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3.強引だと思っていた彼の、一面を知りました。



部屋に足を踏み入れた瞬間、思ったよりも“生活の匂い”がした。無機質な空間なのに、どこか温かい。コーヒーと木の香り、そして少しだけ紙の匂い。それが彼そのものみたいで、息を吸うのをためらった。それが初めて足を踏み入れた彼の世界の印象だった。

彼に促されて上着を脱ぎ、ソファに腰をかける。深いチャコールグレーのカラーは彼にぴったりだった。


「どうぞ。」


目の前にマグカップが置かれ、なみなみと注がれているコーヒーが良い香りを醸し出していた。ありがとう、とお礼を伝えて口に運ぶ。温かさが体に行き渡り、体に入っていた力が少しずつ解けていくのを感じた。


「これ、シップ。冷やしたほうがいいかと思うから。…袖、捲っても?」

「ありがとう。大丈夫。」


白くて長い指が、優しい力で私の腕を取り、ニットの袖を捲る。智也に掴まれていたところは赤く色づいており、痛みは続いていた。それを見たエリオットは湿布を1枚取り出して、腕に巻き付けるように貼る。


「湿布なんて持っているのね。」

「前、教授から頂いてね。救急キット…だっけ?全て貰えたから有り難かったよ。」


そう言った彼は私からサッと離れて、隣にあるベッドに腰をかけた。ソファの隣は空いているのに。私は今までエリオットがただ強引な男だと思っていたけれど、こういう優しさを知らなかった……いや、見ないフリをしていたのかもしれない。


「…本当にさっきはありがとう。」

「気にしないで。…彼がここに来たのは、今日が初めて?」

「うん。でもエリオットのおかげでもう来ないと思う。」


智也はプライドが高い人間だったから、今日のことはよほど嫌だったと思う。嫌なことは忘れようとするし関わらない、そういう一面があったから…。もう大丈夫そうだ、と胸を撫で下ろす。


「…彼、連絡がどうとか言っていた。」

「連絡…?…ああ。」


少し険しい顔をするエリオットに、思い返すと…智也が去り際に行っていた言葉が引っかかているようだった。


「前に電話来た時にまた付き合おうって言われたから断ったんだけど。そこから最近はずっと電話とメールが来てたの。全部無視してたけど。」

「ずっと?」

「うん、まぁ、でも3週間くらい…?」

「…最近、仕事は対面ではなくリモートだったのは?」

「ま、前に智也がこの辺りを歩いてるのを見つけたから…念のため出歩くのを控えようと思ってた。それにリモートで問題ない仕事だったし。」

「そうか…そうだね、気をつけてたユイは素晴らしいよ。…信じられないな、あの男。」


はぁ、と頭を抱えた彼はどこか怒っているように見えた。私にではなく、智也に。基本、レディファーストな彼は許せないのだろう。特に目の前で見てしまったから。もう終わったことだから、と伝えると「それでも許せないよ。」と苦虫を噛んだような顔をした。


「それにしても、タイミングよく会えたね。まだ研究が残っていたでしょう。」

「ああ、リナからユイがまだ大学に残っているって聞いてね。キリも良かったし一緒に帰ろうと思って後を追いかけたんだ。間に合わなかったけどね。」

「そ、そう………。」


彼は飽きずに私を誘おうとしてたのか。あんなにも連日お断りしていたのに。でも彼のおかげで、智也を追い払えたのも事実で。エリオットのしつこい一面に今回は救われたと言っても過言ではなかった。


コーヒーを飲む彼を見る。クリームカラーのニットの下には、逞しい体が隠れている。捲っている袖から見える腕も太く、正直、研究職には見えない体つきであった。引き寄せられた時の大きな手のひら。筋肉質な腕。どくりと胸が跳ねた。思い返すと、今でも。



「…エリオット、今週末は空いてる?」

「え?」

「お礼をさせて。…ディナーでもどう?」


私からの思ってもみない提案に、ぱちりと瞳を瞬かさせた。今更…かな。不安や緊張からか、心臓が少し速く走りだす。じっ、とエリオットを見つめると、彼ははっとした顔つきになった。


「もちろん!今週末ね、空いているよ。ぜひディナーへ行こう!」


大きな体で精巧な顔つきの私より年上な男性。だけど目の前にいる彼は子どものような輝いた笑顔で嬉しそうにソワソワしている。普段はあんなに落ち着いているのに。なんだか可愛い…かもしれない。初めて彼につられて、頬が緩んだ。




***



あんなにも鳴り響いていたスマホは、すっかりと大人しくなっている。あまり気にしないようにしていたけど、無意識にストレスが溜まっていたみたいで。智也から解き放たれた私は、生き生きとしていたと思う。隣人で職場が一緒のエリオットが言っていたから、悔しいけど…間違いない。


「エリオットとついにデートだって?」

「ハーパー先生、お礼にディナーへ行くだけです。」

「すまないすまない!そう睨まないでくれ!」


私を揶揄うことを楽しんでいる目の前の男性にため息をつく。最近は佐久間教授の翻訳依頼を終え、次はハーパー先生の論文翻訳に取り掛かっている。そのため関わる機会も多くなり、雑談も増えた。今日は対面の打ち合わせのため、彼の研究室にお邪魔している。


「だからここ最近のアイツは浮かれてるのか。」

「…そうなんですね。」

「分かっているくせに。」


彼はエリオットと同郷らしく、仲が良いらしい。確かに約2人で食事にも行っているイメージであった。…性格は真逆だと思うけど。


「エリオットの方は順調?」

「…後少しです。」


残念ながら、エリオットの依頼はまだ続行中である。締め切りには余裕があるから良いが、彼曰く『翻訳ではなく解釈の問題。』とのこと。単語のひとつであってもチェックに引っかかり、その度にディベートが始まる。とは言っても半分は終わっているので、あとは時間の問題だろう。頭を悩ます私と、穏やかに笑みを携えながら話す彼にハーパー先生や佐久間教授は毎回笑ってくれていた。…少しは助け舟を出してくれてもいいと思うけど?


「アイツのこだわりは研究室の中でも特に強いからなぁ。折れずに頑張ってくれよ。」

「それは頑張りますけど…。」


ドアがノックされ、言葉が止まる。ハーパー先生の許可が降りて開いたドアからは、話題の人物であるエリオットが立っていた。先ほどまでパソコンをしていたのだろうか。眼鏡をかけている姿はとても理知的である。大学内でもファンが多いというのは石田さん情報である。こんなに美形ならそうだろうな、と疑う余地もなく納得であった。


「ユイ、来ていたんだね。連絡してくれれば良かったのに。」

「お疲れ様です。今日はクラーク先生との打ち合わせはないので、連絡は必要ないかと。」

「相変わらずフジワラさんはドライなんだな!見事にフラれたな、エリオット!」


ハハハッと笑いながらハーパー先生はエリオットの肩に腕を乗せる。長身で彫りの深い顔の2人が並ぶ姿は、海外の雑誌のようである。ハーパー先生にもファンがいるんだろうな。今度石田さんに聞いてみよう。


「そこが彼女の魅力なんだよ。次は連絡をくれるかもしれないさ。」

「そうだな、女神は気まぐれだから。次回にかけようぜ。」

「仕事に必要であれば事前に連絡しますから!」


海外特有のゴーイングマイウェイな気質というのだろうか、それとも彼らの性格ゆえなのか。毎回彼らに振り回される私は、どんどん2人と仲が深まってきていると思う。不可抗力。

エリオットもそうだが、ハーパー先生は人の懐に入るのが上手い。日本語も流暢で、日本人スタッフともすぐに溶け込むタイプだと聞いた。情報源、石田さん。


「まぁ今度はエリオットだけでなく、俺ともディナーに行ってくれよ。」

「ジェイソン。それは私の前で聞き捨てならないな。」

「もう私帰りますよ…。」


まだ私にはこの2人をあしらうコツを掴めていない。ああ、佐久間教授、助けて。笑顔で親指を立てる教授の姿が頭をよぎった。そうだ、あの人もわりと愉快犯なところがあった。



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