表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

5.隣人から知らない香りがします。

『』は英語での会話、「」は日本語での会話になります。



ふわりとローズの香りがした。


「クラーク先生、珍しい香りがしますね。」

「そうかい?」


ちょうど石田さんも感じたらしく、首を傾げながらエリオットに聞いていた。「花…バラの香りのような。」と鼻をヒクヒク動かしながら話す彼女に、彼は自身の体をすん、と嗅ぐ。その華やかな香りにすぐに見当がついたようで、ああと彼は顔を上げた。


「友人の香りだ。昼食を共にしていたから、香りが移ったんだろう。」

「へぇ。だからお昼は外に出ていらっしゃったんですか。」

「まぁね。」


だそうです、とこちらにアイコンタクトをとる石田さんに苦笑する。私が大学にお邪魔する時は、いつも彼からランチの誘いがあったから。今日はそれがなく、昼に姿を消していたから。ちょっと石田さん、アイコンタクトが長い。そもそも毎回約束してないし…。お互い別々に食べていても不思議じゃないでしょう。


「友人は日本の方ですか?」

「いや、向こうだよ。今仕事で来日してるんだ。」


アメリカの友人。そう話す彼の姿はどこか嬉しそうにしていた。やっぱり故郷ほど恋しいものはないよなぁ、と感じる。仕事とはいえ言語や食事、全てが違うここへ来ているのだから。

ローズの香りがエリオットを包んでいる。仲が深まるにつれて知ったことの一つ。それはエリオットに香水をつける習慣がないこと。コーヒーと、ペーパーノート、それに彼が使っているという海外製の少しウッドな香りのボディーソープ。常に身に纏っているその香りたち。そこに、知らないローズの香りが入り込んでいた。


瑞々しく、濃密な香り。



「…クラーク先生。いま平気ですか?」

「問題ないよ。どうした?」

「ここの翻訳が…。」


もやりと心の中でなにかが生まれた。







考えている時ほど、何か手を動かしたくなる。

そんな気質の私はマンションに帰ると、椅子に腰をかけることなくすぐにキッチンへ向かった。部屋中には焼き上がったマフィンの香りが充満している。うん、いい香りだ。料理をすると1LDKの部屋はすぐに料理の匂いに包まれる。それが私は心地よさを感じて、嫌いではない。とはいえ、染み付いてしまったら困るから窓は少し開けた。


ぴゅうと入り込む冷たい風に身を縮ませる。何か温かいものが飲みたい。せっかくならドリンクを入れて、マフィンを楽しもうかな。


「あ、エスプレッソ、もう無かった…。」


買い足すのを忘れていた。少し迷った後、コートを手に取る。紅茶もあるけど今はラテが飲みたい気分。近くのコンビニでカフェラテを買っちゃおう。ついでに夜ご飯もコンビニでいいかな。そんな怠惰な考えと一緒に家を飛び出した。


12月の夜はかなり寒い。

温かいラテを両手で包み込みながら、駆け足でマンションへ向かう。冷たい風が首元に送り込まれて、体が震えだす。面倒くさがってマフラーをつけてこなかった後悔が芽生えた。マンションに近づくごとに早くなる足。はやく部屋で暖まらないと。そんな足もマンションの前で止まってしまった。


重なる影。ブロンドの髪と、淡いブラウンの髪。


「…Well then, see you, Elliot.」

「Yeah. Get home safe, okay?」


タクシーに乗る女性へ手を振り続けるエリオット。その瞳は親愛を含めたような瞳だった。私にむけるものとは違う。そう、私に向けるものとは。あれ?私、今ーーーー。


「…ユイ?」


びくりと揺れる体に沈みかけていた思考が浮上する。クリアになった視界には、こちらを見て目を丸くする彼がいた。どうしてここに、と近づいてくるエリオット。仕事中に見たままのセットされた髪に少しホッとしてしまった。


「夕食を買いに行ってたの。」

「そうだったんだね。でもあたりは暗いから気をつけるんだよ。」

「もちろん。」


隣に並んだエリオットと一緒にマンションへ足を向ける。あ…この香り、ローズだ。瞬間、先ほどの女性の姿が過ぎる。そうか、あの女性が香りの持ち主だったのか。


「…華やかな香りがするね。」

「ああ、ローズだろう?さっきまでチャーリーといたからかな。」

「チャーリー?」


随分親しそうに呼ぶのね、と出そうになる言葉を押し留めた。


「…今日、ランチをした友人?」

「ああ。渡したいものもあったし、家に来てもらったんだ。」

「へぇ。」


渡したいものってなんだろう。知りたくなったけど、口をつぐんだ。なんだか私から聞くのは嫌だったから。悴んだ指を動かしながら、エレベーターを待つ。ふと、手元に影がかかって顔を上げた。


「…ユイ、なんだか甘い香りがするな。」

「ひっっ。」


息がかかるくらいの距離に彼がいて、思わず変な声が出てしまった。なんだ、ひって。恥ずかしくなり顔に熱が集まる。ちょうどきたエレベーターに急いで乗りながら、つむんでいた口を開いた。


「さ、さっきまでマフィン焼いてたから。」

「マフィン!美味しそうだ。」

「…たべる?」


無意識に言っていた言葉にエリオットは一瞬間を開けた後、すぐに「いいのかい?」と声を出した。あれ…強引過ぎたかな。落ち着いた声に何故か心が焦ってしまった。


「たくさん作ったから…。」

「ぜひ食べたいな。ユイの手作り。」


前のめりで笑う彼に焦っていた心が吹き飛んだ。




***




エリオットの手がける研究論文の翻訳も、終盤に近づいてきた。並行して行っていたプレスリリース用の文章も最終確認の段階に入り、ゴールは目前だった。


「…うん、いいね。」


エリオットからの評価を聞いて、体から緊張が抜けていく。ああよかった。彼はノーという時はしっかりと言うから、今回はちゃんとOKだったらしい。


「データを改めて送ってくれるかい?佐久間教授にも確認してもらおう。」

「承知しました。」

「ありがとう。」


その後、次回の予定を決めてオンライン会議から退出した。固まっていた体をほぐし、キッチンへ向かう。冷凍していたマフィンをトースターで温め直している間、頭を休ませる。

マフィンを渡した彼はとても嬉しそうに笑っていた。チョコチップ入りだと知ると、「どうして私がチョコレートを好きだと知っているんだ?」と惚けて、笑いが込み上げてしまった。貴方のデスクには、いつもコーヒーとチョコレートが並んでいるから、なんて言わなかったけど。




「あのお店、フィッシュがとても美味しかった。」

「そうね。最高だった。」


彼は食の好みがはっきりとしている。口に合うものは素直に美味しいと言うし、合わなかったものは少し眉を寄せて「大人な味だ。」と言う。だけど少しずつ日本の味付けにも慣れてきたようで、最近は和食も好んでいるそうだ。箸の使い方も上手く、周囲をよく驚かせていた。

今日は和食の居酒屋で食事を楽しんだ。お刺身にはまだ緊張感があるという彼だったけど、最後には美味しそうに食べていた。何事にもチャレンジする姿勢のエリオットには素直に尊敬する。私にも新しいことに挑戦するような機会は今後、あるのだろうか。


「この前のマフィン、美味しかったよ。」

「本当?良かった。」

「Elliot!」


流暢に呼ぶ彼の名前が聞こえ、振り返る。その瞬間漂った香りに一瞬にして記憶が蘇った。濡れた明るいブラウンの髪を揺らし、こちらに駆け寄ってくる女性。嬉しそうに笑っており、エリオットに軽くハグをした。柔らかなローズの香りが私たちを包み、心がざわりとする。


『チャーリー!』

『まさかここで会うとは思わなかったわ。』

『本当に。ここへはどうして?』

『仕事仲間と夕食を食べに行ってたの。あなたは?』

『私もだよ。』

『そうなの…あら、あなたは?』


私を見るグリーンの瞳にどきりとする。ローズの香りが似合う、とても綺麗な女性だった。


『初めまして。彼の仕事仲間のユイよ。』


手を差し出すとぱちりと大きな目をさらに開いて、花開くような笑顔を魅せた。


『ユイ!会えて嬉しいわ!シャーロット・グレース・ウィットマンよ。気軽にチャーリーって呼んで。』

『チャーリー。よろしくね。』

『ユイは英語が話せるの?』

『少しね。』

『チャーリー、ユイは堪能だよ。翻訳の仕事をしているんだ。』

『まぁ!すごいわ!』


興奮した様子でエリオットの腕を叩くチャーリー。その白く綺麗な手が、逞しい腕に這う様子を見てさらに心がざわつく。遠くからチャーリーを呼ぶ声が聞こえた。どうやら仕事仲間が呼んでいるようである。そちらにチャーリーが言葉を返し、こちらは振り向いた。


『もう行かなくちゃ。ユイ、また今度ゆっくりとお話ししましょうよ。』

『…ええ、ぜひ。』

『楽しみにしてるわ!エリオットもまたね。連絡するわ。』

『ああ、待っているよ。』


手を振って走り去る彼女を見送る。隣に視線を移した。


「(………あ、)」


その時の彼の、瞳は。




***





「あの、落としましたよ。」


振り返るとリュックを背負った男の子が立っていた。右の手のひらには、シルバーのリング。


「…全然気づかなかった。拾ってくれてありがとうございます。」

「いえいえ!合ってて良かったです。」


受け取って指へはめる。ネットで買ったリングだったが、少し緩かったようだ。気をつけないと。改めて目の前の青年を見る。


「あの、最近大学にいますよね。」

「え、ええ。」

「どこの学部なんですか?」


爽やかに笑いながらこちらへ問いかける青年を見て、思わず苦笑する。これはもしや、興味を持たれてる…?その瞳は爛々と輝いていて私を視界に収めていた。どうしようかな、と内心考えながら「ごめんなさい、生徒じゃないの。」と伝えた。


「え、そうなんですか。先生とか?」

「うーん…仕事をしにきてるって感じかな。」

「へぇ!」


あの、と続く声。


「名前ってなんて言うんですーーーーー」

「ああ、探したよ。」


大きくないのに、空間に響いて聞こえる重低音。カツンと響く革靴の音。大きな歩幅で近寄り、熱くて大きな手が私の肩を抱く。ふわりと私を包み込むコーヒーの香り。


「約束の時間なのに、現れないから。今日はディナーへ行く約束をしていただろう。」

「あ、えっと…クラーク先生?」

「Hello.会話中にごめんね。彼女は私のツレなんだ。」


きっとにこやかに笑っているんだろう…意図的に柔らかくしているような声色だった。だけど、瞳はきっと。


「あ、そうだったんですね…。引き止めちゃってすみません!」

「…気にしないで。指輪、拾ってくれてありがとう。」

「大丈夫です!それでは!」


ぺこりと腰を曲げたあと、走り去っていく青年。その後ろ姿を見送り、隣の存在に意識を戻す。少し顎を上に上げて、見上げる彼は。


「…ねぇ、名前を教えようとしてた?」

「…あ、な、名前?」

「そう。今の彼、聞こうとしてた。…聞かれてたら答えてた?」

「…まぁ。名前くらいなら。」


口角が下がり、瞳は私だけを捉えている。すこん、と表情が抜け落ちたような。彫刻のような綺麗な顔を無表情にしていた。


「彼、ユイの名前を知る必要ある?」



ぞくりと背筋に何かが走った。それに気がついた時、思わず息を呑む。私のことをじとりと見つめ続けた後、エリオットは「さぁ、研究室に行こうか。」とにこりと笑って言った。肩を掴む手のひらは熱かった。





「エリオットは随分愛情が深いからね。」


ハーパー先生は笑いながらコーヒーをコップに注ぐ。想像と一致する答えに、私は苦笑が浮かぶ。はい、と渡されたコーヒーはいい香りがしている。


「それは国柄?」

「んー、ストレートに愛を伝える点では確かにそれもあるね。だけどエリオットはより、だと思うよ。」

「より、かぁ。」


今までの姿を思い返しながらコーヒーを口に運んだ。


「俺は彼とは、ここに来てからしか知らないけれどね。毎日ユイのことを思っているよ。」


さすがにそれは大袈裟、と言おうとしたけれど。彼の姿を思い返して、口を閉じた。



本日の打ち合わせが終わり、荷物をまとめて研究室を出る。オンラインでも良かったけど、ハーパー先生に渡すものもあったので伺ったのだった。今日はこの後予定がある。目的地に向かうため、電車に飛び乗った。



「ジェイソンに何を渡したの?」

「本よ。日本の作家の本。ハーパー先生が探してたみたいで。」

「へぇ。ユイは本が好きなの?」


エリオットはそう言いながら、おでんを口に運んだ。選ばれたのは大根で、少し熱そうにしている。美味しい?と聞くと、最高だね。とのこと。


「本を読むのは好きよ。エリオットは?」

「私もだ。ただ、こちらのものは論文以外で読んだことはないな。」

「何を読むの?」

「ミステリーかな。臨場感があって面白い。ユイは?」

「私もミステリーが多い。あとはエッセイとか。」


最近は私からエリオットへの質問も増えた。今までは彼からの質問に答えることや、コミュニケーションとして聞くことが多かったけど、最近は自然とエリオットへの質問が増えていた。それはつまり、私が彼に興味を示していることに他ならないのだけれど。

彼は質問を受けると少し考えるような表情をして、答える。丁寧に考えてからこちらへ伝えようとしてくれる。そんな彼と会話をする時間は、私の生活の中でとても楽しみな時間になっていた。


「…今度、私の好きな小説を渡しても?」

「貸してくれるの?」

「いや、返さなくていい。」

「え?」

「返さなくていいよ。君が持っている方が、安心する。」


それはどういう意味か。私はなぜかそれを聞かず、彼の瞳を見つめ返した。




おやすみ、と言いながら閉められたドア。手元には一冊の本。エリオットが「これが一番面白いんだ。」と言って差し出したものだった。少し厚みがあるが、読み応えがありそう。返さなくていいと言った彼は、本が私の手元に渡ると満足そうな顔をしていた。

部屋に戻り、デスクの上に本を置く。彼の匂いがするものが私の家にあることが、なんだか不思議だった。まるで彼がいるよう。


本棚を見ると、一冊分のスペースが空いていた。そこにあった本は好きな作家の詩集。これからはエリオットの本棚に並ぶだろう。空いたそのスペースに、エリオットから受け取った本を仕舞う。はは、ぴったり。


「…どうしようかなぁ。」


これから。


本のタイトルをなぞりながら呟いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ