぁ、研究室に行こうか。」とにこりと笑って言った。肩を掴む手のひらは熱かった。
「エリオットは随分愛情が深いからね。」
ハーパー先生は笑いながらコーヒーをコップに注ぐ。想像と一致する答えに、私は苦笑が浮かぶ。はい、と渡されたコーヒーはいい香りがしている。
「それは国柄?」
「んー、ストレートに愛を伝える点では確かにそれもあるね。だけどエリオットはより、だと思うよ。」
「より、かぁ。」
今までの姿を思い返しながらコーヒーを口に運んだ。
「俺は彼とは、ここに来てからしか知らないけれどね。毎日ユイのことを思っているよ。」
さすがにそれは大袈裟、と言おうとしたけれど。彼の姿を思い返して、口を閉じた。
本日の打ち合わせが終わり、荷物をまとめて研究室を出る。オンラインでも良かったけど、ハーパー先生に渡すものもあったので伺ったのだった。今日はこの後予定がある。目的地に向かうため、電車に飛び乗った。
「ジェイソンに何を渡したの?」
「本よ。日本の作家の本。ハーパー先生が探してたみたいで。」
「へぇ。ユイは本が好きなの?」
エリオットはそう言いながら、おでんを口に運んだ。選ばれたのは大根で、少し熱そうにしている。美味しい?と聞くと、最高だね。とのこと。
「本を読むのは好きよ。エリオットは?」
「私もだ。ただ、こちらのものは論文以外で読んだことはないな。」
「何を読むの?」
「ミステリーかな。臨場感があって面白い。ユイは?」
「私もミステリーが多い。あとはエッセイとか。」
最近は私からエリオットへの質問も増えた。今までは彼からの質問に答えることや、コミュニケーションとして聞くことが多かったけど、最近は自然とエリオットへの質問が増えていた。それはつまり、私が彼に興味を示していることに他ならないのだけれど。
彼は質問を受けると少し考えるような表情をして、答える。丁寧に考えてからこちらへ伝えようとしてくれる。そんな彼と会話をする時間は、私の生活の中でとても楽しみな時間になっていた。
「…今度、私の好きな小説を渡しても?」
「貸してくれるの?」
「いや、返さなくていい。」
「え?」
「返さなくていいよ。君が持っている方が、安心する。」
それはどういう意味か。私はなぜかそれを聞かず、彼の瞳を見つめ返した。
おやすみ、と言いながら閉められたドア。手元には一冊の本。エリオットが「これが一番面白いんだ。」と言って差し出したものだった。少し厚みがあるが、読み応えがありそう。返さなくていいと言った彼は、本が私の手元に渡ると満足そうな顔をしていた。
部屋に戻り、デスクの上に本を置く。彼の匂いがするものが私の家にあることが、なんだか不思議だった。まるで彼がいるよう。
本棚を見ると、一冊分のスペースが空いていた。そこにあった本は好きな作家の詩集。これからはエリオットの本棚に並ぶだろう。空いたそのスペースに、エリオットから受け取った本を仕舞う。はは、ぴったり。
「…どうしようかなぁ。」
これから。
本のタイトルをなぞりながら呟いた。




