4.彼は静かに、確実に私の心に触れてきます。
「凄く素敵なお店だね。」
週末。マンションがある最寄駅の、反対出口に構えているビストロに私達はいた。小さなこぢんまりとした店で、木のテーブルとワインの香りが店内を包み込んでいる。エリオットは控えめに周囲を見渡していた。
「いい雰囲気よね。」
「ああ。しばらくこの街に住んでいたけど知らなかったよ。惜しいことをした。」
「ならこれから通わないと。」
「間違いないね。」
それなりに客もいるけれど、店内にゆっくりとした空気が流れているからだろうか。周囲と私たちの間に流れる時間もゆっくりと流れているように感じた。それが心地よく、私も何度か通っている。運ばれた白ワインで乾杯をし、オリーブや生ハムなどを摘む。美味しそうにワインを楽しむ彼の姿を見て安堵した。よかった、口にあったみたいだ。
「日本のワインも美味しいね。」
「本当に。最近は日本もワイン製造に力を入れてるらしいよ。」
「そうなんだ?ユイ、詳しいね。」
「友達がそういうのに詳しいの。」
よく集まる女子4人組のリコ。彼女は出版社に勤めていて、グルメ雑誌を手掛けている。彼女のおかげで美味しいレストランの情報は絶えない。ここも過去にリコに教えてもらっていたお店だった。
「へぇ、随分と素晴らしい友達がいるんだね。」
「ええ。」
「何の友達だい?」
「大学。」
エリオットとの会話は主に彼の質問に答える形である。私も彼に質問をすることはあるけど、圧倒的に彼からの質問が多い。最初は話題に困ってかな、と思っていたけど、これは違うとすぐに気がついた。私のことを全て知りたい、と物語る瞳。探究心は職業柄だろうか。知ってどうするんだろう、と思うようなことまで聞いてくるのは、よくわからないけど。
「エリオットは?こっちに来たのはいつ頃?」
「だいたい3年前かな。あのマンションに引っ越したのは半年前だけど。」
「そうなの?気が付かなかった。」
「挨拶に行こうとしたら、留守だったよ。」
最近だと思ってたのに、もう隣にいたんだ。半年前までは以前の依頼が大詰めで、怒涛の日々だったから記憶が薄い。
「だから、あの日に会えて良かったよ。」
「あの日?」
「初めて会った日。」
ポストに入っていたエリオット宛の葉書。そういえば、私たちの知り合ったきっかけはあれだった。挨拶をして、隣人であることがわかって。その日からだっけ。エリオットが私の生活に入り込んできたのは。
「まさか職場でも会うなんて思わなかった。」
「ユイが最初、素っ気ないから寂しかったよ。」
「言ったでしょ、仕事とプライベートは分けたいって。」
新しくテーブルに並んだピザを食べる。温かいものは冷めないうちに頂きたいのだ。とろりと伸びるチーズとフレッシュなトマトがマッチしていて美味しい。頬張ったあと、手を拭いているとエリオットがこちらをニコニコとしながら見ていた。…あんまりこちらを見ないでほしい。ワインを飲んだあと、話題を変えようと口を開いた。
「エリオットは向こうの大学を出ているの?」
「うん、そうだよ。」
「何を学んでいたの?」
「神経科学を専攻していたよ。それが興味深くてね。そのまま今に繋がる。」
エリオットの研究内容を思い出す。たしか、感情と言語処理の脳科学的な関係を研究されていた。専門的な分野なので理解ができないことが残念だが、彼からの説明を聞くと面白そうだと思った。大きな口でピザを頬張った彼を見る。ふ、ふたくち。すごい。
「日本語では“好き”を何度も言わない。でも英語では何度でも言う。その差を、脳はどう感じているのか。私はそれを研究しているよ。」
ユイも知っていると思うけど、と言いながら指についたソースを軽く舐めとる。その姿は決して卑しくなく、むしろ妖艶的な美しさを含んでいた。この男はやっぱり美形なんだ。油断していると、胸の動悸を早められるから気をつけないといけない。
「研究を終えたら、自国に戻るの?」
「…ゆくゆくは。」
「そう。」
予想していた通りの返事を聞いて、視線を落とす。ワインの水面にぼんやりと映る私は今、どんな表情をしているんだろうか。
「お礼って言ったのに。」
「私が払いたくなったんだよ。」
私がご馳走する気でいたのに、お手洗いに行ったタイミングでもう支払われていた。完全に油断してしまった私は頭を抱え、エリオットは黒いマフラーを首元に巻いている。
「それなら次はよろしく頼むよ。」
そうきたか。流れるように次の約束を取り付けられ、さらに彼へ一枚取られてしまう。伊達に経験豊富じゃない、この男。上手だ。完敗である。
「…次は必ず私が、だからね。ご馳走様でした…ありがとう。」
「どういたしまして。次回はどこに行こうか。」
機嫌良く歩き出す彼を見る。ひとつスペースをあけて隣を歩く彼は、私の歩幅に合わせて歩いてくれていた。長い足だから、もっと速く歩けるはずなのに。こういうところをスマートに出来てしまうのが、彼の魅力の一つだと思う。
「ねぇ、ユイ。」
「うん?」
ぴたりと止まった彼に名前を呼び止められ、振り返る。彼は穏やかに微笑んでいた。
「ーーーー私はユイのことを愛してるよ。」
白い吐息と共に吐き出された言葉。こんなにも美形な男に愛の言葉を贈られるなんて、一生に一度あるかないかくらいだろう。なんて、冷静に考えられるくらいに私の頭や心は落ち着いていた。
***
幼少期、父と母は離婚した。理由は父の浮気だったらしい。荷物をまとめて去ろうとしている父に、小さい私は泣いて訴えたけど、最後までこちらを見ることなく家を出て行った。
母は働いてくれていたけど、私が小学5年生になると少しずつ外泊が増えて行った。あの時は仕事、と言っていたけれど、思い返すと母は外泊が伴うような職種ではなかった。寂しくて、防犯のために持たされたキッズケータイを握りしめて眠った。母から連絡が来ても、すぐに気づけるようにと。中学1年生になって、母から「赤ちゃんができた」と言われた時に全てがわかった。後日、母は新しい養父と結婚した。
産まれた弟は可愛いかったけど、母に裏切られたと一度感じてしまった私は、新しい家族に馴染むことはできなかった。大学まで出してもらえたことは感謝している。できるだけ迷惑をかけないようにひたすらバイトをして、奨学金も借りたけど。
家事を一通りのことが出来るように仕込まれたのは、きっとこのためだったのだろう。社会人になって私が家を出ることに、誰も反対はされなかった。
元彼の智也は、社会人になって初めて付き合った人だった。会社の同期で、明るく優しい彼に惹かれた。男女ともに周囲に人が多い彼には、不安があったけれど、何も言わずにいた。…結局、後輩の女の子に惚れちゃったのか、関係を持っちゃったのか。フラれたけど。
いつしか恋愛には何も期待しなくなった。永遠の愛なんてわからないまま、友人の結婚式では笑顔で拍手をしているだけ。ドラマや映画の、情熱的な愛なんて知らない。情熱的なものほど冷めやすいのではないか、なんてどこか疑心的に思っている。
1人の人を愛し続けるなんて出来るのだろうか。私を含めて。そんなことを意味もなく、延々と考えて生きていた。
「ユイ、これ美味しいよ。」
「白身魚?ムニエルだっけ。」
「食べてみて。」
あれからエリオットとは週に一度、食事を共にしている。ディナーだったりランチだったりと時間は様々だけど、自然と次の約束をするようになった。ただ一緒に食事を楽しむだけの関係。取り分けてもらったムニエルを食べ、美味しいと伝えると目を細めて笑う。
「ユイは美味しそうに食べるね。とても素敵だよ。」
「…どうも。」
とろりとした瞳を隠すこともせずに、私と関わるエリオット。向けられた愛に、私は断ったはずだった。けど彼は今もこうして私を食事に誘い、愛を伝えている。かちゃんと手に持っていたフォークを置く。名前を呼ぶと、こちらを不思議そうに見た。
「…エリオット、やっぱりこういうのは今日で終わりにしようよ。」
「なんで?」
「…貴方の気持ちに答えられないから。」
「そんなことか。」
なんてこともないように反応する彼。
「前も言っただろ?私がただユイに愛を伝えたいんだ。受け取るも受け取らないも、ユイの自由だ。」
だけど、とエリオットは続ける。
「ユイが私との時間を好まないなら、無理はしないでいい。」
そのまま、次は何を飲む?と言ってメニューを渡してくる彼。ただ私が私の意思で、終わりたいと言えばいいだけなのに。なぜかその言葉が言えず、次の約束もしていた。




