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第二章 夜の獣 3

その夜以来、イラージュはときおりごく近くに見えない女の気配を感じるようになった。



 実際のところ、それが本当に女の気配なのかは、イラージュ自身にもはっきりとは分からなかった。

 見えないどこかで物音がするたびに、イラージュ自身が心の中で女の幻影を造り出しているのかもしれなかった。


「大丈夫ですか王子殿下(シャーザーデ)? ずいぶんお疲れのようだ」

 《朋友隊》の何人かが心配そうに訊ねるたびにイラージュは苛立った。



 ――こいつらはどうして気づかないんだ? こんなに近くにあの女がついてきているのに。



 女の気配は常にある――確かにあるような気がするのに、イラージュ以外の誰もその存在に気付かないのだった。

 そんな具合にイラージュにとっては苛立たしい行程を続けるうちに、一行はようやく山間を抜けて展望の開ける地点へと出た。


 扇型に広がる谷間の上の崖だ。

 眼下の谷底を雪解け水に泡立つ渓流が流れて、右手のはるか遠くで広い川面と合流していた。


「あれがリュナ川でしょうか――」

 パルメニオンが額に手をかざしてうっとりとした声で言う。


 そのとき、頭上でリン、とごく微かな鈴の音が響いた。



 鷹狩に使う小型の猛禽の脚環の鈴の音だ。



 見上げると、頭上を白っぽい隼のような鳥影が旋回していた。


 間違いない。


 狩りのための鳥だ。


 近くに鷹狩をする王侯貴族(アリヤーン)がいるのだ。


 思うなり全身に緊張が走った。



 と、そのとき、鷹狩に馴れた領主貴族(アリヤーン)であるはずの親衛隊長のタフムーラスが、思いがけないほど大きな声をあげながら両手を振り回しはじめた。


「おーい、おーい、おーい、こっちだ! (バルフ)、こっちだ! 降りてこーい!」

 止める間もなく呼ばわりながら鳥影を追って谷底へ駆け下りてゆく。


 思いがけない親衛隊長の奇行に、《朋友隊(ヘタイロイ)》の面々は呆気にとられた。


「おいタフムーラス、一体どうしたんだ?」

隊長殿(アリヤーン)、カルキスにお知り合いがいるんですか!?」


 皆してわあわあと喚きながら、愛馬の毛皮にくるまれた親衛隊長の背中を追う。


 タフムーラスは渓流のほとりで足を止めていた。

 便宜的に馬の毛皮をかけた右腕に、足に朱の紐で金色の鈴を結わえた美しい若い隼がとまってキロキロと目を動かしている。


「おい、お前、その鳥知っているのか?」

「ええ王子殿下(シャーザーデ)」と、親衛隊長は得意そうに応えた。「この(バルフ)はカシュタリティ猊下の――先王陛下にお仕えししていたあの《神官(マギ)の民》の騎兵隊長どのの鳥です」

「え、あの奇人の?」

 イラージュは遠慮なく愕いた。


 亡き父王アーラシュ二世に重用されていた騎兵隊長カシュタリティのことは、イラージュも勿論よく知っていた。

 ペルシア系の伝統としては、名目上は王族より貴い《神官(マギ)の民》の生まれながら、故郷である聖都ザーラーを出奔し、王に仕える雇いの騎兵隊に身を投じたという――経歴からしてこれ以上ないほど変わった人物である。


「あの妙な騎兵隊長も都を逃れているのか?」

「ええ、おそらくは」と、タフムーラスが心許なげに頷く。「フェリドゥーン様からの使者として私のもとに参じてきたのは、あれはおそらくカシュタリティ猊下の配下の騎兵でしたから」

「ああ、そういえばあの騎兵隊長はフェリドの友達だったな」と、イラージュは何となく不本意な気分で認めた。「あの騎兵隊長、配下の騎兵を連れてきたのかな?」

「それは難しいと思いますよ。どのような経路をたどるにせよ」と、タフムーラスが慣れた手つきで隼の喉を撫でながら応じ、馬の毛皮をかけた右腕をまっすぐに天へと伸ばしながら命じた。

「さあ(バルフ)、われわれをお前の主人のところまで導いておくれ!」

 途端にリン、と鈴の音が響いて、白っぽい小さな隼が碧空へと舞い上がっていった。



「ああ――」


 イラージュは空を見上げながら思わず声を漏らした。



 天へと羽ばたく鳥影はのびのびとして美しかった。

 地上のあらゆるしがらみから解き放たれているように見えた。


                




 辛くも僭王サルムの追跡を逃れて山岳地帯を越えた王子イラージュは、第十月二十八日、カルキスの海辺で、先んじて海路で逃れていたヘタイロイ五〇騎に迎えられた。

王子が最も信頼していた叔父のフェリドゥーンおよび、先王に仕えた騎兵隊長であるカシュタリティの二名もまた王子を待ち受けていた。

流浪の王子はカルキスの港から船出し、かつてアテナイの植民都市であったアマノス市へと逃れた。王子はこの地で伴侶を得た。アマノス総督の妹アルクメネの娘ロクサーネである。


                       ――『ヒベリアスの書』巻Ⅰより



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