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第十二章 神託の子 1

 国境から二騎の密使が帰ってきた翌日の午後、フェリドゥーンは二層の端を渡って《西島》の後宮へと向かった。

 本来ならば国王しか渡れない域だが、出征前にイラージュが、「玉座にかける以外のすべての国王の権利」を委ねていったため、例外的に渡ることが許されるのだ。杖代わりのマイオンももちろん例外だ。


 王宮同様、退去する先がある者は女官でも宦官でも退くのを許したため、後宮にも今は人気が乏しかった。

 神殿前の広場から細い道に入り、忠実な二人の宦官が護る門を抜けて《薔薇苑》へと入る。


 すると庭先にロクサーネがいた。

 噴水のほとりに腰をかけ、ギリシア語で何かを呟きながら布を洗っている。



『――やがて一行の目に入ったのは、山間の見通しのよいところに、磨き上げた石材で建てられた秘薬を使う魔女キルケーの館であった――』



 それは懐かしい『オデュッセイア』の一節だった。

 出征したきり二十年間戻らなかった夫を待ち続けた貞女ペネロペ―の出てくる長詩だ。

 ロクサーネは顔を俯け、熱心に手を動かしながら、その詩を小声で諳んじていた。


 水音と小さな鳥の声がした。


 その場所のあまりの静謐さに、フェリドゥーンは声をかけるのをためらった。


 と、不意にロクサーネが手を止めると、顔をあげ、くしゃりとした笑顔を浮かべた。


「フェリドさま! どうなさいましたの?」

「いやー―」

 フェリドゥーンは逡巡しながら訊ねた。


「その、会ったのか? 夕べの女とは」

「はい。会いました」と、ロクサーネは邪気なく答えた。「サエーナ様ですよね。今はわたくしのお隣のお部屋でお休みです」

「その――子供のことは?」

「聞きました」

 ロクサーネが短く答えて俯いてしまう。

 水に濡れた白い手が微かに震えていた。


『――泣かないでください奥方様!』と、ずっと無言で控えていたマイオンが、堪えかねたようにギリシア語で言った。『陛下はお寂しかっただけです。奥方様がお傍にさえいらしたら、お子はきっとあなたのお子だったはずです!』


『ありがとうマイオン。――サエーナ様もそうおっしゃったわ』

「――あの女自身が? それはどういう意味なんだ?」

 ギリシア語を解するフェリドゥーンが思わず口を挟むと、ロクサーネが濡れた手で目元を拭いながら小首を傾げた。

「よく分からないのです。でも、あの方は、陛下のお子を授かったことを、何か大変な罪のように思っていらっしゃるようで、『この子はあなたの子だ、あなたの子として育てて欲しい』と、ただそればかり仰るのです。大后様は、あの方はきっと《神官の一族》の出で、薬師として修行をなさるために、一生不犯の誓いか何かを立てていらしたのではないかと仰せでした」

「なるほど。その可能性はあるな」

 フェリドゥーンはとりあえずそう答えておいたが、その可能性が低いことはすぐに判明した。


 後宮を辞したあとで訊ねた、今もって建築途中のミスラ神殿で、カシュタリティに訊ねてみたところ、《神官の一族》の薬師の婦人にそんな修行の風習はないと断言されたためである。

「サエーナという名も、ザーラーの一族にはまずもってありえない。その女は何者なんだ?」

 そんなことはフェリドゥーンのほうが教えて欲しかった。



 思いもかけず託されてしまったイラージュの遺児――おそらく遺児なのだろう――と、《王環》と《王剣》を前にして、フェリドゥーンは途方にくれていた。

 パルメニオンとテディウスは心の底からフェリドゥーンを信頼していた。前線の《朋友隊》たちもまた、時間さえ稼げばフェリドゥーンが何かよい策を立てるだろうと無邪気に信じているらしい。


 そう思うと、折角送り返されてきたものを無碍にもできなかった。

 


 王宮に逃れてきてから半月後、素性の知れない「サエーナどの」が男児を産んだ。

「二か月ばかりの早産だそうです」と、ロクサーネが案じ顔で報せにきた。「薬師どのが仰るには、お子は乳をやるものさえあれば大丈夫だろうということですが――……母体は、あまり長くはないのではと」

「薬師がまだ残っていたのか?」

「あ、ご本人ですわ」

「本人が本人の死期を予見しているのか?」と、フェリドゥーンは呆れた。「一体どういうご婦人なんだ」

 そう尋ねると、ロクサーネは小首を傾げて微苦笑した。

「とても不思議な方です。――初めはとても憎いと思ったのに、あの方はどうしても憎めない」

ロクサーネはそこで言葉を切り、小首を傾げて悪戯っぽく笑った。

「なんだかあなたに似ていらっしゃるのですもの」

「私に?」

 フェリドゥーンはあきれ果てた。

 それは一体どういう女なのだろう?


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