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第三章 女神の息子たち 1

『――やがて一行の目に入ったのは、山間の見通しのよいところに、磨き上げた石材で建てられた秘薬を使う魔女キルケーの館であった――』



 白漆喰塗りの明るく狭い室内に機織りの音が響いている。

 トントン、タン、トントン、タンと、規則正しい軽い打音に混じって、時折シュッと糸の擦れる音がする。

 その懐かしく落ち着きのある音に重なって、低く滑らかな男の声が共通ギリシア語の叙事詩をよどみなく読み上げている。


 ギリシア系の住民ならば誰もが知っている古い貴種流浪譚『オデュッセイア』の一説だ。

 ほんのわずかに東洋風の訛りが混じるものの、雄弁術の師範のそれのように滑らかで完璧な発音である。



『――館の周りには、山に棲む狼や獅子どもがいたが、これはキルケーが怖ろしい薬を盛って獣に姿を変えた男どもで、人に向かって踊りかかったりすることはないばかりか、長い尾を振って立ち上がってくるのだった――……』



 そのあたりまで読み上げたとき、機織りの音が不意に止まった。


 朗読者であるフェリドゥーンは、ベルガモン産の滑らかな象牙色の羊皮紙で作られた巻物を開いたまま膝におろすと、陽の射しこむ窓辺に据えられた機の前の娘を見やった。


 娘の名はロクサーネ。

 フェリドゥーンたち流浪の《亡命ヒベリア人ども》が二年前から身を隠しているアマノスという小島の総督の姪で、この頃は《王子の妾》と呼ばれている娘だ。

 白く柔らかな麻の襞衣(キトン)に包まれた娘の体はなよやかで、ゆるく波打つ髪は暖かみのある赤砂糖色だ。その色は王子イラージュが幼いころに可愛がっていた仔馬(ポニー)の毛色とそっくりだ――と、フェリドゥーンは気が付いている。


 ロクサーネは機を織る手を止めて、広い窓の外をじっと眺めているのだった。


 今いる館は市内の真ん中に盛り上がる丘の中腹にあるから、窓の外の斜面には白壁の家々がびっしりと並んで、港の石壁を挟んだ向こうに青い水面が見える。

 川ではなく海の水面だ。

 その遥か東にあるはずの故郷アルドヴィ・スーラーの岸辺は、当然全く見えない。



 アマノスは母市から忘れられた小さな植民都市だ。

 三世紀ばかり前、当時はギリシア世界で最強の都市国家(ポリス)だったアテナイによって建設されたが、母市が衰えてローマのアカイア属州に組み込まれた後には、一応はローマ勢力に属しながらも、何となくそのまま放っておかれている。

 亡命者たちが身を隠すには最適の港町だ。



 ――小さいが穏やかな良い町だ。窓から海が見えるのもいい。



 陽光の射しこむ窓からは、二年ですっかり鼻になじんだ潮の匂いを含んだ微風も吹き込んでいる。

 少しばかり新鮮な血臭と似た潮の匂いを改めて意識したとき、フェリドゥーンは二年前、はじめて海を目にした朝の歓びを思い出した。



 ――俺の人生はあの夜から始まったのだ。この役立たずの片足の身内をなぜか慕ってくる若い半神のために、動かない脚を引きずって夜の道を逃れたときから――……



 ぼんやりとそんなことを思いながら窓辺を見つめていても、規則正しい機織りの音は依然として戻らなかった。

 ロクサーネは手を止めたまま、嫋やかな首をわずかに傾げ、目を細めて窓の外を眺めつづけている。

 フェリドゥーンは当然聞こえてしかるべき自分自身の脈動が止まってしまったかのような苛立ちを覚えた。



『――《ペネロペ―どの》は機織りにお疲れかな?』

 今しがたまで読んでいた叙事詩に出てくる貴婦人の名前――出征した夫を二十年間待ち続けた貞女の代名詞となっている婦人だ――でフェリドゥーンが呼びかけると、ロクサーネがはっと顔を向け、はにかんだような笑顔を見せた。

「フェリドさま。どうかペルシア語で話してください。私は王子殿下(シャーザーデ)の故郷の言葉を覚えたいのです」

『あなたのペルシア語は十分流暢だ。二年で身に着けたものとはとても思えない』

 フェリドゥーンが、これも二年で身につけたとは信じがたいほど流暢な共通ギリシア語で褒めると、娘はまたはにかみ笑いを浮かべ、照れくさそうに俯くなり、そそくさと機に向き直ってまた手を動かし始めた。


 ロクサーネは陽があるあいだはいつも糸を紡ぐか、染めるか織るか縫物をするか、とにかく何か手を動かして布製品を拵えている。

 今熱心に織っているのは貝の染料で染めた鮮やかな真紅の布だ。

 色合いからして自分自身ではなくイラージュのものだろう。


 ロクサーネは叔父の総督から《亡命ヒベリア人》――アルドヴィ・スーラーは西方人たちからはヒベリアと呼ばれている――の王子へ、酒席で気安い贈り物のように譲渡された娘だ。

 イラージュが彼女を気に入った様子を見せたからというごく軽い理由からだったのだろうが――ここ二年間、この娘の存在には本当に助けられたと、フェリドゥーンは改めて感謝を覚えた。

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