第73話 旗の動揺、再侵食の胎動
王都に一時的な静寂が訪れていた。
倒壊した街路に人々は集まり、救われた安堵と、旗印の変貌を目の当たりにした恐怖とが入り混じった声を漏らしていた。
救済の象徴は今や人の姿を超え、透けるように崩れる影と光の断片を纏って立っていた。
その不安定な輪郭は、未来の希望にもなれば、来たるべき災厄の証明にも見えた。
民衆の中で声が割れていった。
「守られた」という叫びと、「もう人ではない」という怯えが重なり、街の広場は祈りと疑念の渦に揺らぎ続けた。
人々の心が統一を失った分だけ、その囁きは黒幕の残した紋に浸透し、新たな養分となってゆく。
光を仰ぐ瞳の隣で、影を信じる瞳が確かに芽吹いていた。
リリアは祈りを絶やさず、カリサは燃える拳を握りしめた。
それでも届かない裂け目がそこにあり、仲間を止める術はなかった。
アリエルを支えることはできても、救うことはかなわなかった。
その現実が二人を静かな絶望へと押し込み始めていた。
地下では脈動が目を覚ましつつあった。
黒紋の網は王都全域を覆ったまま鈍く脈を刻み、民のざわめきに共鳴して波紋を広げていた。
その鼓動は弱ったように見えても、実際には力を蓄えていた。
人の心こそが影を育てる苗床であり、揺れる声の多様こそ豊饒な養分だった。
やがて夜の空気に、わずかな震えが走った。
瓦礫の隙間に再び黒い芽が滲み、街の隅々に影の線が這い上がってきた。
それは即時の崩壊ではなく、次なる侵食の序曲にすぎなかった。
だが一度芽吹いた影は決して止まることなく、やがては都市そのものを再び締め上げることになる。
アリエルは立ち続けていた。
体は崩れつつも剣を手放さず、その姿だけが未だに「旗」の証しであった。
しかし、人としての声を失い始めた彼女を支えにできるかどうか、民衆の心は大きく揺れていた。
希望と拒絶が並び立つその多様な眼差しこそ、黒幕にとって最大の糧であった。
こうして都市は救済の余韻の中で、次なる崩壊へと確実に進み始めていた。
旗の光が揺らぐ限り、人心の影は深まってゆく。
その循環が王都を再び覆う日が、静かに近づきつつあった。




