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第三章 女神の息子たち 2

 ペルシア人の基準からしてもギリシア人の基準からしても、ロクサーネは絶世の美女というほどではない。


 淡い金色の雀斑の散ったミルク色の膚と暖かそうな赤砂糖色の髪、夜明けの空を思わせる明るい灰色の眸は、ギリシアよりもはるかに西の異邦の血を思わせる。


 輝くばかりの黒髪と滑らかな蜂蜜色の膚、くっきりと大きな真っ黒い眸を備えていたイラージュのかつての婚約者であるあのビルマーヤ姫と比べたら、黄金色の大輪の蓮を前にした道端の野草みたいに目立たない娘だ。


 イラージュがこの娘に目を向けたことは、フェリドゥーンには意外ながらも嬉しい驚きだった。



 ――なあイラージュ、お前の女の趣味はなかなか悪くないぞ。



 今は密かに海を越えて故国へ戻っているはずの《女神の子》の顔を思って、若い叔父は密かな含み笑いを浮かべた。


 このつつましくも控えめな混血の娘を傍に置くようになってから、亡命以来手の付けられない悍馬みたいだった甥はずいぶん落ち着いてくれた。

 一刻も早く国に戻って異母兄を殺してやると叫んで物を壊すこともなくなったし、いっそ東西どちらかの大帝国の後ろ盾を得ようなどと言い出すこともなくなった。


 この後者の点についてが、フェリドゥーンとしては最も有難かった。

 アルドヴィ・スーラーあるいはヒベリアは、西の共和制ローマと東のアルサケス朝パルティア、二つの大帝国のちょうど中間に位置する小国だ。

 帰還のためにどちらかの手を借りれば、次代には間違いなく属州に組み込まれているだろう。



 ――つまり、断じてどっちの手も借りられないってわけだ。



 何にであれ、もう支配されるのはまっぴらだ。

 ようやくこうして広い空の下へと出てこられたのだから。



 フェリドゥーンがそんなことを思って、巻物を操る手を止めて額に縦皴を刻んでいると、

「……フェリドさま?」

 今度はロクサーネが気づかわしそうに訊ねてきた。

「お疲れですか? またお加減が優れませんか?」

「いや」と、フェリドゥーンは微苦笑した。「元気なものだよ」


 

 七歳で負った傷のために右足の不自由なフェリドゥーンは、その瑕のためなのか、単に生まれつきなのか、疲れやすく病みやすい虚弱な体質をしている。

 背丈こそやや高めだが骨格は貧弱で、そのくせ、動かない右足の補いにできるかぎりの鍛錬を重ねた結果、右の肩と左の太ももだけが歪に筋肉を発達させている。

 彼は醜と美の奇怪な混合だった。

 美とは程遠い歪んだ体の上に、まるで造物主の気まぐれのように、一目見たら忘れがたいほど精緻な美貌が与えられているのだ。

 手にする巻物の色合いとよく似た滑らかな象牙色の膚と、陽を浴びると黄金色に透き通る明るい栗色の髪。ガラス玉めいた琥珀色の眸をそなえた繊細な貌は、それだけ見れば物憂げな美貌の女のようにもみえる。

 ロクサーネと同じく、彼の外見はギリシアよりもさらに西の異邦人の特徴が強い。

 その面差しは誰の目から見ても異国的で、しかし、だれの目から見ても異様に美しかった。


 そんな奇妙な姿のフェリドゥーンが、若く健やかな駿馬のようなイラージュと並んだ様子は、互いが互いの特徴を際立てあうためか、単独でいるときよりもさらに人の目に強烈な印象を残した。


 あまりにも対照的な二人の亡命王子を、アマノス人たちは最近ではまとめて《女神の息子たち》と呼びならわしている。

 イラージュが東岸では「アルテミスの子」と呼ばれていることが噂で広まって、共にいるもう一人の王子のほうも、ついでのように半神に昇格したらしい。



 ――あいつはどうしているかな。北部の《神官(マギ)の民》を巧く味方につけられるといいんだが……


 

フェリドゥーンがぼんやりと考え事に耽りながらまた巻物に目を落としたとき、中庭側の廊から足音が響いたかと思うと、袖なしの短いチュニック姿の黒っぽい巻き毛の少年が、小麦色の頬を真っ赤に紅潮させて室内へと飛び込んできた。


「奥方様、フェリド様、港からお使者でございます!」


「そうか。落ち着けマイオン」と、フェリドゥーンは興奮状態の小姓を宥めた。「アルテミスの子の御帰還か?」

「はい!」

 少年が妙に誇らしそうに答える。


 そのとき、窓辺からガタリと音が響いた。


 ハッと見れば、ロクサーネが杼を取り落とし、柔らかそうな白い手で口元を隠して、澄んだ灰色の目を零れんばかりに見張って眦を震わせているのだった。


『――あの方が?』

 娘は母語である共通ギリシア語で言った。『戻ったの? 無事に戻ってきたの?』

『はい奥方様、ご無事ですとも!』と、ギリシア系の小姓のマイオンが同じ言葉で答え、これも潤んできた眦を乱暴に拳で拭った。


「ああ、帰れるんですねえ。王子殿下(シャーザーデ)がご無事にお戻りなら、我々みんなようやく、故郷(ふるさと)に帰れんですねえ――」

 王宮で暮らしていたころから召し使っていた少年が嬉しそうに涙ぐむ様を、フェリドゥーンは奇妙な誇らしさとともに眺めた。



 ――なあイラージュ。知っているか? これがお前の力だ。輝かしい女神の子の存在は、いるだけで人に希望を与えるんだ。

 


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