第一章 半神 4
――そういえばフェリドはどうしているかな……?
そろそろ飽いてきた葡萄酒のゴブレットを持て余しながら、イラージュはふと、都で彼の帰還を案じながら待っているはずの数少ない友である若い叔父のことを思った。
そのとき、不意に右手の建物の扉が開いて、駅の役人と思しき老人が慌てきった足取りで駆けこんできた。
「王子殿下、王子殿下、都から早馬でございます!」
「早馬? 俺にか?」
「はい、火急の御用のため、いますぐ王子殿下に御目通り願うと! こちらの印章指輪をお持ちです」
駅役人が肩で息整えながら、イラージュの手に重たい銀の指輪を渡してきた。
いつの間にやら寄ってきていたカンブージャが、横からのぞき込むなりぎょっとしたように叫ぶ。
「何たるこった! 隊長殿の印章じゃないですか!」
「えええ、タフムーラス様の!?」と、パルメニオンも声をあげる。
それを皮切りに、中庭じゅうの《朋友隊》たちがやいのやいのと声をあげながらイラージュのまわりに集まってきた。
「ええい煩い!」と、若い王子は苛立って怒鳴った。「おい老いぼれ、その使者さっさと通せ!」
「は、はい王子殿下!」
「女子供は下がっていろ! 遊女、お前もだ!」
「は、はい殿下! ありがとうございます!」
「さっさと行け! ――それから《朋友隊》!」
「なんでしょう!」
「何が来るにせよ、きっちり俺を護れよ?」
生まれたときから見られることに馴れているイラージュは場を盛り上げるのが得意だった。酔いの回った《朋友隊》がどっとばかりに歓呼の声をあげ、次々に新月刀を引き抜いてイラージュの周りを半月型に囲んだ。
数秒おいて再び扉が開いて、駅役人が背の高い黒いマントの男を伴ってきた。
夜だというのに頭からすっぽり被布をかぶった男だ。
その布がはらりと外された瞬間、イラージュはあまりの安堵に足が浮遊するような感覚を覚えた。
「――なんだ、本当にお前かタフムーラス!」
使者は都に残した一〇〇名近くの《朋友隊》本隊を預けてきた親衛隊長である若い領主貴族だった。
若い――といっても、十八のイラージュよりたっぷり七つは年上で、血気にはやった若者揃いの《朋友隊》のなかでは最年長の部類だが。
その隊長タフムーラスは、どうやら相当急いでここまで馳せてきたらしく、冬だというのに秀でた額に汗の粒を浮かべていた。まだ整わない呼吸を必死で整えようとしているようだ。イラージュはふと気が付いて振り向かないまま命じた。
「パルメニオン、タフムーラスに酒をやれ」
「は、はい王子殿下! ――隊長殿、どうぞこちらを!」
赤毛の大男が杯に葡萄酒を充たして差し出す。
「ああ、ありがとうパルメニオン。――王子殿下、かたじけない」
隊長はかすれ声で生真面目に礼を告げるなり、堪えかねたように喉を鳴らして一息に酒を干した。
どうやら相当喉が渇いていたらしい。
「羊も食うか?」
「いえ、まずはご報告を」
「何があったんだ?」
イラージュが気楽な声音で訊ねるなり、タフムーラスの生真面目そうな端正な貌からいっさいの血の気が引いた。
イラージュは背筋がピリッと痛むのを感じた。
次の瞬間、親衛隊長がうなだれ、低く絞り出すような声音で言った。
「国王陛下が身まかられました」
「――え?」
イラージュは咄嗟に言葉の意味が分からなかった。
呆気にとられたまま口を開いて瞬きを繰り返していると、タフムーラスが気の毒そうに眉をよせ、幼い弟妹にでも話しかけるような口調で繰り返した。
「亡くなられたのですよ。あなたの御父君が」
親衛隊長の言葉が終わるか終わらないかのうちに、《朋友隊》のあいだから沈鬱な呻き声があがった。
イラージュはまだ呆然としていた。
タフムーラスがますます気の毒そうな表情で続ける。
「王子殿下、落ち着いてお聞きください。陛下が急死なされた翌日、宰相マヌシュチフルの推挙を受けて、サルム王子が王座に着かれました。――聖域の巫女も即位を御認めになったそうです」
「あの女が?」
イラージュが愕いて呟くと、タフムーラスが傷ましそうに眉を歪め、何を思ったか両手をイラージュの肩にのせて、親しい兄か叔父みたいな態度で話しかけてきた。
「大丈夫です、大丈夫ですよ王子殿下。御母君はもちろん本意だったわけではありません。何と言ってもあのお方は逆賊マヌシュチフルの御妹君――たとえ本意でなくても、実兄のすることに異を唱えられなかっただけです」
「――おいタフムーラス、お前何を言っているんだ?」
イラージュは苛立ちのままに親衛隊長の顔を睨みつけた。
「死すべき人の女が何を考えていようと俺の知ったことか!」
「しかし、巫女は殿下のお母君で――」
「違う! いいか、間違えるな。俺の母親は不死なる女神だ。死すべき人の女なんぞは仮初の腹に過ぎない。――俺はあの女のことは、もともとあんまり好きじゃなかったんだ。マヌシュチフルもな。王位を継いだら宰相はフェリドに任せようと――」
そこまで口にしたところで、イラージュははっと大事な存在のことを思い出した。
「――おいタフムーラス、あの人は? あの人は無事なのか?」
今度はイラージュのほうがタフムーラスの両肩を掴んでがくがくとゆすぶりながら訊ねる。
気の毒な親衛隊長は目を白黒させながら応えた。
「ビルマーヤ姫でしたら、もちろんご無事ですとも! ただ、お気の毒なことに、どうやらこのままサルム王子の妃とされるようで――」
「そりゃそうだろう、あいつはあの忌々しいマヌシュチフルの娘なんだから! セルムに盗られるのは悔しいけど仕方ない。生きてりゃそのうち取り返してやる。それよりフェリドだよ! フェリドゥーンは無事なのか!?」
「あ、ああ、フェリドゥーン様のことでしたか!」と、タフムーラスが目をぱちくりさせ、そのあとで少しばかり得意そうに笑った。
「あの方ならご無事ですとも! ご無事も何も、わたくしがここまではせ参じたのはフェリドゥーンさまのお指図によるものなのです。あの方が王宮での変事をいち早くお知らせくださり、一刻も早く王子殿下をお捜しして国外へ逃れるように伝えよと」
「で、あの人自身は?」
「はせ参じてきた《朋友隊》とともに、わたくしの義兄が代官を務めているエリュトラーの港へ御逃れになりました。お預けになっていた殿下の私有財産も、持ち出せる限りは持ち出してくださったそうです」
「なんだ、さすがにフェリドだな!」
イラージュは芯からほっとして笑った。「案じるまでもなかった。それでこそわが親愛なる叔父上ってもんだ」
「あの方は叔父君なのですか? てっきり従兄君かと」
「叔父だぞ。齢は八つばかりしか違わないが。それで、俺はこれからどうしろって? あの人から何か伝言があるんだろう?」
イラージュが信頼しきった子供の表情で訊く。
タフムーラスは一瞬ためらってから、再びイラージュの肩に両手をおき、顔を覗き込むようにして伝えた。
「あの方のお言葉のままです。――都の周りの駅屋はすぐに抑えられるだろうから北へは戻ってくるな。山を越えて南のカルキスへ向かえ。リュナ川の河口の港で落ち合おう」
「分かった。リュナ川の河口の港だな」
イラージュは素直な学童みたいに復唱すると、一転して、自信に充ち溢れた表情で、不安げに主従を遠巻きにしていた《朋友隊》たちを見回して破顔した。
「おい皆、帰還が少しばかり遅くなるようだぞ! 酔いを醒ましたら出立だ! 俺は少し寝る。タフムーラス、お前も少し休め」
「は、はい王子殿下!」
隊長は愕いたように応え、気楽に遊女の手を引っ張って宿舎へ引き上げる若い王子の背中を、感嘆とも戸惑いともつかない表情で眺めながら呟いた。
「――王子殿下は不思議な方だな! 七つの子供のように無邪気に見えることもあれば、百年を生きた老人のように落ち着いて見えることもある」
「それはもう、女神の子でございますからね」と、パルメニオンが得意そうに応えた。「死すべき定めの人の子とは芯から違うんですよ」
王紀百七十八年第十月の四日、アルドヴィ・スーラーの第十一代国王アーラシュ二世が王宮で急死した。
折から国内南部の山岳地帯へと遠征に出ていた王子イラージュは、身分低い母から生まれた異母兄サルムの謀によって王国を追われ、冬のカフカス山脈を越えて南方のカルキスへと逃れた。
この最初の流浪のあいだ、王子は扈従する忠臣たちの明星ではあったが、決して夜明けの星ではなかった。王子が多くを失うほどに臣たちの心は主に添った。彼らは王子と共にならば冥府の闇にも下っただろう。
『ヒベリアスの書』巻Ⅰより