ようこそ! ケースト事務所へ、零!
暗いホールで、リスは手に持っていた本を退屈そうにめくっていた。戦闘が終わってからすでに1時間以上が経過していたが、椅子に座っている「零」という名前の人物はまだ昏睡状態にあり、周囲の符紙は新しく取り替えられていた。
「どれくらい経ったの? まだ目を覚まさないの?」
リスは自分のローブをしっかりと巻き、夜の気温がまだかなり低いため、さらに毛布を肩にかけた。
リスは手に持っていた本を適当に一方に投げ捨て、毛布に包まって縮こまった。
「ごほごほ……」
椅子に座っていた零が数回咳き込んで目を覚ました。
「ここ……はどこ?」
「私……は誰?」
零は周囲に広がる金色の光輪を不思議そうに見て、手を伸ばして触れようとした。
「無駄に力を使うな、その術式の結界だ。吾が全ての話を知るまでは、そこから出られない。」リスはあくびをしながら言った。
「カチ!」
結界の光輪が零の手に触れた瞬間、ガラスのように破裂した。
「え……え?」
リスは目の前の出来事に驚き、慌ててソファの背もたれの後ろに飛び込んで毛布を体に巻きつけ、半分だけ顔を出して零をじっと見つめた。
「お前……ちょっと待て。」
リスは自分の術式にかなり自信を持っていた。千年以上の術式の学習経験を持つ彼女は、これまで自分が設定した結界を触れただけで壊されることはなかった。それに、符文や符紙が加わっている状況下であればなおさらだ。
「私は……誰だ?」
零は無感情な目で、周囲をただ見回していた。まるで新生児のようだった。
「何か思い出したことはあるか?」リスは零に尋ねた。
「私は誰? わからない……」零は自分の手をじっと見つめながら考え込んだ。
「吾の知る限り、お前は天から降りてきた存在で、吾の前会長と何らかの関係があるらしい。それ以外のことは分からない。」リスは肩をすくめて言った。
「…………」
零は黙り込んだ。
「そうだ!」リスは切断された剣を手渡しながら言った。「これはお前のだ。これを見て何か思い出せるか?」
零はその切断された剣を受け取ると、剣の柄に触れた瞬間、剣から強い光が放たれ、剣は変形して金属製の手錠となり、零の左手首にしっかりと固定された。手錠の端には小さな破断した鎖がついていた。
「うっ……」
リスは何と言っていいのか分からず、口を閉ざした。
「私は誰?」
零は再び椅子に座り、手首にかかった手錠を引っ張った。
リスは再びソファに座り、毛布をかけ直して言った。「私の知る限り、お前は「零」という名前かもしれない。これは短剣に刻まれていた文字から推測したものだが、お前自身が剣柄の文字を見ていないとしても、剣を握った反応から考えるに、それがお前の名前だと思われる。」
「零……私は零?」
「それなら、少し思い出してみて。」リスは尋ねた。
「いや……わからない。私は……何も覚えていない。」零は小さな声で答えた。
「うーん……どうしたらいいんだ?」リスは頭をかきながら言った。「面倒だな!」
リスは近くに積んであった本の中から1冊を引き抜いてめくり始めた。
「待って、確か記憶を取り戻す術式があったはず。ちょっと探してみる。」
「これか?」
数ページをめくりながら、リスは答えを探した。
「違う!」
「この本、一体誰が書いたんだ!めちゃくちゃだ!」
リスは本のページにびっしり書かれた文字を見て、頭をかきながら言った。
「うーん……」
「あ!見つけた!」
リスは本を1ページめくり、少し破れたページに目を止めた。
「ここに記憶を呼び起こす術式が載っている。お前……もしかしたら試してみるといいかもしれない。ええ、心配しないで、副作用はない。」
「じゃあ……試してみる。」零は言った。
記憶がないということは、存在する意味がなくなったように感じていた零にとって、記憶を取り戻すことは非常に重要だった。
「手を出して。」リスは言うと、ポケットから長方形の白い紙を取り出した。
零は何をするのか分からないまま、リスの指示に従って左手を差し出した。手首の手錠をつけたままで。
リスは零の手を取ると、指を口に持っていき、鋭い歯で食い込ませ、指先から小さな血珠を出した。リスはその血を零の指に押し付け、素早く符文を描いた。零が反応する暇もなく、リスは血の色をした符紙を描き終えた。
「痛っ!」
零は痛みで手を引っ込めた。
「怖がらないで、これは術式の実行を助けるためにちょっとだけお前の血が必要なんだ。」
リスは言いながら、その描かれた符文を零の額に貼りつけ、続けて砂時計を取り出し、計測を始めた。周囲の紋章が一瞬光り、暗赤色の光影が砂時計に注ぎ込まれた。
「この砂時計を見ていなさい。計測が終わったら、この術式が効き始める。」
リスは砂時計を零の前に置き、また毛布の中に体を縮こませた。
零は椅子に座り、砂時計をじっと見つめた。
「サ……サ……サ……」
砂粒が一粒一粒落ちていく。
時間が徐々に流れ、零はだんだんと頭がぼんやりとしてきて、目を閉じた。
零はただ暗闇の中をゆっくりと落ちていくような感覚を覚えた。
どれくらい経ったのか分からないが、零は気づくと、ゴシック様式のホールに立っていた。ホールの両側には本棚が並べられており、零は本を取ろうと手を伸ばすが、黄色い警告線がそれを遮った。『立ち入り禁止』の文字が目に入った。零は何度も試みたが、やはり本に触れることはできなかった。
遠くに、午後のお茶とお菓子が並べられた長いテーブルが見え、その端に白いドレスを着た白髪の少女が零に向かって手を振っていた。
零は疑問を抱えながら、その少女に向かって歩き出した。
「おいで、零、こちらに座りなさい。」
少女の隣の椅子が自動で引かれた。
「あなた……どうして私の名前を知っているの? あなた、一体何を知っているの?」
零は驚き、目の前の見知らぬ少女がいきなり自分の名前を呼ぶことに驚いた。
「しーっ!」少女は指を唇に当て、言った。「それは重要じゃない。これからのお話の中で、あなたは自分で理解することになるわ。今日はただお茶を飲みに来ただけ。だって、この世界の真実は教えられないのよ。」
少女は神秘的な笑みを浮かべて、零にティーカップを差し出した。
零は少女の隣に座った。
少女は紅茶を注いだ。
零は一口飲んだ。紅茶の味はとても濃厚で、上質な紅茶であることが分かった。そのリアルな感覚は、零にとって自分が夢の中にいるのか現実なのか、分からなくさせた。周囲の奇妙な状況が夢のように感じられたが、紅茶の味は現実そのものだった。
「ここは一体どこだ? これは夢なのか、それとも現実なのか?」
「どちらでもないわよ!」少女は笑って言った。「ここは現実と虚無の間にある隙間のような場所。現実にも夢にもなれるし、現実でもない、夢でもない場所。この場所は、どこにも属さない、どこにも属さない空間よ。」
「じゃあ……私はここに来ても答えは得られないのか?」零は理解できずに尋ねた。
「いいえ、私はあなたに一つだけ質問があるのよ。」少女は紅茶を飲みながら言った。
「あなたの過去の記憶は、この世界にとって秘密で、言うことはできないわ。」
「すべてはシナリオ通り、すべては決められている。」少女はため息をついた。
「零、私は聞きたいことがある。もし、人生の軌跡がすべて予め定められていて、まるでシナリオのように、すべてが決められているとしたら、あなたはそのシナリオ通りに生き続けるのか、それとも全てを変えて自分の道を歩むのか?」
「私は……自分の記憶を取り戻したい。自分のために生き、自分の道を歩みたい。人生は私のものだから。」
「素晴らしい!完璧な答えだわ!」
少女は突然立ち上がり、テーブルの上に立って零の前にしゃがみ込んだ。ドレスの裾が紅茶に触れても、気にすることなく。
零はその時、少女の顔をしっかりと見た。白髪が乱れている中に一筋の柔らかさがあり、赤い瞳が零と目を合わせ、目元には涙痕が残っていた。涙を流し続けていたのだろう。
「聞いて、零。」少女は零の顔を手で触れながら言った。「覚えておいて、私に答えたことを。忘れないで、一度や二度じゃない、何度も何度も。私は何度も繰り返してきた。舞台の人形のように、原作のシナリオから抜け出せなかった。繰り返し、繰り返し、何度も。あなたの中に希望を見た、命運から脱却する希望を。あなたがここに来たことこそが、その証拠よ。」
少女はだんだん興奮してきて、目元に涙をためながら話し続けた。
「私は多くを言えない。枷を破る代償は重い。今はこれだけ教えられる。すべての答えは黒域にある、その辺りの街の外れ、境界の外に。でも、真実はあなた自身が探さなければならない。」
少女は涙をぬぐいながら、零に淡い青色のクリスタルが嵌め込まれたブレスレットを手渡した。
「これがあなたを助ける。大事にして。」
「何が起こったのか、理解できなくても構わないわ。すぐに理解できるようになるから。また会える時まで。」
零がその言葉を理解する間もなく、長いテーブルと少女は急速に遠ざかり、周囲は再び暗闇に包まれた。
「サ——」
最後の砂粒が落ちると、零は再び荒れ果てたホールに戻った。
「どうだった? 少し思い出した?」リスは砂時計を片付けながら尋ねた。
「うん……思い出せない。」
零は額に貼っていた符紙を引き裂き、首を横に振った。
「これはおかしいな。」リスは乱れた髪をかきながら言った。「普通はこんなことにはならないはずなんだけど。」
「いや、記憶は戻らなかったけど、変な人を見た。」
零は長テーブルの出来事をリスにすべて話した。
「うーん——」
「これは何かの啓示かもね。例えば、あなたは選ばれし者みたいに、失われた記憶を取り戻し、世界を救うような、そんな運命の人なのかもしれないわ。」リスは本棚から1冊の小説を取り出し、零に見せながら言った。
「いや、そんなことはないだろう……」零はリスの考え方にちょっと呆れていた。
「やっぱりね、そんなことは小説の中だけの話よね。」リスはその本を適当に放り投げた。
「どうしようかな?」リスは眉をひそめながら言った。「今、記憶を失っているから、行く場所がないだろう。じゃあ、ここに残るか? カースト事務所で働いてみるか? 事務所の業務は幅広いし、情報網も多いから、何かお前の身元に関することを掴むかもしれないし。それに、バカな会長が人手を必要としてるみたいだし。前の会長もお前をここに残すように言ってたし、嫌なら無理に言わないけど。」
「そうだな。」零は少し考えた後、答えた。
「じゃあ、ようこそカースト事務所へ、零!」。