第十一章 鏡像 2
アルミニヤからの初めの報せが届いたとき、温厚かつ気さくな人柄で王宮中の下級官吏から大層慕われているフェリドゥーン宰相殿下は、繊細な美貌を悪鬼のごとく歪めて、
「あの阿呆どこまで腐っていやがる!」
と、叫んだ。
今までずっと鍍金を被せた彼しか見ていなかった財務官マルドニウスは「すわご乱心か」と案じて、激昂する若い王族をとにもかくにも宥めてやろうとした。
「殿下、あまりお怒りになられるとお体に触りましょう。あちらがパルティアと組むならば、こちらはローマを頼るという手もございます」
これが独立心旺盛な宰相殿下の逆鱗に触れてしまった。
蒼白の貌が一瞬でデスマスクのように強張る。
財務官はとりなそうとしてさらに火に油を注いだ。
「まま、そんなにご案じなさらずとも、ローマは服した王族には非常に寛大だと聞いております。首都に招いて丁重に宮殿に住まわせるのだとか。あなたさまでしたら苦も無く馴染めましょう。御顔立ちには誰しも感嘆いたしましょうし、琵琶はじめ諸芸にも秀でておいでですからなあ。陛下も――ま、何と言っても女神のお子ではありますし。皆珍しがるでしょう。叛意さえ見せなければ粗略には扱われますまい。むしろ大事に遇してくれましょうから」
老官吏には微塵の悪気もなかった。
しかし、彼は図ったように相手の痛点すべてをザクザクと突いていた。
フェリドゥーンはこれ以上ないほど顔を歪めて吐き捨てた。
「美貌に諸芸に珍しさ、か! それを大事に遇するとな。主人が従順な奴隷女を遇するようにか?」
「いや、あ――その――そう! 兄が素直が弟を遇するようにと申しましょうか!」
決定打だった。
実兄たる国王から素直な奴隷女みたいに愛でられていたという自覚のあるフェリドゥーンは怒りと屈辱に蒼褪めたまま、暇なときは大抵厩にいる若き国王を捜しにいった。
杖代わりの忠実な小姓であるマイオンが無言で同行する。
イラージュはやはり厩にいた。
おろおろする気の毒な厩番を尻目に、額に白い斑のある愛馬を手ずから洗っていた。
「なあイラージュ、玉座を退く気はあるか?」
フェリドゥーンが単刀直入に訊ねると、イラージュは面倒くさそうに頷いた。
「あなたが退いて欲しいなら」
彼はそこで言葉を止め、胡乱そうな目つきで訊ね返した。
「退いたらあなたが王座に着くんだろうな? 誰か別の奴だったら厭だぞ?」
「そうか。じゃ、つまり厭なんだな」
「今度は誰を拾い上げるつもりだったんだよ? アルガノスの叔父上か?」
「俺が選ぶわけじゃない。玉座を譲る相手はサルムの遺児だ」
「子がいたのか?」
「生まれたそうだ。国外で。つまりアルミニヤでな。いつのまにやらあっちに亡命していたマヌシュチフルの阿呆が、パルティア帝国の威光を笠にきて譲位をお求めだ」
イラージュが黒馬の腹を擦る手を止め、しばらく考えこんでから訊ねる。
「――要するにビルマーヤの子ってことか?」
「そういうことだ」
途端、彼は棕櫚の葉の束子を桶につっこむなり、算術を習い始めたばかりの子供みたいに指を折って数え始めた。
「一、二、三……――なんだ、じゃ、あのときはもう三か月以上だったのかよ! あいつ、胎にサルムの子を抱えて俺を迎えていたのか?」
「そうなるな」
「大した度胸だな、女ってやつは! 三か月早く子が生まれたら、あいつはどうするつもりだったんだろう」
「当然お前の子として育てるつもりだったんだろう。七か月の早産だと言い張って」
「――もしそうされたら、俺は気づいたかな?」
「まあ気づくだろうな。外聞からして秘めなきゃならなかっただろうが」
「なるほど」
と、イラージュは妙に重々しく答え、ふーッと長いため息をついた。
「外聞ってのは大事だろうな。確かに仕方がない。で、俺はどうすりゃいいんだ?」
まるで昔のイラージュに戻ったかのような、すべてを信じ切ったような口調だった。
フェリドゥーンは一瞬だけ躊躇ってから答えた。
「手立ては三つだ。ひとつは譲位に応じること。ま、その場合、ビルマーヤ姫のお子とやらも長くは生きないだろうが。パルティアは近い。二十年もすれば名実ともに属州アルドヴィ・スーラーだ。で、もうひとつは属州ヒベリアーー似た名前がどこかにあったから、属州ヒベリア・マイノールとでも名付けられるのかもしれん」
「どういう意味だ?」
「小ヒベリア」
「小さいのか? この国は」
「小さい。今現在で一番小さいローマ属州の半分程度だ」
「へえ。そんなに小さかったのか!」と、イラージュは鼻を鳴らした。「で、要するにどういう意味だよ?」
「要するにローマを頼るって意味だ。この場合王族は手厚く遇していただけるそうだ。都に招かれてな」
「ローマの? 西の海の向こうの?」
「ああ。遥かに二つの海の向こうの」
「悪くないな。馬は連れていけるのかな?」
「馬は無理だろう。人だけだ。ローマの傘下に入るなら独自に戦う権利は認められないはずだ」
「そりゃもう《戦士の長》じゃないな! 三つめは?」
「それが一番単純だ。譲位を拒んで自力で戦う」
「勝てるのか?」
「無理だろうな」
「それでも戦いたいのか?」
「ああ」
うっかり答えてしまってから、フェリドゥーンは苦笑した。
「まあなんだ。それはこの際重要じゃない。無策な抵抗は傷を増やす。力で抗えない以上は服して迎えるのが上策だ。譲位かローマか選べ。俺はローマを勧める」
「でも、本当は抗いたいんだろう?」
「抗いようはないんだよ」
「そこはどうでもいいんだって。つまり、気持ちとしてはさ」
「それはまあ、気持ちとしてはな」
のらりくらりとした問答が面倒になってきたフェリドゥーンは、ともかくも会話を打ちきろうとおざなりに頷いた。
すると、不意にイラージュが心底嬉しそうに笑った。
「ならそうしよう」




