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第十二章 神託の子 2

 ロクサーネの物言いに興味を引かれたフェリドゥーンは、その日初めて、薔薇苑の西の館の一室で休んでいるサエーナのもとを訪ねた。


 そこは小さな白漆喰塗りの部屋で、真ん中に小さな池のある内庭に面していた。

 右手の壁に寝台があって、死を待つばかりの母親が寝息を立てている。


 案内のロクサーネを外に残して室内に入ったフェリドゥーンは、部屋の真ん中に敷かれた青い絨毯の上に胡座すると、杖代わりのマイオンも外に退かせ、静かな寝息を立てて眠るサエーナが目覚めるときを待った。


 そうしながら、彼は幼いころ、窓辺でじっと外を眺める母親の横顔を眺めていたときの寂しさを思い出していた。

 


 じきに寝台の上で女が身じろぎをした。


 フェリドゥーンはどうにか立ち上がると、膝立ちでにじり寄るようにして寝台の傍へと寄った。

 上から顔を覗き込むと、黒くよく光る眸がまっすぐに見上げてきた。


「ロクサーネどの……?」

「フェリドゥーンだ。よく見てくれ。ロクサーネどのは向こうだ」

 苦笑しながら訂正すると、黒い眸が瞬きをした。

「ああ、例の宰相殿下か」

「そうだ。例の宰相殿下だ。王無き宮のな」

 軽く眉をあげて告げるとサエーナが薄く笑った。


 フェリドゥーンは躊躇いながら訊ねた。

「あなたの素性を教えて貰えないか?」

「墓石に刻むために?」

「あなたの子に教えるために」

 途端、サエーナが瞬きをし、そのまま目を逸らした。


「私の子ではない。ロクサーネどののお子だ。あの人に預かってきた」

「イラージュにそう言われたのか?」

「ああ」と、サエーナがため息のように応えた。「言われた。だから殺すなと」

「え?」


「殺すなと泣かれた。俺の咎だと。子に負わせるなと。憎んでいいから殺すなと。でも子はあまり憎むなと。あれはよく泣く。情けない。あんな情けない男をなぜみな崇めるのか」


 サエーナは夢現のような声音でぼんやりと話した。

 フェリドゥーンには全く話が見えなかった。

 ただ、その表情に胸を突かれた。


 それは疲れ果てた女の顔だった。

 憎むことにも生きることにも疲れ果てた女――昔、いつも窓の外をぼんやりと眺めていた黄金色の髪の女の顔だ。



 ――お母さま。お母さま。



 フェリドゥーンの心の中で七歳の子供が叫んでいた。



 ――お母さま、どうかこちらを見てください。どうか、どうか……



「……――あなたの素性を教えて欲しい」

 彼はもう一度訪ねていた。


 サエーナは不思議そうに瞬きをすると、不意に、何を思ったか、胸元に吊るした小袋から平たい何かを取り出して差し出してきた。


「……あなたの子に?」

「うん」

 目尻を細めて微笑んで、それきり瞼を閉じてしまう。

 そして、またすぐ寝息を立て始めた。


 フェリドゥーンは所在なく渡された品を検めた。


 錆びた青銅製(ブロンズ)の飾り櫛である。

 鳥の頭と獅子の胴を持つ奇妙な怪物を象っている。



 ――これは、たしか……



 博識なフェリドゥーンはその怪物の名を知っていた。

 ギリシア系の者たちが呼ぶところのグリフィンだ。


 そして、あの不運な《山の民》の長の紋章でもあった。



「あなたは、つまり」



 フェリドゥーンは我知らず声を出していた。

 サエーナは寝台の上でか細い寝息を立てつづけている。

 微かすぎる息の音を異様に大きく感じながら、フェリドゥーンはサエーナの心を理解した。



 私の子ではない。



 そう繰り返したサエーナの真意がようやくに分かった。

 彼女は《山の民》の生き残りだったのだ。

 イラージュによって一族を殲滅させられたのだ。



 そうと悟った瞬間、フェリドゥーンの脳裏に、かつて聞いた異母兄のアーラシュ二世の声が蘇った。


 肉親すべてを恐れ続けた小心で孤独な異母兄は、唯一警戒する必要のない愛玩犬のような異母弟の髪や背を撫でながら口走ったことがあった。


 私は信じん。

 信じんぞ。

 《山の民》の血筋から新たな王が生じるだと?

 くだらん予言だ。

 信じられるか。

 あの忌み子と共倒れになればいい……



「それは、つまり」

 フェリドゥーンは呆然としたまま声に出していた。



 それは、つまり――……



「神託は本当だったのか?」


 すべての悲劇の始まりとなったあの巫女の神託――《山の民》の長が王家に叛意を抱いているという神託は、《山の民》の長の血統から次代の王が生まれるというものだったのか?


 アーラシュ二世はその神託を怖れてイラージュに討伐を命じたのか?


 サエーナ殿はその襲撃を逃れて生き残り――そしてあの子供が生まれたのか?


 神託の詳細を誰一人知らないままに?


 そうと思った瞬間、フェリドゥーンは心の外から何か大きく止めがたい流れが押し寄せてくるのを感じた。

 見えない何処かでうねり続ける人智を超えた何か。

 その何かが心を包んでいた。

 大波が感情を押し流してゆく。

 張りつめていた背がほぐれる。

 同時に希望が湧いた。



 ――神託が本当にあるものならあの子は神託の子だ。次代の王になる子供だ。初めからそう定められている。



 そう思えば、何もかもがもう過不足なく調えられている気がしてきた。

 見えない何かが高みから采配を振るったかのように、未来の希望を救う手立てがもうみな揃っている。



「――マイオン」

 フェリドゥーンは振り返らないまま呼んだ。

「すぐに謁見の間へ戻るぞ。テディウスを呼んできてくれ」

 


 フェリドゥーンが謁見の広場へ戻るとすぐ、栗毛のテディウスが呼んでこられた。

「なあテディウス、タフムーラスは無事戻ると思うか?」

 開口一番訊ねられたテディウスは力強く頷いた。

「必ずお戻りになるはずです。最後の退却の指揮は隊長殿(アリヤーン)が取るようにと陛下がお命じでしたし」

「そうか。それならあの子の行き先は決まりだな」

「あの子と申しますと、サエーナ殿の?」

「ああ。――心配するな。彼女は無事だ。しかし、産褥の床に着いているからすぐには動かせない。お前は今すぐあの子を連れてタフムーラスの荘園に向かえ。エウリュノメが乳母としてちょうどいいだろう。そして、タフムーラスの帰還は待たずに、今すぐ密かに国外へ逃れるんだ。後々の身分の証のために玉璽を持っていけ」

「あ、ああ、そういうことですか!」と、テディウスが納得顔で頷く。「一度また国外に退いて態勢を立て直すのですね?」

「そういうことだ。いずれまた時が至る」と、フェリドゥーンは晴やかに笑った。




 王紀182年第一月十六日、新春を間近にした冬の末に、アルサケス朝パルティアの大軍が尾根を越えてアルドヴィ・スーラーの国内へと侵攻してきた。

 国境の戦いで没した国王イラージュに代わって即位したクルーシュの子フェリドゥーンは、王朝十三代目の国王として、《王環》をいただき、《王剣》を杖として敵勢の前へと進みで、自らの首と引き換えに都の安寧を願った。

 わが主君たる二人の王らは、私タフムーラスに、国王イラージュの遺児である若き王子を託した。

 その後の長いアルサケス朝占領期のあいだ、国外に逃れた若き王子の存在は夜明けの空に輝く明星のようなわれらの希望であった――……


                          『ヒベリアスの書』巻二より

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