第74話 再侵食の夜、限界の旗
王都の大地は再び震えていた。
救済の光が消えた途端、地下を走る黒紋の網が芽吹きを強め、無数の裂け目から影の芽が浮上した。
それはかつての外敵よりも静かで、しかし確かに根強く、じわじわと都市そのものを締め付けていった。
街路に散らばる民の声は、希望よりも疑念を孕んでいた。
「救われた」という安堵と「もはや人ではない」という怯えが、同じ喉から同時に漏れていた。
それらの声が重なり合い、影を育てる肥沃な土壌となっていく。
黒幕は姿を見せぬまま、その裂けた心を飼いならし、紋の鼓動をより大きく波立たせていた。
アリエルは立ち続けていた。
だがその身体はもはや剣を持つ人の形ではなく、光と影の断片を縫い合わせた存在に過ぎなくなっていた。
裂け目は全身を覆い、手足の輪郭は揺らぎ、刃を握る姿だけがかろうじて人の証を留めていた。
希望として仰ぐ者の眼には「旗」の姿が映り、拒絶の声をあげる者の眼には「廃墟」の尖兵として映っていた。
リリアの祈りは続いていたが、もはや癒しではなく、消滅を遅らせる微かな糸にしかならなかった。
カリサの炎は周囲の影を焼いていたが、焼かれた芽はすぐに再生し、その力は拡大を止められなかった。
二人は支えであり続けたが、その限界も見え始めていた。
民のざわめきは次第に暴力へと変わり始めた。
旗に縋ろうと近づく者と、旗を拒み石をぶつけようとする者が互いに衝突し、争いの火蓋が音もなく落ちた。
広場に積み重なる憎悪の声は、そのまま黒幕の影を形づくる原型となった。
闇が立ち上がった。
黒い影は群衆の争いから直接姿を現し、人の形を歪めた獣のように街路を這った。
それは黒幕の直接の化身ではなく、人心の矛盾が結んだ「呑まれた街の影」だった。
争いはそのまま災厄を育て、街を苗床へと変えてゆく。
アリエルは剣を掲げていたが、その光は揺らぎ、溶けて消えそうだった。
旗印として振るうには、すでに残された力が薄すぎた。
それでも尚立たせているのは、人々が望んだ象徴としての「意志」だけだった。
夜空は雲に閉ざされ、影が王都の灯火を食い尽くす。
光の下にあるはずの街は闇に沈み、人々の心もまた同じ闇に覆われていった。
王都は内からも外からも裂け、旗は限界を超えつつも尚倒れずにいた。
次に崩れるのが街か、旗か、その境界はもはや誰にも分からなかった。




