第十一章 鏡像 3
カリスマ溢れる女神の子がいったん心を決めてしまえば、無謀極まる抗戦の支度は極めて迅速に進んだ。
イラージュには常に手足よりも自在に動かせる《朋友隊》160騎がいたし、かつてのカシュタリティ配下の300騎も忠誠を誓っている。
そのカシュタリティが祭司を務める都の北のミスラ大神殿は今もって建築中で、相当数の元・傭兵が人足として雇われている。
長らく押さえ続けてきた潔い滅びへの衝動を日の下に公認されたフェリドゥーンは、二年の亡命生活のあいだに身に着けきってしまった経済観念をかなぐり捨てて潤沢な戦費を捻出した。
彼は愉しかった。
憎みながら愛し、愛しながら憎んだ故国を道連れに華々しく滅びられるのだ。
「何と戦って果てるのも《戦士の長》の勝手だがな」と、カシュタリティは親愛と憐れみの入り混じった笑みを浮かべて念を押した。「親愛なるフェリドゥーン殿下よ、約束の冬至の牛だけは捧げていってくれよ? 捧げなけりゃ太陽が蘇らないんだ」
「ほほう」と、フェリドゥーンは皮肉っぽく笑った。「すると今までどうして天頂にことなく太陽があったんだ?」
「誰かがどこかで捧げていたんだろうさ。頼むぞ。純白の牛だ」
フェリドゥーンはどうにか冬至までに純白の子牛を捜させた。
そして訪れた蘇りの祭の夜、イラージはギリシア風の純白の襞衣をまとい、月桂樹の冠を被って、その白い小さな生贄の獣を腕に抱いてミスラ神殿へと運んだ。
築きかけの神殿の前庭に大きな篝火が焚かれて、思いもかけないほど沢山の信徒たちがその周りを囲んでいた。
彼らはイラージュの姿を目にするなり、夏に戦場であげたのとよく似た歓声をあげた。
「みな見ろ! 女神の子だぞ!」
『不死なるアルテミスの御子が光明神に贄を捧げにきた!』
その夜は月も星もなかった。
ぬめるように暗い夜空の下、赤々と燃え上がる篝火の傍で、これも白衣に身を包んだカシュタリティの手で白い子牛の喉が裂かれるなり、篝火を囲んだ信徒たちが一斉に声をあげた。
ミトラ!
メサイア!
マイトレーヤ!
支度された桟敷で儀式を見物していたイラージュは、傍らで厳重に毛織布にくるまれているフェリドゥーンにごく自然に訊ねた。
「なあフェリド、連中なんて叫んでいるんだ?」
「たぶんみな同じさ。それぞれの故地の言葉でミスラを――未来に現れて人を救う光明の神を表す言葉だろう」
「へえ」
イラージュは興味深く耳をそばだてた。叫びの中にときおり、「われらが女神の子よ!」という言葉も混じっていた。
初めから予想されていた通り、戦況はこよなく悪かった。
女神の子の軍勢が都中からの歓呼を浴びて国境地帯へ発っていってからわずかに二か月後の深夜、前線から王宮に二騎の密使がついた。
「また随分と早かったな!」
すぐさま面会をと求められて夜更けにたたき起こされたフェリドゥーンは、苦笑いしながらざっと衣服を整え、いつも杖代わりに付き添っている小姓を伴って謁見の間へと向かった。
空の玉座の前で待ち受けていたのは顔なじみの二人の《朋友》だった。
一方は赤毛で一方は栗毛だ。
赤毛のほうが黒い布包を携え、栗毛のほうが腕に誰かを抱きかかえている。マントにすっぽりくるまれた小柄な人物だ。
「パルメニオン。テディウス」
呼びかけると、まず赤毛の大男が顔をあげ、黒いフェルト布で厳重に包まれた包を差し出してきた。
「《王環》です。陛下から託されてきました。―-『《王剣》はまだしばらく戦陣で使う。最後の撤退のときにタフムーラスに持たせる。活かすも殺すも好きに使え。足りないものがあれば報せろ』。お言葉そのままです」
「よく届けてくれたな。ところで――」と、フェリドゥーンは栗毛の男を見やった。「テディウス、お前は一体何を託されてきたんだ?」
「大事なものです。《王環》と同じほど」
「ほう。その大事なものは眠っていらっしゃるのかな?」
「お疲れなのです」
テディウスが傷ましそうに言い、目の粗い毛織のマントに包まれた腕の中の誰かの体を慎重にゆすりながら呼んだ。「サエーナどの。ついたぞ?」
その声は息を飲むほど優しげだった。
「ん――……」
腕の中の女――どうやら女のようだ――が身じろぎをする。
テディウスがそっと下ろし、恭しい手つきでその肩にマントをかけなおした。
フェリドゥーンは眉をよせた。
思った通り、相手は女だった。
艶やかな黒髪を一本の三つ編みにして右胸に垂らしている。
顎の尖った卵型の輪郭と濃い蜂蜜色の膚。王族にも珍しいような生粋のペルシア系の容貌に見える。
痩せて小柄な少女のような体つきだが、腹部だけが大きい。
子を孕んでいるようだ。
――それはあいつの子か?
フェリドゥーンが微かな怒りとともに問いただそうとしたとき、サエーナが瞬きをし、小首を傾げて訊ねてきた。
「あなたがロクサーネか?」
沈黙が落ちた。
痩せた肩を後ろから支えるようにしていたテディウスが右手で額を抑えてうめく。
「薬師どの、頼む。よく見ろ。その方は男だ。例の宰相殿下だ」
「これが? 王族にしては変わった毛色だ」
「うん、俺もそう思うけどね。もうちっと言葉を選びましょうよ、まがりなりにも宰相殿下なんだし。――すみませんフェリドさま、この通り浮世離れした人ですが、悪気はないんです。悪気は。どうぞお気を悪くしないでください」
「いや、それはかまわんが」と、いささかならず気を悪くしながらもフェリドゥーンは寛大に応え、改めて女の腹部を見やった。
「その子はイラージュの?」
「ああ」
サエーナは短く答えた。
見るからに顔色が悪い。
「フェリドさま、仔細はわたくしが話しますから、サエーナどのを休ませてやってください」と、テディウスが頼んでくる。
「分かった。マイオン、後宮の門まで運んでやれ」
「承りました」
いつのまにやら逞しく成長していた小姓が抱き上げようとすると、サエーナがその手を拒んでいった。
「ロクサーネという人に会わせてほしい」
「行けば会える。――あちらはあまり会いたがらんだろうが」
「ああ」と、サエーナが微苦笑する。「だろうな。だが会わないと。この子供はその人の子だから」
「どういう意味だ?」
「そのままだ。いい。歩ける」
サエーナがマイオンに先導されて暗い広間を出てゆく。
足音が完全に遠ざかりきるのを待ってから、フェリドゥーンは改めて訊ねた。
「あれは間違いなくイラージュの子なんだな?」
「他に何だっていうんです?」と、テディウスが噛みつくように応じる。
「おいテディウス、口が過ぎるぞ? フェリドさまはもう宰相殿下なんだろ?」と、珍しくも赤毛のパルメニオンがいさめる。
まるっきり三年前の亡命時代のようだ。
フェリドゥーンは思わず頬をほころばせた。
「かまわん。お前たちは身内みたいなものだ。ところで、あの《サエーナどの》とやらは、一体いつからいたんだ?」
途端、赤毛と栗毛の男が顔を見合わせた。
「あ――……わりと初めからいたよな?」
「初めから?」
「はい。王子殿下が――いえ、陛下がアマノスからお戻りになってからずっと」と、パルメニオンがテディウスを見やる。「いたよな? そもそも初めから」
「いた。戦いがあるときは大抵いつもいた。陛下とも初めからお知り合いだった――ように見えていました。国境の陣に来てからは、幕屋も陛下の天幕のすぐ隣でしたし」
「――つまり戦地での気に入りの愛妾だったということだな?」
「いや、薬師どのですよ」と、テディウスが不本意そうに答えた。「陛下とどういう関係だったか俺は知りませんけどね、サエーナどのは薬師どのです。俺たちの薬師どのです」
彼はそこで言葉に詰まり、不意に声を立てて泣いた。




