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【2】観客席の、最初の野次

挿絵(By みてみん)


2-1◆現実という名の“番人◆

烏丸から押し付けられた一枚の紙きれ。文化祭の開催を告げるその何の変哲もないA4用紙が、これからの俺の平穏を乱す、全ての元凶になるのだと、この時の俺はまだ知らなかった。

俺は、それを指定通り、誰も見ない廊下の掲示板に貼り付けると、逃げるように学校を後にした。


コンクリートと消毒液の匂いが支配する「戦場」から、味噌と出汁の匂いが支配する我が家へと帰還する。玄関のドアを開けた瞬間、課せられていた全ての役割から解放され、俺は、ただの「音無奏」へと戻る。


「あんた、また幽霊みたいな顔して。何か嫌なことでもあったわけ?」


リビングのソファで、大学のレポートらしきものと格闘していた、俺の三歳年上の姉、音無彩葉おとなし いろはが、顔も上げずに言った。

彼女こそが、この家における絶対的な支配者であり、俺が唯一、心を許す(というより、諦めて素を見せるしかない)相手だ。

彼女の武器は、「世間一般の常識」という極めて真っ当な“正論”だ。俺のこの常に相手の言葉の裏を読み、論理の矛盾を探し出そうとする、ひねくれた思考回路は、このあまりにも単純明快な「正しさ」の前では、いつも空回りするだけなのだ。


「…別に。ただ面倒な季節が来ただけだ」

俺は、買ってきたコンビニの袋をテーブルに置きながら、ぶっきらぼうに答える。

「文化祭の企画を決めるらしい」

「へえ、文化祭。いいじゃない、高校生らしくて。で、あんたは、どうせ、また何もしないで教室の隅で、壁のシミでも数えてるつもり?」

「…観察はする」

「それを世間では『何もしない』って言うのよ」


彩葉は、ようやくレポートから顔を上げると、呆れたようにため息をついた。

その瞳は、俺が何か得体のしれないものから、逃げ続けていることをとっくに見抜いている。


「大体、なんなわけ? あんたのクラス。文化祭なんて普通、誰かお祭り好きの変なリーダーシップあるやつが『よっしゃ、みんなで、演劇やろうぜ!』とか言って、勝手に盛り上がって、勝手に進んでいくもんでしょ。そういう太陽みたいなやつ、いないわけ? あんたのクラスには」


――太陽。

その陳腐で、しかし的確すぎる言葉に、俺の思考が一瞬、停止する。


(…いる。いるに決まっているだろう。お祭り好きでもないし、変でもないが)

(この教室という惑星系における絶対的な中心。全ての人間が、その引力に無意識に逆らえずに、回っている、恒星そのもの)

(彼が「やろう」と言えば、それが、この世界の法則になる。彼が、微笑めばそこが世界の中心になる。俺のような観客席の人間は、彼のその圧倒的な光量にただ焼かれて消えるだけだ)


しかし俺は、そのあまりにも馬鹿げた、世界の真実を姉に説明する術を持たない。

説明したところで、彼女は理解できないだろうし、きっとこう言うだけだろう。


「…あんた、自分の教室が世界の全てだとでも思ってんの? 馬鹿じゃないの」と。


「さあな。俺の知ったことじゃない」

俺は、全ての思考を声に出す前に、飲み込んだ。そして冷蔵庫の扉に手をかける。

そんな俺の背中に彩葉の今日、何度目か分からない、深いため息が突き刺さった。


2-2◆太陽と影の帝王と惑星たち◆

翌日。俺の世界は、昨日と何一つ変わっていなかった。

同じ時間の、同じ電車に乗り、同じ坂道を上り、そして同じ教室のドアを開ける。

そこにあるのは、昨日と全く同じ喧騒と無関心だ。

俺は、いつものように誰にも気づかれることなく自分の「観客席」へと着席した。


「おい、音無、ヤバい噂、聞いたか? 3年のあの轟木さんがまたやらかしたらしいぜ」


その平坦な日常に、小さな石を投げ込んできたのは、やはり山中駿平だった。

彼は、俺の前の席に、椅子を逆向きにして座ると声を潜めて、しかしその目は興奮に爛々と輝いている。

「他校の不良が、ほんの少し肩がぶつかっただけらしい。それだけで病院送りだ。…マジであの人は、社会の“ルール”が通用しねえ」

自称“教室リーグ解説者”は、学園全体のパワーバランスにも精通しているらしい。


俺は適当に相槌を打ちながら、その視線は山中のさらに向こう側へと、向けられていた。

体育会系グループ。教室の後方の一角をその無駄にデカい体で占拠している連中だ。

彼らの、一段ボリュームの大きな会話が、俺の耳に嫌でも飛び込んでくる。


「いや、マジで、昨日の練習試合の天宮は、神がかってたって!」

バスケ部の確か松川とかいう男が、轟木の噂など、まるで別世界の出来事のように、屈託なく笑っている。

「残り3秒で、2点差だぜ? そこに相手チームのディフェンスが3人だぞ? 普通パスだろ。それをあいつ、自分で行きやがった」

「だよな! しかも、あのダブルクラッチからのブザービーター。さらにファールももらってるとか。漫画かよっての!」


(…天宮蓮司)

俺は、山中がもたらした「影の帝王の噂」を、右の耳から左の耳へと受け流しながら、そのあまりにも出来すぎた「神話」を分析する。

そうだ。これがこの世界の、二つの側面だ。

暴力で全てを支配する理不尽な「影の帝王」

そして才能で全てを魅了する絶対的な「太陽」


この二つの圧倒的な「力」が存在するこの世界で。

俺のような人間が、生き残る方法はただ一つ。

息を殺し、石ころのように、誰にも気づかれないこと。それだけだ。


「…まあ、俺たちには関係ない話だけどな」

山中が、俺の無反応をいつものことだと解釈したのか、つまらなそうにそう付け加えた。

「そうだな。関係ない」

俺は、完璧な無関心の仮面を被って、そう答えた。


2-3◆怠惰への引力◆

五時間目の、退屈な授業が終わりを告げるチャイムが、教室に鳴り響く。

それは、今日という、ありふれた一日がそのありふれたまま終わるはずだった、最後の合図だった。

教壇に立った担任の烏丸が、そのいつもと変わらない、穏やかな、しかしどこか全てを諦めたような目で俺たちを見渡した。


「――さて諸君。少し気が早いかもしれんが、文化祭の話をしようか」


その一言で教室の空気が、僅かにしかし確実に色を変える。

水を得た魚のように、最初に声を上げたのは、体育会系のあの連中だった。

「よっしゃあ! 待ってました!」

バスケ部の中河昌彦が、無邪気に拳を突き上げる。


さらに、その声を待っていたかのように、柴田隼人が立ち上がった。


柴田は真顔で、そして大真面目にこう提案した。

「先生!出し物ですけど、お化け屋敷やりません?“元カノ屋敷”!」


教室が、一瞬静まり返る。

柴田は、構わず続けた。

「扉開けたら、元カノがずらーって並んでて『なんで別れたの?』って、全員で追いかけてくるんすよ!怖くね!?」


そのあまりにもくだらない提案。

しかし柴田の友人である斎藤律が、目の奥を光らせて、冷静にツッコミを入れた。

「…気まずさMAXで、ある意味、一番怖いわ!!!」


その瞬間。

教室は、爆笑の渦に包まれた。

「やべえ!」「それ一番行きたくねえ!」

笑い声が、響き渡る。


(…お笑いか)

俺はその光景を、ただ冷静に観測していた。

(それも、またこの教室を、支配する一つの力だ)


柴田隼人。

派手な金髪を揺らし、常にクラスの中心で笑いを取る男。

この教室における「ムードメーカー」であり、そしてあの太陽王、天宮蓮司の「親友」と呼ばれる存在。

彼がお笑いに関して、天才的な才能を持つことを、このクラスの誰もが知っている。


そしてその後にいた派手な髪色の女子生徒が、彼の言葉を引き継ぐように、熱っぽくプレゼンを始めた。

「先生! 私たち考えたんですけど、今年の文化祭、本格的な『演劇』をやりませんか!? 準備はすごく大変だと思うんですけど、でもクラス全員で一つのものを作り上げるって、絶対に最高の思い出になると思うんです!」


(…演劇か)

俺は、その言葉を心の中で反芻する。

馬鹿げている、とは思わなかった。むしろその逆だ。

俺のこのひねくれた心の一番、奥底。誰にも見せたことのない、その場所でほんの僅かに燻っていた、

ありふれた願望。

「高校生らしい思い出が、一つくらいあってもいいのかもしれない」

というあまりにも青臭い感傷。

その俺自身が、とっくに嘲笑の対象として、捨て去ったはずの感情が、彼女のその真っ直ぐな言葉によって、不意に掘り起こされる。


しかしその淡い期待は、すぐに別の声によってかき消された。

「はあ? 演劇ぃ? めんどくせえだけじゃん。楽したいじゃん」

三好央馬が、これ見よがしに鼻で笑う。そしてその隣で女王陛下の、忠実なる側近、結城莉奈が完璧な援護射撃を見せた。

「だよねー。準備とか絶対、グダグダになるって。そういうのより、もっとみんなが楽に楽しめるやつがいいと思わない? 例えばただの『喫茶店』とかさ」


◆2-4◆観客席からの最初の“反逆”◆

「楽な方がいい」。

そのあまりにも、抗いがたい甘美な「引力」が、教室の空気を支配していく。

演劇をやりたい、とあれほど目を輝かせていた、体育会系の女子生徒の顔から光が消えていくのを、俺は観測する。

そうだ。これがこの世界の、ありふれた結末だ。

熱意は、怠惰に食い尽くされる。

挑戦は、事なかれ主義にすり潰される。

何も起きない。何も変わらない。

俺は、ただその陳腐な、しかし絶対的な法則を再確認し、静かに息を殺す。

――それで終わるはずだった。

あの男の一言がなければ。


「…だよなー。つーか、演劇とか、準備大変すぎだろ。第一、天宮くんだって部活や勉強で忙しいんだぜ? そんな主役級の人間に、これ以上負担かけるとかありえねえって。その点、喫茶店なら、みんな自分のペースで、参加できるだろ? 忙しい天宮くんへの、俺たちなりの“配慮”ってもんだよな?」


三好央馬が勝利を確信した下劣な笑みを浮かべて、そう言い放った。

その声。その顔。

(…ああ、またその顔か)

俺の脳裏に、中学時代のあの薄暗い、旅館の一室の光景がフラッシュバックする。

そうだ。あの時もこいつはこうやって笑っていた。

「空気」という名の、匿名の暴力を、盾にしながら、自分は一切、手を汚さずに他人を貶める。

その卑劣なやり方。


(やめろ)

俺の中で、何かが軋む音がした。

(やめておけ、音無奏。お前は「観客」だ。

ここで声を上げても、何も変わりはしない。お前が再び傷つくだけだ)

俺の理性が、最強の警告を発する。


しかしそれよりも強く。

あの演劇を提案した、女子生徒の失望した顔が、浮かぶ。

そして心の一番奥底で、死んだはずの青臭い感情が、叫んでいた。

(…でも、もし万が一演劇をやれたなら。それはきっと俺のこの灰色の日々の中で、唯一色のある「思い出」になるのかもしれない)


三好。お前がそれを奪うのか。

あの時と、同じように。

またお前が、俺のたった一つのささやかな「願い」を踏みにじるのか。


…気づいた時には、俺は声を発していた。

それは自分でも、驚くほど静かでしかし冷たい声だった。


「…それは違うだろう、三好」


教室の、喧騒が嘘のように静まり返る。

全ての視線が、まるで初めてその存在に気づいたかのように、俺に突き刺さる。

三好が信じられない、という顔で俺を睨みつけた。


「…あ? なんだよ、音無。お前が口出しすんのかよ」

「口出しじゃない。ただの事実確認だ」

俺は、ゆっくりと言葉を続ける。

「文化祭は『楽をすること』が、目的じゃない。大変な準備も含めて、その過程を楽しむものだ。お前の言う『楽な喫茶店』は、文化祭じゃない。ただの日常の延長線上にある、“休憩時間”だ。その二つを同じ土俵で語るな」


俺の柄にもない反逆。

そのたった一言が、この淀みきった教室の空気に最初の波紋を広げた。


2-5◆黒い喝采と反逆の“前兆”◆

それは静まり返った教室に一瞬だけ、奇妙な均衡をもたらした。

だが、その薄氷のような均衡を、最初に打ち破ったのは、やはりあの男だった。

三好央馬が、俺のその生まれて初めての「反論」を、嘲笑という最も原始的な暴力で粉砕する。


「はっ、事実確認だあ? てめえ、何様のつもりだよ、音無。奨学金で入れてもらってるだけの、観客席の分際で。いつからこのクラスの“意見”を語る権利を得たんだ?ああん?」


そのあまりにも直接的で、そして的確な「身分」の指摘。

正論は、時に悪意の前では、かくも無力だ。

教室の空気が、再び彼が望む怠惰な、しかし居心地のいい多数派の側へと一気に傾いていく。

「だよなー」「つーか誰だよ、あいつ」

そんな囁きが聞こえる。そうだ俺は誰でもない。その他大勢だ。


そしてその歪んだ空気を、肯定するように教壇の上の、神(烏丸)が、その最終的な「神託」を下す。

彼は、まず俺と三好を交互に見て、困ったように眉を下げた。

「まあまあ二人とも落ち着け。…だが三好の言うことにも一理ある、と先生は思う。音無、君のクラスを想う気持ちは立派だ。しかしその君の『理想』をクラス全員に押し付けるのは、それはまた別の“暴力”になりはしないかね? 我々は、このクラスの“和”を何よりも尊重するべきだ。…分かるな?」


…ああ、分かる。

分かりすぎるほどに分かる。

「和を尊重する」という、美しい言葉を使って、烏丸は俺の「反逆」をクラスの和を乱す「悪」だと、断罪したのだ。


これが、世界の仕組みだ。

卑劣な同調圧力(仲間)と。

怠惰な権威(大人)が手を組んだ時。

たった一人の正しい声など、いとも簡単にかき消される。

俺の周りから音が消えていく。クラスメイトたちの嘲笑うかのような顔が歪んで遠ざかっていく。


(…結局、俺はまた負けたのか)


絶望が俺の、心臓を冷たい手で握りつぶした。

――その瞬間だった。


キィンと耳の奥で、今まで聞いたこともない、金属的な高い音が鳴り響いた。

目の前が一瞬、真っ白に点滅する。

そして俺は見た。


勝利を確信し満足げに、そしてどこか俺を見下すように、微笑んでいる烏丸のその顔。

その穏やかなはずの、教師の顔がほんのコンマ1秒だけ、まるで仮面が剥がれ落ちるかのように、ぐにゃりと歪み。その下に隠された信じられないほど醜悪で、冷え切った侮蔑の表情を。


(…なんだ、今のは…?)

幻覚か? 疲労か?

いや違う。

俺の、この両の眼は、確かに今、この世界の誰も気づいていない、“真実”のほんの一片を覗き込んでしまった。


そのおぞましい感覚だけを、俺の体に残して。

いったい俺の身体に何が起きたんだ???

最後まで、読んでくださり、ありがとうございます。

『教室リーグ』作者の、京太郎です。


今回の、三好のあの絶妙に虎の威を借る、

小物なセリフは、作者としても書いていて、一番楽しかった部分です。

皆様のクラスにも、こういう巧妙な虎はいませんでしたか?


絶望の、そのどん底で主人公の眼に映った世界の“バグ”。

次回、ついに反逆の狼煙が上がります。


少しでも、「面白い」「続きが読みたい」と、思っていただけましたら、

下にある【★★★★★】での評価や、【ブックマーク】での応援を、していただけると、作者の、何よりの、励みになります。


これは「集英社小説大賞6」に応募中の作品です!!!

それでは、また、次の話で、お会いしましょう

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