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2.貴方の全てが私をざわつかせます。



「“missing someone”……つまり、“誰かを恋しく思うときの脳反応”?」

「ええ。翻訳は“恋しい”でも“寂しい”でも、“愛しい”でもいい。ただ、どれが一番“伝わる”と思う?」

「……文脈によります。」

「文脈よりも、感情を優先してほしいなぁ。」

「研究者なのに、ずいぶん感情的な注文ですね。」

「君が訳すなら、それくらい本気で伝えたいなぁ。」


うふふ、ははは。zoomの画面には笑顔の私たちが映っている。きっと私のこめかみには青筋が現れてることでしょうけど。研究室へお邪魔したのは初回のみで、後はいつも通り在宅で行なっている。そのため数回ある打ち合わせもすべてオンラインで行っていた。イケメンの顔の下には"Elliot Clark”の文字。記念すべき1回目の翻訳依頼はエリオットの論文だった。


家だけでなく職場でも関わることになるなんて。本当に頭が痛い出来事である。せめてオンラインなことが救いだった。しかもこの男、中々に厄介なニーズを持っている。論文のデータを拝見させていただいたところ、素人目にはわからないがきっと素晴らしいものなのだろう。だけど彼が求めているのはただ翻訳するのではなく、“感情の再現”をリクエストしたいらしい。おかげさまで毎日頭を抱えている。


「まぁ仮期限まであと2週間はある。むしろここまで翻訳してくれたことが誇らしいよ。ユイは素晴らしいね。」

「まだまだ理解は追いついてませんが…。それでは今回の点を踏まえたものを、期限までに提出いたします。」

「よろしく頼むよ。ああそう、ユイは今晩空いてる?ディナーなんてどうかな?」

「すみませんが、予定がありますので。」

「…予定?一体誰との?」

「プライベートなのでこれ以上はお答えできません。それでは先に退出しますね。」


何か言いたげなエリオットにお礼を与えて終了する。なんだかいつもの打ち合わせより倍、疲労感を感じる。体をほぐしてコーヒーに手を伸ばした。

エリオットはあれから週に2.3回はなにかしらの用で訪問してくるようにもなり、その度にランチやディナーに誘われる。それら全てをお断りしているけど、段々と罪悪感も生まれる。いやいや、ここで変に関係持ちたくないし。だって職場の人で隣人なんだから。

よぎった考えを掻き消して、作業を再開する。こういうのは早めに手をつけておくに限るのだから。





疲れた体と心にビールが沁みる。焼き鳥も頬張ればもはや口の中はパラダイス。お店で食べる焼き鳥はなんでこんなに美味しいんだろうと頭を抱えたくなる。予定とはおひとり様を楽しむこと。会社勤めじゃなくなった今、自分でこういう予定を作らなくちゃ中々家から出なくなってしまうから。定期的にこうして一人飲みを楽しむことにしていた。


カウンター席だから店員さんとの距離も近くて、注文も容易い。それにお店も空いていたから、角の席でのんびりと楽しもう。スピードメニューで出てきたきゅうりや味玉をつつきながら、追加のビールを頼む。


エリオットはきっと優秀な研究者なんだろう。しかも、かなりの。神経科学を専門としているとのことで、アメリカの大学でも一目置かれていたらしい。というのは、佐久間教授に教えてもらった。素人目から見ても丁寧かつ論理的な文章だった。ただ、彼のリクエストのハードルが高い。今はその点に悩まされていた。穏やかに微笑みながらこちらに問いかけてくるのだ。「ユイはそう解釈するのかい?」と。


とはいえ私も仕事で妥協をしたくない。こちらも責任を持って行なっている。なんだかエリオットの手のひらで転がされてるような気もするが、毎日全力でデータに向き合っていた。おかげさまで眼精疲労と肩凝りが酷い。帰りにアイマスクを追加購入しないとーーーー。


「ユイ?」


ああ、エリオットの幻聴まで聞こえてくるなんて末期かもしれない。そろりと聞こえた方向を見てみると、シャツにチノパン、ジャケットをおしゃれに着こなしている、ブロンドの美形がこちらを見ていた。…どうしてこうも会ってしまうのか…。美形ことエリオットは長い足で向かってくる。


「奇遇だね!まさかここで出会えるとは。ユイは誰かといるの?」

「ひとりですけど…エリオットは?」

「私はジェイソンと。一緒にどうだい、ユイ。」

「行きません。」


だから早く隣を退いてください、定員が声をかけようか待機してますよ。ビールを飲みながらこちらを見ていた店員に気にしないで、と手を振る。無事にサインを汲み取ったようで、仕事に戻っていた。エリオットはニコニコしながらこちらを見ている。…いつまでここにいるんだろう。


「今日はどのくらいここにいるの?」

「未定です。」

「部屋まで送らせてくれないかい。」

「大丈夫です。」


さ、ほら。ハーパー先生が待っているんでしょ、と背中を押せば、「仕方ない。次は私と行こうね。」とようやく去っていく。その後ろ姿を見て、ため息をついた。…どうしてあの人は私に絡んでくるのか。頼れそうな隣人と仲を深めたいのかもしれない。…私には必要ないけど。新しく注文した焼き鳥を頬張り、グラスに残ったビールで勢いよく流し込んだ。






「足元に段差があるから気をつけて。」

「それくらいわかるから…。」


もはやこの状況に頭を抱えたくなる。30センチも上あるイケメンの顔を見て、幻覚じゃ無いことに頭痛がする。


「なんでここにいるってわかったんですか…。」

「偶然だよ、偶然。」


穏やかな笑顔のエリオットにパンチしたい。最寄駅のドラッグストアから出たら、笑顔で彼がいるなんて。店を出た時にまだ飲んでいるようだったから油断した。結局隣に並んでマンションへ向かっている。


「…エリオット。」

「なんだい?」


私が名前を呼ぶと、彼は口角を上げてこちらを見る。それは少し嬉しそうな様子が感じ取れて、彼を鬱陶しがっている私に少し罪悪感が生まれた。


「…私、仕事とプライベートは分けたいタイプなの。」

「うん?そうだね、名前の呼び方や話し方が違う。」

「そ、そうなんだけど!…私、仕事で関わる人にはプライベートでも深く関わらないようにしてるの!だから偶然とはいえこういうのは困る!」


言った、しっかりと言ったぞ。

気まずくて彼の目を見て言えなかったけど、伝わってるはず…。恐る恐るエリオットを見ると、


「うーん、ユイはそうなんだね?でも、無理。」

「…えっ?!」


このイケメン、笑顔で言いやがりました。目を見開いて驚く私に「はは、目がこぼれ落ちちゃうよ。」とさらに笑っている。なんだこの男、宇宙人か!!ぽかーんとしたままの私に、彼は言った。


「私、ユイに一目惚れしたから。好きな子とはいつも関わりたいな。」

「はっ?!」

「その驚いた顔もカワイイね。」


くらりと眩暈がするのは、絶対に目の前の男が原因だ。ああ……誰かこの男のいかしてる顔面にパイでも投げてほしい。






***






「good morning。珍しいね、朝から外へ出かけてるの。一緒にコーヒーでもどう?」

「大丈夫です。」

「ユイはここの見解についてどう思う?キミの意見を聞いてみたいな。」

「専門外なので私ではお答えできません。」

「お疲れ様。ディナーはもう食べた?これからどう?」

「私今日納豆ご飯の気分なので家で食べます。」


日々の熱烈なアピールに眩暈が止まらず、エリオットに手も足もでない状況が続いた。どれだけNOと伝えてもアピールするのは自由だよね、というスタイルで愛を伝えてくる。そして私を悩ませているのはそれだけではなく。


「…また?」


スマホに表示される電話番号に眉を寄せる。暫く振動したそれが止まると、スマホを手に取った。履歴を見ると同じ番号がずらっと並んでいる。そのまま仕事用のメールボックスを開くと、様々なアドレスから送られてきたメールが並んでいた。相手はわかってる。ーーー間違いなく、元彼だ。


1週間前、元彼から突然連絡があった。

たまたま連絡があり、何かあったかと電話を取ると『元の関係に戻りたい。』と言われ、拒否したはずだった。


「(かなり粘られるから、連絡切ってブロックしたのに……)」


連絡アプリをブロックされたことがわかると、次はアプリ介さず電話してきたり、メールしてきたり…それらも全て着信拒否すると、仕事用のアドレスに送られてくるようになった。元彼は前職の会社で出会った人だったから、そのツテで仕事用の連絡先を知ったのだろう。


「(ていうか…別れた原因、あっちからだったよね?)」


うーんと過去を思い返してみる。…やっぱり私がフラれたよね?うん、私がフラれた。しかも友人たちに後から報告したらかなり元彼に対して怒っていた…そのくらいしっかりフラれたはず…。まぁ暫くしたら飽きるだろう、と思って最近は放っている。それよりも、やることや考えることが多いのだ。…主にエリオットのせいで。






「あれ。藤原さん、どうしたんですか。帰らないんです?」

「石田さん。」


現在の依頼先である国立大学の校内にあるカフェテリア。そこでパソコンを開きながらコーヒーを飲んでいたところ、見知った人物が近寄ってくる。茶色いボブヘアの彼女は石田里奈。博士課程の学生である彼女はエリオットの研究補助を担当している為、面識があった。手にはドリンクを持っているから、きっと彼女も休憩がてら買いに来たんだろうな。


「ちょっと残ってやりたいことがあって。石田さんは?」

「私もです。というか、多分今日は大学閉まるまでいることになりそうで。」

「え、そうなの。大変だね…。」

「色々大詰めなものもありまして。」


彼女とは比較的歳も近く、話しやすい。そういう存在がいると職場にひとりいると安心するなぁ、と思っていた。キリッとした見た目に最初は圧倒されたけど、良い子だよなぁとほっこりする。彼女の後ろ姿を見送った後、手元のパソコンに再度視線を落とした。

私がここで時間を潰すのには訳がある。

最近、見知った姿の男ーーー十中八九、元彼が家の付近にいるのをたまたま知ってしまったのだ。夜ご飯を買い出ししにいく時に、横顔を見てしまってすぐに隠れたあの時の私は偉い。元彼からの連絡はあれからも止まず…付き合っていた時から彼が引っ越していなければ、住居の最寄駅でもない。幸い、私の今の家を知られてないから良かったものの…なぜ、家の最寄り駅がバレているのだろう。あの日に居たことが、そもそも偶然かもしれないが。


アラサー間近とはいえ、女性の一人暮らしを長年経験していれば警戒心も身につく。出来るだけ急ぎのない買い物はネットショップ、在宅ワークを多めにする、など心がけるようにしていた。


「(でも、こういう外出のときにはどうしようもないよなぁ…。)」


せめて帰宅時間をばらけさせて、大通りを通って帰るしかない。たかが元彼の存在で、私の生活を変えることもできない。そのため、今日も時間をずらすためにカフェテリアで作業をしていた。


とはいえ、外ももう暗い。暗すぎるとまた別問題なので、そろそろ出ないと。腕時計で時間を確認し、荷物をまとめてカフェテリアを出た。






「結衣!!」


マンションのエントランスに入ろうとすると、後ろから思い切り腕を取られた。衝撃と聞こえた声にひやりとしたものが背筋に走る。

無理やり体を引っ張られた方向に向けられると、そこにいたのは見覚えのあるスーツの男ーーー元彼の智也であった。ああ、見つかってしまった。マンションの付近にはいなかったはず…後ろからつけていた…?いつから?など疑問が頭を回るが、口が固まって離せない。そんな私を見て彼はほっとした顔をしたあと、ぺらぺらと勝手に喋り出した。


「よかった、やっと見つけた。ずっと探してたんだよ。この前電話で話してから、ずっと連絡してたのに返してくれなかっただろ?だから直接会いに来たんだ。会えて良かった。」

「…なんでマンションがわかったの?」

「それはね、会社にいる森さん覚えてる?その人に結衣、次住むならどの辺とか言ってたよね?それを森さんから聞いて張ってたんだ。ちょっと自信無くなってきてたから会えて良かった。」


森さんとは前会社の事務さんだった。確か、退職と引っ越しが決まって、その時に雑談でぽろりとどの辺か話した気がする…。そうか、油断していた。私のことなどもう関心にもないと思っていたから。過去の自分の過ちに悔やんでいる間にも、智也との口が止まることはなかった。


「この前も伝えたけどさ、もう一回俺たちやり直せないかな?」

「この前も無理だって言ったって…。」

「無理なんてわからないじゃん。それに結衣がいま彼氏いないのだって俺にまだ未練があるからじゃない?」

「はぁ?」


何を言ってるんだ、この男。


「未練なんてものないから。それに智也、違う子のこと好きになったから別れたいって言ってたじゃん。」

「あれは勘違いだったんだよ!離れて結衣の大切さが分かったんだ!」

「意味がわからない…。」


智也の言葉が頭に響いてどんどん不快になる。言ってることもわからないし、私の言葉も通じない。いや、私の言葉を聞いてないんだ。好きと言いながら、私の意思なんて無視してる。段々と気持ちが波立ち、苛々としたものが募っていく。ああ、腹立たしい。まだぴーちく言っている智也が憎たらしい。お願いだからもう黙って欲しい。


「とにかく、私は本当にもう無理。智也のこと何とも思ってないし、もう関係は今まで通り断ちたい。ここには来ないで。連絡もしてこないで。」

「…はぁ?」


それまでの笑顔が消え去り、目の前の顔が歪む。それを見て、あ、と思い出した。そういえば智也は怒りやすい一面があった。普段は穏やかなのに、人一倍傷つきやすく、さらに怒りやすくもなってしまう。失敗した。もう少し冷静に対処すべきだった、と後悔が走る。


「っ痛!」


掴まれたままだった腕に力が入り、思わず声を上げてしまう。ぎゅうっと力を込められたままの腕は、声に出したと言っても離される気配はない。痛みが続くまま、智也は険しい顔で捲し立てていた。


「あんなに俺から連絡したのに」「俺がどれだけ大切に思ってたか」俺、俺俺俺。すべて自分が主語になっている言葉たち。ああこの人、私のことなんて何も考えてない。ただ自分の思いを自分勝手に貫いて私に押し付けているだけ。よく動く口をぼんやりと見ながら、不思議と頭はぼんやりと別のことを考え始めていた。

…そういえば、エリオットの声はもっと低かったな。穏やかでゆっくりと話してて、落ち着いた低めのトーン。朝に聞いても、耳にすんなりと入る声。あの人も自分の思いを貫いていた。自分勝手な人。…だったけど、こんなふうに強く腕を掴むこともなかった。私がNOといえば、最後には身を引いてくれていた。自分勝手な人、ではあるけど、…ここまで、不快ではなかった気がする。



「…なぁ、俺がこんなに話してるのに、何ぼんやりしてる訳?ちゃんと聞いてんの?」

「…私が話しても、聞いてくれないでしょう。」

「とりあえず家上げろよ、中で話そう。」

「嫌よ。帰って。」


カッと智也の目の色が変わった気がした。次の瞬間に浴びるであろう、怒声を覚悟しーーーーーー。



「ーーー失礼。何かありましたか?」



先ほどまで頭を駆け巡っていた、低く落ち着いた声が背後から響いた。





「…エリオット。」

「ユイ、ただいま帰りました。こちらの方はお知り合いかな?」


この場には似合わない穏やかな笑顔だった。けれど、私は彼の瞳から目が離せなかった。口角は上がっていたけど、グレーグリーンの瞳は笑っておらず、冷たい光を携えていた。ただいま、とこちらに歩み寄ってくる彼に言われ、反射的に挨拶を返す。智也は突如現れた長身で体格の良い外国人に、呆然としていた。


「お、おかえりなさい…。えっと…前、付き合ってた人で…。」

「そうか。そんな人が何でここに?ユイが呼んだのかい。」

「ち、ちがう。」

「うん、わかったよ。…ああ、ひとまずこの手を離せ。」

「いって!」


智也よりさらに大きな手が、私の腕を掴んでいた手を無理やり剥がした。ワントーン低くなり言葉遣いが荒くなった声にも気になったが、ひとまず解放された腕を摩って頭を流す。ドクドクと堰き止められていた血が指先まで流れる感覚が走った。私の肩に大きな手が乗り、そのままぐいっと引き寄せられる。コーヒーと、どこかウッド系の香りがした。それはいつの間にか覚えてしまった、エリオットの香り。


「悪いがこういうのはやめてくれないか。彼女が困っているだろう?」

「貴方には関係ありませんよね?俺と彼女の問題です。早く彼女から離れて立ち去ってください。」

「自分の住むマンションの前で騒がれたら気になりますが?それに、立ち去るのは君の方だ。」

「はぁ?」

「ちょっとエリオット。」


2人の間で流れ始めた不穏な空気に、焦りが生じてエリオットを見る。彼は私に対してにこりと笑った後、智也の姿を冷たい瞳の中に映し出す。何言うつもりだろう。形の良い厚めの唇が開いた。


「私と彼女はそういう関係だからね。変な男に絡まれていたら、見過ごせないだろう?」


そう言って笑う彼の姿はどこか狡猾的なものを感じる色気が含まれた表情だった。きっと私は今ポカンとしてしまっているけど、エリオットを見上げながら…幸い、智也からは見えなかったようで。智也は「な、なんだよ、フリーだと思ってたわ。ごめんな、なんか。じゃ、じゃあ!」としどろもどろに喋り、恥ずかしそうに去っていった。

あんなにもしつこかった対象がアッサリといなくなったことに驚いたのか、エリオットのプレーに驚いたのか。呆然としている私はそのまま智也の後ろ姿を見送り、暫くして隣にいる存在を思い出して、意識が戻った。


「ユイ、大丈夫?」

「…え、ええ。エリオット、ありがとう。巻き込んでしまってごめんなさい。」

「気にしないで。それよりも腕は大丈夫?」


心配そうに私の顔を覗き込む彼。智也に掴まれていた腕は摩りながら痛みを逃そうとするが、意味はなさそうである。その様子を見たエリオットは形の良い眉を顰めて、「私の家においで。」と告げた。




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