第二章 夜の獣 1
冬の山越えは厳しかった。
原因は主に馬だ。
路は辛うじて通っているものの、根雪の凍ったよく滑る斜面は馬の蹄には向かない。
餌の不足のために、都の厩舎で贅沢に育ってきた最上級の汗血馬たちは、三日目には早くも弱り始めていた。
「穀物は人間が食べる分さえ足りていません。馬たちをどうしたものでしょう」
タフムーラスに沈鬱な表情で訊ねられたイラージュは、ほんの数秒だけ考えてから即断した。
「なら馬を食おう」
「え、ええええ!」と、伝統を重んじる若い領主貴族は端正な顔を引きつらせて叫んだ。「馬を? 食うのですが? 人間が馬を?!」
「馬が馬を食えるわけないだろうが、草食なんだから!」と、気短な王子は怒鳴り返した。「つべこべ言わずにさっさと殺せ! 毛皮が防寒具になるからちょうどいいだろう!」
誇り高き女神の息子に人間の常識は通用しない。
馬を重んじるペルシア系の身分正しい《朋友隊》の成員は泣く泣く指図に従った。
この素早い判断が幸いしたのか、一行は誰も餓死や凍死はせずに、月が変わるころには分水嶺を越えることができたのだった。
「王子殿下、もう一安心ですよ。分水嶺さえ越えれば、渓流を捜して下れば必ずリュナ川と合流するそうですから」と、尊い犠牲となった愛馬の毛皮にくるまって野営の焚火に当たりながらタフムーラスがしみじみと言う。
傍で犠牲馬の串焼きをためらいなく食らっていたイラージュは、口中一杯の塩気のない肉を飲み下してから、揶揄うような笑いを浮かべて年長の隊長に訊ねた。
「フェリドがそう言ったのか?」
「ええ、まさしく」と、タフムーラスがはにかみ笑いを浮かべて頷いた。「フェリドゥーンさまも不思議なお方ですね! 失礼ながらあのお体で、王宮からお外へ出られることなど滅多におありにならなかったのでしょうに、まるで天から地上を見下ろしていらっしゃるかのように、国内外すべての地理をすらすらとお口になさった」
「だろ? そういうところ、あの人は只者じゃないんだよ」と、イラージュは自らの所有物を褒められた子供の顔で笑った。
フェリドゥーンはイラージュの祖父にあたる先々代の国王が晩年に愛でた奴隷女に産ませた王子である。
十八年前、北部の蛮族が都に侵攻してきたとき、母親とともに王宮に取り残されて、そのとき利き足に癒えない傷を負った。
どれほど惰弱に流れようと、名目上、アルドヴィ・スーラーの国王は《戦士の長》である。
七歳で右足が不自由になったフェリドゥーンは、その瞬間から、王位を継承する可能性が全くない王子となった。
イラージュの父である亡きアーラシュ二世など、他の兄弟は誰であれ恐れ、何かと理由をつけて処刑してばかりいたのに、この片足の不自由な末の異母弟だけは――おそらくは母親譲りのその美貌と完全な無害性のために――妙に愛して、常に身近に住まわせて話し相手を務めさせていたのだった。
イラージュはその敏く非力な叔父が好きだった。
――止められたんだよな、あの人には最初から。
なあイラージュ、馬鹿な真似はよせ。女神の神託なんて放っておけ。
お前は都にいるほうがいい。少なくとも確実に王座に着くまで、都を長く空けることはしないほうがいいんだ。
出立前にフェリドゥーンは繰り返しそう言って止めた。
――もしかしたら、あの人はあのときから、発ってしまったらこういう事態に見舞われることを予期していたのかもしれない。
そう思うなり、子供じみた意地にかられて出立を強行した自分に苛立ちを感じてしまった。
反省や後悔や自己嫌悪といった感情にイラージュは馴れていなかった。
自分の感じているもやもやとした不快さの正体が分からないまま、彼は眠れずにぐずる幼児みたいに舌打ちをすると、なんともなしに立ち上がって焚火から離れた。
すると、すぐさま天幕から声がかかってしまう。
「王子殿下、どこに行かれますので?」
「用足しだ! ついてくるなよ!」
心配そうなパルメニオンに怒鳴り返し、足の向くまま暗がりを歩きはじめる。
月のある夜で、焚火からかなり離れても足元には影が見えた。
行く手に枯れ木の木立が見える。
もしかしたら多少は草が生えている――かもしれない。
――俺の馬まで殺しちまったのは早計だったかな……?
イラージュは微かな後悔を感じた。
そのとき、木立の方角から、ごく微かな女の悲鳴が聞こえた。
――女? まさかこんな山の中に?
もしかしたら、思ったよりももう低地に近い位置なのかもしれない。
期待を込めて木立へ駆け込むなり、イラージュは息を飲んだ。
枯れ木の向こうに低い崖が見え、その後ろに白い円い月が昇っている。
月明かりに照らされた崖際に悲鳴の主がいた。
子供だ。
茫々と乱れた黒髪の、痩せた小柄な子供だ。
崖際に追い詰められたその子供の前で、大きな灰色の狼が、身を低めてぐるぐると唸っていた。