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第二章 夜の獣 2

「――おい子供、伏せろ!」


 

 イラージュは咄嗟に叫ぶなり、背の箙から矢を引き抜き、弓につがえて引き絞った。


 ヒュンっと音を立てて放たれた矢が狼の後ろ首をまっすぐに射る。

 途端、獣が咆哮をあげ、くるりと跳ね回るようにしてイラージュへと向き直った。



 美しい碧い眸の獣だった。



 イラージュは嬉しくなった。

「来い豺狼! お前のその毛皮、寝床の敷物にしてやる!」



 自らを鼓舞するように怒鳴りながら新月刀を引き抜く。


 怒り狂った狼がぐっと身を低めるなり、ウルルルル、と唸りをあげて踊りかかってくる。

 その刹那、イラージュは渾身の力をこめて、目の前にさらけ出された獣の喉を突いた。



 ぐっと力を籠めて刃先を肉にめり込ませると、頭上からぽたぽたと生臭い涎が垂れてきた。

 目をつぶって刃先をさらに進めるうちに、ブクブクと何かが泡立つような音が聞こえて、血の匂いのする生ぬるい泡が額へと零れてきた。



 ――死んだか。



 確信して刃先を引き抜くなり、熱く新鮮な鮮血がしぶいて、顔から肩へとかかった。

 イラージュはその熱さを心地よく感じた。



 どうっと倒れ掛かってきた重たい獣の体をよけて横たえてから、改めて崖際を見やる。


 子供はまだそこにいた。


 先ほどよりもさらに怯えた表情で、目を見開いてまっすぐにイラージュを見あげていた。



「おいどうした。獣はもう死んだぞ? 何をそんなに怖がっているんだ?」

 苛立ちながら歩み寄って痩せた腕を掴もうとすると、子供は身をよじって逃れ、ひどく震える声で訊ねてきた。


「お前、女神の子か?」


 意外なことに、その声は若い女のものだった。


 イラージュは愕いた。

 目の前にいるのは冬だというのにボロボロの袖なしの毛織のチュニックだけをまとった短い蓬髪の少年だ。少年――のように見えるが、声からすると本当は女なのかもしれない。


 月明かりに照らされた相手の顔をよくよく眺めて、イラージュはハッとした。


 女――おそらくは女なのだろう――の顔は、王族にも珍しいほど生粋のペルシア系のように見えたのだ。



 カフカス南方の山中に住まう、ペルシア系の顔立ちをした少数民族。


 それは、まさか――


「――お前、《山の民》……か?」


 慄く声で訊ねるなり、女がニタリと笑った。

 顔立ちそのものはよく見れば愛らしいのに、異様なまでに歪んだ嗤いだった。


 イラージュが思わず後ずさったとき、女が不意に言った。


「女神の子。私を殺せ」

「無抵抗の女を殺す趣味はない!」

 咄嗟に言い返すなり、女が声を立てて笑った。

 心底からおかしそうな笑いだ。


「そうか、そうか、お優しいことだ! 誉れ高き女神の子は無抵抗の女を殺す趣味はないのか! それなら私の母親は女ではなかったのだな! 祖母は女ではなかったのだな! 姉と小さな姉の子も! 弟の若い妻も!」


 女は笑いながら泣いていた。

 月明かりに涙が輝いていた。


「殺せ! 私を! 今すぐ私も殺せ!」

 女が泣きながら詰め寄ってくる。


 イラージュは戸惑った。

「お前、仇討ちに来たんじゃないのか?」

「そのつもりだった!」

「ならどうして俺に殺されたがるんだ?」

 訊ねるなり女の顔が歪んだ。


 今しがたまでその顔を輝かせていた激しい何かが一瞬で引き、疲れ果てた老婆のような表情が浮かぶ。

 女はひどく虚ろなぼんやりとした目つきでしばらくイラージュを見あげてから、じきに目を逸らして嗤った。


「お前が私を助けたからだ。一族総ての仇敵に私は助けられてしまった。それでは死んだ一族に申し訳が立たない」

「気にするな。そんなこと。俺を殺したいなら正面からかかってこいよ?」

 イラージュが奇妙な苛立ちにかられて告げると、女は心底忌々しそうに舌打ちをしてから答えた。

「ああ。いつか必ずそうしてやる。だが、一度お前の命を助けてからだ。それで貸し借りなしにする」

「助ける? お前が俺を?」

 イラージュはあきれ果てた。「やめておけ。無理に決まっている」

「必ずしも無理とは限らない。私は薬師だ。命を救う術ならばお前よりも知っている」

 女は神託のように言った。


「女神の子、覚えておけ。お前が傷を負ったときには私が助ける。病に罹ったときでもいい。私はお前の命を助ける。そのあとで必ず殺す」


「助けてから殺すのか? そりゃ面倒なこったな!」

 イラージュは本気で面倒になって応えた。


 一族をすべて殺されてこの女は気が狂っているのだろう。


「やりたいなら何でも勝手にしろ。その獣の躯はお前にやるよ。毛皮をはぎゃ多少は暖かいだろう!」

 言い捨ててつかつかと木立を出てゆく。


 ふと気になって振り返っても、ついてくる影はなかった。


 イラージュはぞっとした。


 ――あの女はいつからついてきていたのだろう? これから先もずっとついてくるつもりなんだろうか?

 

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